『公研』2021年12月号「めいん・すとりいと」

 

 最近よく耳にする「非科学的」という言葉。どこで耳にするかというと、相手の議論の価値を貶める文脈で使われているようだ。「非科学的」と言うことで、相手の知的レベルへの疑念と、相手の議論の非論理性を聴衆に訴え、自分を有利な立場に置こうとしている。いっぽう、自分の議論が「科学的」であることの論証はしない。これはよくない議論の方法である。相手の立場を「非科学的」と決めつけることで、自分の議論が科学レベルではなく政治レベルであることを隠蔽する効果もある。

 これがまかり通ってしまうのはなぜか。一つには科学には権威があるという信念、もう一つには科学的であるとはどういうことかについての理解の浅さがある。

 科学には権威があるという信念は、驚くほど揺らがない。そればかりか、情報技術の進展と共に強固になってきているように感じる。分解しても仕組みがわからない機器が増えたことにも原因があろう。携帯電話を壊せば少なくてもキー入力の仕組みはわかるが、スマホを壊しても電池で動いていることしかわからない。仕組みがわからなくても原理がわかるような教育が必要で、原理がわかることで信頼し、便利なことで信頼しないことが大切だ。

 いっぽう、科学的であるとはどういうことか、については信念の更新が可能であると思う。こちらが変われば、第一の点を動かすことも可能かも知れない。現状で、科学的であるとは、現象の再現が可能であり、その現象を説明する理論の反駁が原理的に可能であり、大量のデータにもとづき、同僚研究者の査読を受けて正式に学術誌に掲載されたもの、という信念があるようだ。

 これらの信念は、初期値が確定可能で、その後の動力学が決定しているような現象についてのみ適応可能である。実はそのような現象はそれほど多くない。特に人間の行動が関わる現象においては。現象に再現性があるという点は、相手にする現象が固定的な存在であることを前提としている。相手がこちらの出方(測定、介入、予測など)に応じて変わってしまうようなシステムでは、再現性は難しい。このような現象では、反証可能性も科学性の保証にはならない。

 大量のデータがあるというのも、科学性の保証にならない。それらのデータがどのような集団を相手にどのように計測したのかが問題になる。ましてや、査読を受けて学術誌に掲載されるということは、今や権威付けにも科学性の保証にもならない。査読の厳密性は人脈次第のところもあるし、掲載の可否は話題性による部分もある。

 それでもある研究が科学的であるかどうかを判断することは可能である。定義可能な対象に対して定義可能な介入を行い、定義可能な計測を行うことである。ただし、これらが可能な領域に私たちはもはやあまり興味を持たなくなってしまっている。であれば、科学的かどうかという尺度はもはや議論の正当性を保証しない。非科学的であるという禁じ手それ自体が非科学的になってしまった。必要なのは議論の相手への誠意と敬意なのだが、言語が騙し合いの道具でもある以上、それも期待できない。そういうわけで、私は道に迷っている。言語を共創の道具にするにはどうしたら良いのか。

東京大学教授

 

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事