『公研』2024年7月号「私の生き方」
金属工芸家 第9代東京藝術大学学長 第22代文化庁長官
宮田亮平
みやた りょうへい:1945年新潟県佐渡市出身。70年東京藝術大学美術学部工芸科卒業、72年同大学大学院美術研究科(工芸・鍛金専攻)修士課程修了。大学院修了後は同大非常勤講師に就任。以後、同大助教授、教授、美術学部長などを経て2005年第9代東京藝術大学学長に就任、16年まで3期務める。16年2月から21年3月まで文化庁長官を務める。現在は公益社団法人「日展」の理事長を務めている。東京藝大工芸科で鍛金技法研究の指導に当たる一方、金属工芸家としても世界的に活動。代表作にイルカをモチーフにした「シュプリンゲン(Springen)」シリーズがある。また東京駅に設置されている4代目「銀の鈴」など多数のパブリックアート作品がある。受賞歴に第46回「日本現代工芸美術展」内閣総理大臣賞、2012年日本芸術院賞、 第18回「日本現代工芸美術展」文部大臣賞など。著書に『イルカのごとく』などがある。
佐渡の紅葉は抜群に美しい
──1945年佐渡島のお生まれです。佐渡には四季折々の魅力があると思いますが、宮田さんが特に好きな時期はいつでしょうか?
宮田 晩秋だね。佐渡の紅葉は抜群なんだよね。紅葉のなかに、ところどころに針葉樹の緑が入っているのが綺麗なんだ。赤や黄色がいっそう映えるのは、緑があるからなんだよ。色彩のバランスがとれていて本当に見事だった。
その美しさを最後にして、自然は雪に身を隠してしまいます。それからは、長い冬の寒さに耐えなければならない。今と違って当時の佐渡の冬は本当に寒かったから、冬のあいだは春が来るのをずっと待っていました。けれどもツラいことばかりじゃない。寒くなると魚に脂が乗って美味くなるんだ。海が荒れているからなかなか獲れないのだけど、そんな貴重な魚をみんなでいただいたことはよく覚えています。佐渡には四季折々の違いがあって、それを自分のなかで咀嚼することを積み重ねながら育っていった感じですね。
──印象に残っている佐渡のお魚は?
宮田 好きだったのは、カサゴやメバルなんかの根魚ですね。サヨリも綺麗でおいしかった。いろいろな魚がいたけど赤身の魚はいなくて、東京に来て初めてマグロを食べたんです。おふくろは、最後まで赤身の魚には箸を付けようとしなかったな。
僕自身もたらい舟に乗って、釣りをしていました。たらい舟は底が平らだから、浅いところでも下を気にせずに岩と岩のあいだをクルクルと動くことができる。普通の舟と違って、小回りが利くんです。藝大に受かって最初の夏休みに帰省したときに、夜中に大きなスズキを釣ったときは気分が良かったね。夜釣りだからスズキが飛び跳ねたときに、糸がシュシュっと光って吊り橋のように綺麗に見えました。まるで、ディズニー映画の『アナと雪の女王』で雪の結晶が輝いているような場面でした。光の正体は、夜光虫が光っていたわけです。スズキを釣り上げて持って帰ると、父が魚拓をとって、即興で詠んだ句を魚拓の横に添えてくれました。
「生と死を見極めながら魚拓すり 流転する海のわびしさを知る」
印象的な出来事があると、単なる頭脳的記憶ではなくて、視覚と触覚に訴えるかたちで思い出を刻んでくれるのは我が家のおもしろさですね。あれは嬉しかったな。
実家は蝋型鋳金を生業としていた
──ご実家は、佐渡の伝統的な金工の技法である蝋型鋳金(ろうがたちゅうきん)を生業とされていたそうですね。
宮田 江戸時代までは染物をやっていましたが、明治になって蝋型鋳金を始めたのが初代・宮田藍堂です。僕の祖父ですね。「藍」の字は藍染めに由来しているのですが、祖父の時代には藍染は完全に廃業していました。
蝋型鋳金は、最初に松ヤニと蜜蝋を混ぜてつくった素材でかたちづくった原型を土で包んで焼きます。熱を加えると中の蝋は完全に消失して空間ができるから、そこへ金属を流し込むわけです。古来からの方法だけど扱うのはたいへんです。鯛焼きの鋳物の型などとは違って、複雑なかたちや繊細な模様や細工を高い精度で施すことができるところがおもしろい。
中国や朝鮮半島から日本に入ってきた技術なのだけど、佐渡に持ち込んだのは金工家の初代・本間琢斎とされます。祖父も本間に師事して、蝋型鋳金の技術を身に付けるんですね。盛んな時期には、佐渡の小さな町に7軒も蝋型師の家があったそうです。
祖父はその後、東京へ修行に出ました。そこで東京美術学校(現在の東京藝術大学)に鋳金の講師として招かれます。東京美術学校は国の殖産興業として活動していたようです。彫刻家の高村光雲の指導のもと、皇居外苑に立つ楠木正成公の銅像制作にも携わっています。明治35年からは佐渡に戻って活動しますが、父が中学校3年生のときに祖父は亡くなっています。父も祖父から指導を受けたわけではないし、僕たちきょうだいは誰も会ったことはありません。祖父の作品を見ると、会って話をしてみたかったですね。すごい人だったと思います。
金属を叩く音を聞けばその人の技量がわかる
──ご実家には松ヤニや蝋蜜の香りがいつも漂っていたのでしょうか?
宮田 蝋蜜は、香りはほとんどありません。松ヤニは独特な香りがします。それよりも金気の匂いがしていましたね。それに金槌やたがねで金属をカンカン叩く音が一日中聞こえました。小さい頃から、制作中の父の姿を見るのが好きでしたね。工房に入り浸っては飽きることなく眺めていました。僕は金属を叩く音を聞けば、その人の技量がわかるんですよ。上手な人の音はどんなに大きくても心地よく響くんです。
──松ヤニに蜜蝋を混ぜたもので原型をつくるという発想はすごいですね。
宮田 自然の中から、素材を見つけ出して利用してきたことには感心しますね。蝋型鋳金は、型のなかに銅に亜鉛やスズ、鉛を合金にしたものを流し入れる「吹き」という作業がポイントになるんです。ここで失敗すると、それまでの苦労がすべておじゃんになってしまう。一発勝負ですから、「吹き」が行われる日は朝から家中に緊張した空気が張り詰めるんです。暗いうちから鞴(ふいご)の「スーパタン」という音が聞こえてくると、「きょうは吹きだ」と布団のなかで緊張しました。
夜になって冷めた型を壊して、作品を取り出します。金属が均一に流れていなければ、最初からやり直すことになる。うまくいけばいいのだけど、失敗だったときは家中が重苦しい雰囲気でしたね。
──宮田さんも蝋型鋳金で制作されるのですか?
宮田 僕はやりませんでした。父が2代目の宮田藍堂で、一番上の兄(宮田宏平氏)が3代目を継ぎました。今は兄の息子(宮田洋平氏)が福岡教育大学で教授として教えていますから、技術は伝承されていくでしょう。
ただ、いい材料が入手できなくなっています。松ヤニは精製されたものではなくて、樹木から直接噴き出しているものを採取するのがいいのだけど、入手するのは結構むずかしくなっている。蜜蝋も温暖化の影響なのか、良質なものが採れないそうです。材料が悪いと腰が弱くなってしまって、細い線を型取ろうとしても崩れてしまう。兄の作品なんかは、とても細い線で表現するものがあるけど、今の材料でそれをやるのは限界が出てきているんです。
7人きょうだい全員が芸術の道に
──一番上のお兄様は3代目、宮田藍堂としてお父様の跡を継がれましたが、他のごきょうだいも芸術の道に進まれたそうですね。
宮田 長女の悦子は「書」を続けました。2番目の兄、修平は藝大を出てから愛知機械工業にデザイナーとして勤めました。デザインセンスが良くて絵も上手かった。次女(睦子)も藝大に進学して、工芸科で彫金を学び、舞台美術の世界で活躍していました。三女のやす子は女子美術大学で染織、四女の友子は武蔵野美術大学で油絵をそれぞれ学びました。