三浦 瑠麗 『公研』2020年3月号「めいん・すとりいと」
令和への御代がわりからもうすぐ一年が経とうとしています。時代が改まったことも少し経てば当たり前のように感じるほどに、日本という社会は現状維持に慣れ切っています。新型コロナウイルスの脅威は世界を大きく揺るがしましたが、これもウイルス禍が終わってみれば日本社会を変えるような出来事ではなかったという総括になるでしょう。
今の日本に対して、安倍政権に対して、絶望感を抱いている人が一定数存在することは確かです。そこに漂っているのは「世も末だ」という認識でしょう。政策理念ではなく、日本がどうしようもなく壊れてしまっているという感覚であり、現在の権力者に対する違和感の表明です。このような終末思想は、自民党を支えてきた統治の安定を重視する保守的な価値観とは対極にあります。
現状の秩序を否定するこうした感情は、変化を求め、自然災害に理由を見出そうとする考え方とも親和的です。だからこそ、新型コロナウイルスの脅威が出てきたときも、東日本大震災のときにも、もうこんな日本ではだめだ、終わりだ、という末世観がより強く認識されたのでしょう。
けれども、今の社会を「末世」と見るか否かは、客観的状況よりも受け手の側の主観に大きく左右されます。今から振り返ればそれほど悪くもなかったと思える時代でも、末世的感覚を覚えた人はいました。末世の思想は、昔流行したスタイルがまた流行るようなサイクルで訪れ、その都度新たな読者を獲得します。客観的に言えば、それほど良くもないが、悪くもない、という状況においてさえ、強固な末世の感覚を持つ人びとのマーケットが存在するということです。
ではこの末世観はどこからやってくるのか。一つには、自らの奉じる国民的物語が成り立たないことへの苛立ちでしょう。二つ目には、変化しない日本への苛立ち。三つ目には、精神性に頼ることがそのような痛みに対して癒しの作用をもつからかもしれません。
末世観が一概に間違っている、と言うつもりはありません。ただし、そこには崩れゆくものへの郷愁、美化された過去を懐かしむ気持ち、自らやその属する集団の地盤沈下を国全体の物語であると受け取りたい、という願望が込められています。
末世観の流行は、日本に限った問題ではありません。中産階級が明日に希望を見出せない中で、資本主義への信頼を失う。国内の亀裂が拡大し、 陰謀論が流行する。エリートの凋落が、党派性という別の要素と絡むことによって末世観が肥大する。こうした構造がグローバルに存在することは、いまの大統領選予備選が行われている米国社会を見れば明らかです。
ただし、先進各国のなかでも特異に安定している日本の特徴は、末世観の流行だけでは統治の安定は揺るがないこと。国民感情に配慮し、「脇を締める」政権運営に戻ることが、そのような末世の物語性に抗う手立てとなります。一方で、政権運営の脇を締めたり、新型コロナウイルスの流行に当たって「果断なリーダーシップ」をアピールしたところで、国民に明確な物語を提供することにはなりません。問題の本質から目を背け、民心を荒立てずに統治してきたのが日本の保守政治なのですから。
その副作用は、一部の熱狂的な現状否定層によってのみ物語性が担われてしまうという効果です。両者は互いに永遠に交わることのない世界観を生きています。統治を優先した保守が、時代の変化に応じた「語り」を提供しなかったツケは、極度な悲観をのさばらせてしまう効果にあるのです。 国際政治学者