2022年8月号

 NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で初期の鎌倉幕府の様相が描かれていることもあり、鎌倉を訪れる方が多い。講演会やシンポジウムなども頻繁に開催されている。鶴岡八幡宮境内にある市立博物館鎌倉国宝館の館長を昨年からつとめており、若いころから鎌倉時代の仏像の歴史、とくに仏師運慶のことを研究しているわたしも、なかなかいそがしい。

 運慶は、平安時代末期に奈良を本拠とする奈良仏師の一人康慶の子として生まれた。父康慶は奈良仏師でありながら、後白河院の京都蓮華王院の造像に抜擢され、運慶もそのころに独立した造像を開始した。安元二年(一一七六)に完成した奈良市・円成寺の大日如来像がいま知られる運慶の最初の作品である。運慶はその三年前に長男の湛慶が誕生しており、そんなことから運慶はそのころ二十代で、一一五〇年ころの生まれと考えられている。

 運慶が大日如来像を造ってから八百年後にあたる一九七六年、わたしは円成寺大日如来像をテーマに卒業論文を書いていた。この像を造っていた運慶と卒論を書いている自分とは同じ年齢ではなかったか、つまり自分と運慶は八百歳の年齢差なのではないかと妄想をいだいたのはそのころである。その後、大学院に進み、博物館や大学教員をへて、運慶や仏像の勉強を続けているが、自分と同じ年齢のころ、運慶が何をしていたかは、いつも気になっていた。

 運慶の三十代は、源頼朝の挙兵や平家による南都焼き討ちに始まり、平家の滅亡、鎌倉の頼朝政権の確立にいたる時期だが、運慶はこの間に南都復興の造像に参加し、さらに北条時政の伊豆の寺の仏像を造って新政権との関係が始まった。

 四十代では、おそらく鎌倉で源頼朝関係の造仏をにない、「鎌倉殿の大仏師」ともいうべき存在になった。その勢いで、頼朝が造営を支援した、奈良東大寺大仏殿の大仏を囲む巨像群を、父康慶とともに運慶の一門が独占的に造り、一門は大躍進した。その数年後、頼朝が没する。享年五十三歳だった。

 五十代で運慶は快慶とともに東大寺南大門に現存する二王像を造り、「法印」という仏師の最高位をえて、名実ともに仏師の世界のトップに立った。やはり現存する運慶作品として有名な興福寺北円堂の無著・世親菩薩像なども、この年代の作品である。

 六十代でも運慶は健在である。京都の法勝寺という、院政政権にとってもっともだいじな寺の仏像を造り、長男湛慶を自分と同じ位につけたほかは、三代将軍源実朝や北条政子・北条義時など幕府中枢の人物の重要な造仏を担当している。

 運慶が七十代にはいるのは、後鳥羽上皇が執権北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた承久の乱のころである。二年後、貞応二年(一二二三)十二月十一日に運慶は没する。乱の直前の運慶の鎌倉方支持の姿勢は、その後の一門の繁栄にもつながった。安息のなかで死をむかえたのではなかったろうか。

 運慶のこのように栄光に満ちた、そして劇的な生涯を研究のうえで追いながら、わたしは自分の人生をそれとくらべて、菲才を嘆き不運を恨んできたのだが、いつのまにか時は過ぎた。数えでいうなら、わたしももう七十歳。運慶の死の年齢にも近づき、自分はこれまでどのように生きてきて、これからどのように死に向かってゆくのだろうかと、思いをめぐらすことも多い。

 そのようななか、最近、ある講演のために運慶の死の前後を年表にまとめ、関係者の没年齢を記入する機会があった。運慶の死の四年前に将軍実朝は二十八歳で死んだ。甥公卿による暗殺であるのは、よく知られたことだろう。そして運慶の死の翌年に北条義時が六十二歳で、翌々年には北条政子が六十九歳で、あいついで世を去っている。同じ時期に、それぞれの人物がそれぞれの年齢で、それぞれに死んでいったのだが、それらの人生の交錯が時代と歴史をつくってきたのだと、あらためて気づかされる。

 自分の人生も、自分のささやかなしごとも、ほかの誰かのそれらとどのようにかかわってきたのか、検証してみてもよいのかもしれない。

鎌倉国宝館長、半蔵門ミュージアム館長

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