『公研』2019年4月号「私の生き方」

井上たかひこ・水中考古学者、作家

水中考古学とトレジャーハンティングは違う

──2019年2月6日、南太平洋で沈んだ旧日本海軍の戦艦「比叡」が、ソロモン諸島・サボ島沖合の海底で見つかりました。

井上 比叡を発見したのは、米マイクロソフトの共同創業者で2018年に亡くなったポール・アレンさんのチームです。同チームは、15年に戦艦「武蔵」を発見しています。オクトパスという海洋調査船を持っていて、船内にROV(有線式遠隔操作型の無人潜水機)とAUV(自律型の無人潜水機)という二種の水中ロボットを装備しています。さらに何十人ものスタッフ、専門家を雇って調査チームをつくり実績を上げてきました。彼は、そういうものを個人的に用意できる大資産家でしたね。

──ポール・アレンの仕事は、水中考古学なのか。あるいはトレジャーハンティング(宝探し)なのでは?

井上 トレジャーハンティングではないと思います。武蔵を発見したときも、日本政府が調査したいのなら協力すると言っていました。ただ、日本政府の反応は及び腰でした。どういうことかと言うと、武蔵ぐらいの大戦艦になると、乗組員の遺骨がたくさん眠っているでしょう。日本政府としては、武蔵の遺骨収集をやるなら他の艦も、あるいは玉砕した戦場も……という声が次々あがることを予想したのではないでしょうか。どちらかと言うと、私は消極的だったと見ています。

 実際、引き揚げとなると、難しい問題が多々あります。引き揚げたものをどこに保管するのか。例えば、戦艦武蔵の博物館をつくるとすると、全長が260メートルもあるから巨大なものになります。それと、鉄船というのは、海底に放置しておくと当然錆びますね。腐食して何百年か経過したら朽ち果ててなくなってしまう。引き揚げたものを保存する技術はいろいろありますが、水中に置いたまま保存するのはまだ難しいのです。

 2016年5月に広島県の呉市が、戦艦「大和」の潜水調査をしました。翌17年9月にその調査を踏まえたシンポジウムが開かれ、私は『水中考古学の視点から、潜水調査映像をみる』という講演をしました。大和の調査では、ハイビジョンカメラで鮮明な映像を撮影できましたが、船体は思った以上に崩壊が進み広範囲に散乱していました。おそらく武蔵も同じような状況でしょう。

 日本人にとって、大和、武蔵、そして比叡といった戦艦はある種のヒーローなわけですが、シンポジウムで講演しながら大和の無残な姿を思い出して、少し涙がこぼれてしまいました。大和ミュージアムの戸髙(一成)館長は「砲身を一本引き揚げたい」という希望をおっしゃっていましたが、全体を引き揚げるのは非常に困難です。

──水中考古学とトレジャーハンティングの違いはなんですか?

井上 ひとことで言うと、トレジャーハンターの目的は金儲けですね。回収したものをオークションにかけて資金を得る。水中考古学者は、それはやりません。学問的な調査ですから、引き揚げたものは地元の博物館、教育委員会などに提供します。きちんと報告書を作成して歴史的な資料とします。このような調査を継続的にやり続けるのが、水中考古学です。

──水中だけでなくあらゆる遺跡や財宝を探し出してきたトレジャーハンターの歴史は、古代エジプトの時代まで遡りますね。

井上 そういう稼業を学問的なレベルまで引き上げたのが、私の恩師であるジョージ・バス博士(テキサスA&M大学・水中考古学研究所)です。彼は、1960年にトルコ南部、ゲリドニア岬海底の沈没船を調査しました。その調査は陸上と同じ考古学的方法を組織的に実践し、多大な成功を収めました。彼は「水中考古学の父」と呼ばれるパイオニアです。

 人間が生身で潜れるのはせいぜい50メートですが、それを補うのが技術革新です。例えば、バス博士のチームは、小型潜水艇アシェラを使って150メートルぐらいまで潜水していますし、ポール・アレンさんのプロジェクトは潜水ロボットを使って成果を上げました。21世紀の水中考古学は、深海考古学に向かって行くと思います。

──トレジャーハンターのほうも……

井上 彼らもハイテクを装備してきています。われわれも知らないような新鋭機器を使っていることもある。彼らは金目当てですから、必死なんですよ。

 カリブ海には、中南米から略奪した金銀財宝を積んだ昔のスペイン船がたくさん沈んでいて、それを狙うトレジャーハンターの根城がフロリダ半島にあります。カリブ海の沈没船はわりと水深が浅いところにあるものが多いが、深いところにあるものはやはり潜水艇やロボットなどのハイテク装備が必要です。

 ただ、2009年に発効したユネスコの「水中文化遺産保護条約」では、商業的利用を禁止しています。これを無視すれば不法行為となるので、これまで世界中で無秩序に行われてきた水中での略奪や盗掘行為も、次第にその活動の場を狭めていくでしょう。

「優」は四つしかなかった

──お生まれは茨城県の……

井上 昭和18年に日立市で生まれました。2歳で終戦です。小学校へ入る頃は食べるものに苦労しました。進駐軍がくれるおまんじゅうや缶詰をもらって食べたのを憶えています。脱脂粉乳の時代ですよ。道路を舗装するアスファルトのドラム缶が蓋が開いたまま道端に置いてあると、そのアスファルトを取ってガム代わりに口に含んでいたこともあります。

 現在は「飽食の時代」と言われるように、食べることに困ることは少ない。あの当時を思うと今は幸せだと思いますね。

──ごきょうだいは?

井上 私は三人兄弟の真ん中です。食べ盛りなのに、子供の頃は正直貧しかったですね。

──お父さんのお仕事は?

井上 親父は国家公務員で、職安に勤めていました。戦時中は、日立製作所で設計技師をしていた。終戦直後に日立の工場近くに行くと、艦砲射撃や爆撃の跡がいたるところにありました。

──疎開されましたか?

井上 日立の軍需工場が狙われましたので、袋田の滝で有名なのほうへ母親に抱かれて疎開したようです。赤ん坊でしたので全く憶えていませんが……

──どんな少年時代を過ごしましたか。

井上 少年時代は、漁港に係留してある船と船の間をよく泳いでいました。海で遊んでいるとき小説の『宝島』に思いを馳せ、海に沈んでいる難破船を探してみたいなぁということを子供ながらに夢みていた気がします。

 漁港には、潜水作業船が係留されていて、ヘルメットダイバーを見かけました。潜水夫は、ガラス窓のついた金属製のヘルメットを被って重りの入った靴を履いて水中に潜り、水上からのホースを伝って送られる空気で呼吸します。これを漁業でも使っていたんですね。それを見ていたことも、水中考古学の道に進んだことに影響したかもしれません。

 小学生のころは優等生でした。中学校の文化祭では、先生にすすめられて演劇の主役を3年間務めたんですよ。ロシア文学の『イワンのばか』とか、3年生の時には菊池寛の『恩讐の彼方に』をやりました。まぁ中学生ですから、作品の一部を切り取った、そんなに難しいものではなかったと思います。面白かったですね。演劇の道もあったかもしれないと今でも考えます。あと、中学時代はテニスをやったりしてアウトドアが好きでした。

 高校は、ほとんど受験勉強をしないで入ることができました。本当は、水戸一高がよかったんですけど、先生には受けてもいいと言われましたが、滑り止めの私立も考えておけということでした。結局、通学のことも考えて地元の県立高校へ進みました。そこにはすんなり入れた。高校まではあまり勉強しなくても成績をキープできました。

──東京の大学に進学されますね。

井上 法政大学に進みました。入学金が数万円の時代でしたが、東京で下宿住まいですからわが家の家計には重かったですね。だから、アルバイトしたりそういう経験はたくさんしました。学部は経済学部です。特に理由はなくて、友人がそこを受けると言うので、俺もそうするかといういい加減な選び方でした。東京の下宿先には、大学はバラバラでしたが勉強しないヤツばかりいたんですよ。下宿に転がり込んだらいきなり麻雀ですからね。大学生活のスタートから環境が良くなかった(笑)。問題意識がまったくありませんでしたね。

 だから、勉強しないで遊んでばかりいました。大学の成績は落第するほど悪くはなかったのですが、卒業するときは「優」は四つしかありませんでした。一年に一つということで、劣等生でしたね。

 将来をどうするかなんてこともまったく考えていませんでした。その後も、流されるままに生きていました。それまで勉強してこなかったことの反動と言うか、30歳を過ぎてからそのことに気がついてアメリカに留学することを決断したんです。

20代、30代は「ヨットが人生」

──大学はなんとか卒業できた……

井上 親父のコネで日立の関連会社──保険会社に就職できました。それからは楽園のような生活が始まりました。20代、30代で楽をしすぎたことが、後に反動として出たのかもしれません。

 就職した会社は、日立グループの保険関係を一手に引き受けていました。工場の火災保険、製品輸送の保険などから社員向けの生命保険、損害保険などまで扱っていた。私が工場に出向くと、保険を受け付ける部屋を用意してくれるんですよ。その部屋に、家を建てた社員が来て火災保険に入ってくれたり、自動車を買った人は損害保険に入ってくれたりしました。

 就業時間が9時から4時半なんですよ。そのころは土曜日が半ドンで隔週で休みでした。そのうち、週休二日になったからまったく天国でしたね。夏の4時半なんてまだ明るいわけですよ。家路につくのは早いので、どこかに引っかかって飲んだくれるという生活を続けていました。

──そして一つの転機が訪れる……

井上 ええ、ヨットを始めました。のめり込んでしまって、「ヨットが人生」でした。霞ヶ浦のヨットクラブに入ってからは現金なもので、それまで夜中まで飲み歩いていたのをきっぱりやめて、金曜日は翌日のヨットに備えて早く帰るようになりました。早寝して朝早く家を出て霞ヶ浦へ向かいました。土曜は一泊して日曜に帰るという生活は楽しかったですね。

 ヨットをやっていると、天候を読んだり潮位を調べたり風の向きを計算したりと、いろいろ勉強になりました。そういうことに加えて、ヨットクラブに所属している異業種の人たちとの交流が私の大きな財産になりました。新聞社や貿易会社に勤めている方、お医者さん、八百屋さんといったバラエティ豊かな職業の人と分け隔てなく付き合ったことで、自分がいかに井の中の蛙だったかということに気づき、非常に刺激を受けました。

 その縁で顔を出すようになった日本海事史学会で出会った大学の先生に教えられ、水中考古学というまだ新しい学問分野を知りました。まるで小説『宝島』にも似た冒険性に富む世界を学問として学べる、その魅力に強く惹かれました。

バス博士に直談判の手紙を書く

──それで安楽な生活を捨てて海外留学……

井上 高度経済成長に乗って毎年給与が何万円単位で上がる時代です。待遇で一度も不満を持ったことがない安定したサラリーマン生活でした。それでも心の隅に、企業の歯車の一つである自分に物足りない気持ちが芽生えてきました。

 最初のきっかけは、社内の昇格試験で英語の勉強を始めたことです。密かな楽しみと言うか、まわりに隠れて英語を勉強することがおもしろかったんです。それが病みつきになってしまった。

 それから、今まで遊びほうけていた自分の時間を取り返せないものか、もっと英語を勉強して海外に出て専門知識を身につけられないか、と思ったんですね。留学を考えたのは30歳を過ぎてからです。結婚していたし、語学力や留学資金の問題もありますから、すぐには実行できる状況ではなかった。一方で、実行するなら親が元気なうちのほうがいいとも考えた。実際に、会社に辞表を出すのは40歳を過ぎてからになってしまいました。

──40歳を過ぎたら夢を諦める人のほうが多いと思います。

井上 実は、上司と折り合いが悪かったんです。上司から見ると、会社の中で中堅になっているのにヨットに入れ込んでいる私の仕事に対する姿勢は生ぬるい点もあったのだなと、今なら思います。当時は、最終的に顔も見たくないと思うほど険悪になってしまいましたが……

 会社を辞めてからは紆余曲折の連続でした。英語の勉強と言っても独学ですから、アメリカの大学院留学に必要なTOEFL550点にどうしても届きませんでした。一度、米テキサスA&M大学に願書を出したのですが、ハネられてしまいました。

 そこで一計を講じて、日本水中考古学会を頼ることにしました。当時、同学会は静岡県清水市の東海大学海洋学部内に事務局を置いていました。前総長の松前重義氏の後ろ盾があったからです。まず、事務局に問い合わせて学会の会員になることから始めました。会費を納めると、学会誌の創刊号が送られてきました。その中にテキサスA&M大学・水中考古学研究所(INA)を紹介する記事も載っていました。

 巻末に掲載されている水中考古学会の連絡先を頼りに、ある大物教授に接触を図ってみることにしました。東海大学名誉教授の茂在寅男先生──日本の水中考古学の草分けです。茂在先生は、長崎県の北松浦で元寇の遺物の発見、南米チチカカ湖においてプレ・インカの遺物の発見など世界的な業績があり、バス博士とも親交がありました。先生のご自宅を訪ねて助力をお願いしました。そうしたら、あっさり「いいよ」と紹介状を書いてくださったのです。

 推薦状を添えてテキサスA&M大学へ願書を送ると一度は不合格の返事が来て落胆したのですが、交流のあった地元短期大学の英語講師の助言でバス博士に直談判の手紙を書いて送ると、水中考古学研究所で受け入れてもらえることになりました。家族を連れての留学の準備、現地での住まい探し、娘の小学校入学と大忙し。さらに、大学には語学力がない学生向けのELI(English Language Institute)がありました。そこで及第点を取れないと、学部の授業を受けることができないんです。

 アメリカの大学は厳しいですねぇ。ELIは二度とやりたくない。この英語学校をなかなか卒業できない自分にふがいなさを感じました。家族を日本から呼び寄せたことも負担になってしまった。泣く泣く家族を日本に帰すことにしました。せっかくアメリカに馴染んできた妻も娘も寝耳に水だったに違いありません。クリスマスごろに一緒に帰国して妻の実家へ家族を残し一人帰米しました。

──背水の陣ですね。

井上 正月を返上して勉強した甲斐があって、ELIを卒業することができました。それをバス博士に報告に行くと、「OKイノウエ、ウル・ブルン難破船に調査に行くといい」と言って、その場で秘書に交通費を出すように指示してくれました。地中海のトルコ沖に沈むウル・ブルン難破船は、今まで見つかった中で世界で一番古い船です。そして、水中考古学研究所の中で特に優秀な学生だけが参加資格を与えられる場所なのです。バス博士の粋な計らいでした。

「日本へ帰れ!」

──水中考古学者への第一歩ですね。

ウル・ブルン難破船を調査中の井上氏(提供:INA)

井上 私はウル・ブルンで初めて海底での発掘調査に参加したんです。私の耳管は狭くて「耳抜き」が容易ではないらしく、当時は潜るとすぐ耳が痛くなって、なかなか先に進めませんでした。直前にスキューバダイビングのライセンスを取得した際は15メートル程度だったので何とかクリアできたのですが、難破船が沈んでいるのは約50メートルの海底です。ELIをくぐり抜けてやっと現場まで来たのに海底まで潜れないのではシャレにならない。私は猛特訓をし、1週間ほどで何とか素早く潜れるようになりました。

 生まれてはじめて見る難破船の周りには、大小の壺や高価な貴金属類、銅の地金などが折り重なるように散乱していて感激で心が震えました。2カ月半のウル・ブルンの調査を終えて8月末にテキサスに戻り、バス博士に報告するとともに選択科目の相談をしました。その結果、「保存科学」「水中考古学入門」「考古学概論」の三つを履修することにしました。

 ところが、しょっぱなの「保存科学」のセミナーが難しくて「D」を食らっちゃいました。大学院では80点が合格ラインなのですが60点しか取れなかった。それでジョージ・バスは烈火のごとく怒りまして、「日本へ帰れ!」と言われてしまった。さらに、現在のレベルでアメリカの大学で水中考古学を学ぶより、日本の大学に編入したほうがいいだろう、という厳しい忠告が続きました。その忠告に反論できるわけがありません。

 熟慮の結果、東海大学に編入することにしました。このとき、松前先生の尽力で、編入とテキサスA&M大学で取得した単位を認めるように大学の規約を改定してくれたんです。日米を往復して編入の準備を進めましたが、一番の障害は学期の違いでした。日本の大学は4月から3月までの通年一学期ですが、アメリカでは春・夏・秋の三期制でかつセメスター制を採っています。ですから、翌年の4月にならないと中途編入できません。

 それをジョージ・バスに告げると、彼は辛そうな顔をしてしばらく考えていましたが、おもむろに「タカ、あと一期やっていけ」と言ってくれて、バス博士の授業──「バスコ・ダ・ガマの航海」を受けることができました。

 その後は、寝食を忘れて猛勉強をしました。テストが近づくと、図書館をねぐらにすることもあった。時間に追われていても、英語の授業にも慣れてきたこともあり保存科学の時のような悲壮感はありませんでした。期末に提出するレポートは、海戦で使われた手投げ弾にしました。入念な史料調査を踏まえ世界中の沈没船から引き揚げられた手投げ弾の実例を挙げ、それぞれを比較し全体的な検証を行いました。手投げ弾のイラストまで描いたレポートの完成は提出期限ギリギリになり、提出しに行った時はバス博士は不在でしたので郵便受けにレポートを入れておきました。

 バス博士は、カリブ海・ジャマイカのポート・ロイヤル海底都市の調査を許可してくれたので、私はジャマイカに向かいました。1692年の大地震で沈んだポート・ロイヤル港は、カリブ海に君臨した大海賊ヘンリー・モーガンの本拠地。ディズニー映画の『パイレーツ・オブ・カリビアン』の舞台になったところです。水深が浅いので調査しやすく、野外実習場として全米の大学に開放されています。レンガ造りの廃墟の街並みが延々と続く海底は、まさに「水底のポンペイ」のようです。このフィールド調査に参加していた時、バス博士から「タカによろしくと伝えてくれ」という伝言が現地に届きました。その時はたいして深く考えなかったのですが、日本に帰る覚悟を決めてテキサスに戻ると、ジョージ・バスは笑顔でこう言ったのです。「タカ、こちらで学位を取っていけ」と。

 ジョージ・バスは学業に対しては厳しいですが、親分肌の温情味のある先生です。バス博士は、勤勉な学生には温かい言葉をかけてくれる人だった。彼に教わったことが、私の血となり肉となりました。

鷹島で元寇船の海底調査

──水中考古学には、保存技術のような理系の知識、歴史のような文系の知識の両方が必要なのですね。

井上 幅広いですね。最近では水中ロボットなども使いますから、その方面の知識もある程度必要になってきます。実際の操作は専門家に任せることになりますけど……

 もちろん、実際に潜る前に、調査対象がどういう経緯で水中にあるのかを文献調査したり、現地の人の話を聞いたりします。私は日本に帰ることを想定して、卒業論文は「元寇船の研究」にしたので、中国の文献を調べるために中国語も囓りました。このように文系と理系の知識を総動員して調査と研究を進めます。

 1990年夏に卒論の下調べのために一時帰国しました。国会図書館で文献を調べた後、九州へ飛びフィールド調査に出かけました。その一環で、九州大学考古学研究室の西谷正先生を訪ねると、長崎県のでの元寇船の海底調査に誘われました。私には願ってもないチャンスでした。鷹島周辺で本格的な水中考古学の調査・研究がスタートしたのは1980年。その10年後、1990年7月に私は初めて鷹島の水中調査に参加したのです。

 私はウエットスーツに身を包み、ボンベを背負って漁船の船べりから海中に飛び込みました。ところが、それまで潜ってきた地中海やカリブ海、エーゲ海、大西洋といった明度の高い世界の海とは様相が異なり、暗い鷹島の海に不安や恐怖が募りました。当時はまだ軍船の痕跡がある海域がよくわかっていなかったため、具体的な成果は得られませんでしたが、この広い伊万里湾のどこかに元寇船は必ず眠っているという思いが私の胸に宿りました。

 その後も、学術調査や港湾整備に伴う調査などが行われ、木製の大碇や船体材、帆柱の台座などを確認。元寇船の特徴や構造などが少しずつ明らかになっていきました。2001年には「蒙古襲来絵詞」に登場する炸裂弾「てつはう」も出土。直径約15センチのほぼ球形で、破裂時の轟音と火煙で鎌倉武士を驚愕させた当時の最新鋭兵器です。内部には鉄くずが詰まったものもあり、殺傷能力の高い散弾式武器と判明。海揚がりの炸裂弾によって史実が裏付けられました。

──日本の水中考古学の黎明期について教えてください。

井上 東海大の茂在先生や東大の江上波夫先生が中心になって日本水中考古学会をつくられ、昭和50年代に文部省の科研費を3年連続で獲得して、鷹島を試験的に調査しました。その調査で元寇の物証──青銅の印が出ました。これを発見したのは鷹島の方で、アサリ採りに行った時に見つけたそうです。それをフィールド調査をしていた茂在先生たちに提出した。その印は元のパスパ文字で「管軍総把印」と刻まれていました。大成果だったわけです。その後、いくつか調査しましたが、なかなか思うような成果は上がりませんでした。当時は大学に講座がありませんでしたし、学問としてはなじみが薄かったですね。水中考古学会も眠ってしまいました。

 雌伏の期間が長かったですから、学会誌がなかったんですよ。私も含めて、アメリカから帰ってきてもどこに論文を出せばいいのか、みんな困ってしまった。

 そんな状況から、2007年の海洋基本法の成立や09年のユネスコの水中文化遺産保護条約の後押しを受け、東京海洋大学が09年4月から大学院に「海洋考古学」講座を開設しました。また、東海大学でも海洋文明学科内に講座を開いており、日本でもようやく水中考古学の胎動が聞こえ始めてきました。

「海底遺跡ミュージアム」構想

──エジプトのアレキサンドリア沖に都市が沈んでいますね。

井上 まさに「水中のタイムカプセル」と言えるものです。

──日本にはそういうものはありませんか。

井上 日本には耳目を集める遺跡はなかなかありません。

──沖縄の与那国島海底は?

井上 水中考古学者から見ると、あれは自然の造形だと思います。あの海域の陸上でも急峻な段丘がありますから……

 日本の役所の水中考古学に対する認識は非常に低かったんですよ。文化庁は陸上の考古学には熱心ですが、水中に対してはなかなか腰を上げなかった。それが最近変わってきました。そのきっかけになったのが、2011年に元寇船を発見したことです。翌12年、鷹島は南岸沖合の海域38万平方メートル余が「鷹島神崎遺跡」として水中遺跡では初の国史跡に指定されました。さらに14年には、同遺跡の東約200メートル、深さ約14メートルの海底から2隻目となる沈没船が見つかりました。

 それで文化庁は水中考古学に力を入れるようになりました。文化庁が全国の地方自治体にアンケート調査したところ、日本の水中遺跡は387カ所あるということです。実際はこれを上回ると思います。ユネスコの水中文化遺産保護条約では、少なくとも100年間水中にある文化遺産を水中文化遺産と定義して保護の対象としています。先ほどの比叡など「水中の戦争遺跡」も100年経ったら水中文化遺産になります。

 最近、千葉県の勝浦で行っている私のプロジェクト(黒船ハーマン号)に文化庁の主任文化財調査官が見学に来て、「陸上と比べて日本の水中遺跡の扱いは40年遅れている」と言われたんです。これからは日本の水中考古学を発展させなければいけないという認識はあるようです。

 文化庁では一昨年(17年)、日本における『水中遺跡保護の在り方について』を公表。陸上と同様、水中でも自治体が主体的に取り組むべきだとする国の指針が示されました。私たちにも追い風になることを期待しています。

──水中文化遺産をどう扱ったらいいのでしょうか。

井上 世界各国では、水中文化遺産を海底資源、鉱物資源と同様に文化資源として活用する動きが広まっています。ユネスコの水中文化遺産保護条約では、遺跡を発掘せず「現地保存」を基本原則としています。例えば、「海底遺跡ミュージアム」構想のように水中のまま、いかに活用するかに重点が置かれています。どういう方法で公開するかというと、船底から水中が見えるグラスボートを使う。あるいはスキューバダイビングで潜って見学する。三つ目は、専門ダイバーがカメラを持って潜って船上のモニターで楽しむ──ということが、イタリアのバイア海底考古学公園で実際行われています。エジプトのクレオパトラの宮殿では、インストラクターの案内でスキューバダイビングで潜ることができます。日本でも2007年8月にアジア水中考古学研究所が長崎県島でダイビングなどによる海底遺跡見学会を開催しました。

 このように、ただ遺物を引き揚げるのではなく、「海(水中)のタイムカプセル」として、いかに見せるかという方向へ変わって来つつあります。ただ、すべての水中遺跡が見学に適しているわけではありません。私が調査しているハーマン号が沈んでいるところは流れが速いですから、誰でも潜るというわけにはいきません。

──今まで水中調査して世界の海と日本の海の違いをひとことで言うと?

井上 日本の海は、地中海やカリブ海、エーゲ海、大西洋といった明度の高い世界の海とは様相が異なり、黒くて暗いですね。沖縄の海は別と思いますが……

勝浦沖に沈む「ハーマン号」

──現在手がけているハーマン号について教えてください。

井上 留学中、ルームメートのサムが「ヘイ、タカ! 日本に蒸気船が沈んでいるよ」と彼の愛読書『大西洋の蒸気船』を見せてくれたのが始まりでした。その蒸気船とは、幕末から明治維新期にかけ日本近海で活動した異国船「ハーマン号」。1869年、函館にこもる榎本武揚軍を討つべく、熊本藩士350人が米国人乗組員80人とともに横浜港を出港した後、房総沖でシケに遭い難破、犠牲者は二百数十人に及びました。沈没位置の手がかりは、遭難当時の『ニューヨーク・タイムズ』紙に載ったハーマン号船長の手記にあった「Kawatzu」の地名だけでした。

 アメリカから帰国した1992年、筑波大学の研究生になっていた私は、同船の足跡を追いました。最初の調査資金は、筑波大学の研究費と私費を合わせた100万円。資料集めの後、糸を手繰るように千葉県の川津漁協(現・新勝浦市漁業協同組合川津支所)への聞き取りも行いましたが、当初は密猟者ではないかと疑われたんですよ(笑)。あくまで学問的研究だということを説明して誤解を解くと、「海底には、太い鉄棒のようなものが何本も突き出ているところがある」と教えてくれました。そこが、まさに沈没場所だと直感しました。

 実際に潜ると、船の残骸上に、機関部らしき赤錆びた金属塊が多数露出していました。一帯からは大型の船釘、船底に張る真鍮板、熊本藩兵の持ち物と見られる土瓶やそばちょこ、米国人乗組員が使ったであろう19世紀半ばの洋食器類やワインボトルなども見つかりました。

 

勝浦沖の海底に沈む大型金属塊/
船体中央部の機関部分とみられる
(提供: 日本水中考古学調査会

 今年2月13日にも「ハーマン号慰霊祭」が勝浦市で開かれ、遺族や米大使館公使も出席して慰霊碑に祈りを捧げました。船体または周辺の砂礫の下にまだ大量の部材や遺物の存在が見込まれます。

 水中考古学の調査には、潜水の費用や船のチャーター、人件費など陸上の調査より費用がかかります。ハーマン号の調査では、一時、ナショナル・ジオグラフィック社の後援でテキサスM&A大学との合同調査が予定されていました。ところが、2008年のリーマンショック以降の資金難で頓挫してしまった。このような環境のもと、昨年(18年)7月、沈没から150年を記念した調査を実施。九州大学などの協力を得て「マルチビームソナー」や「写真測量」といった技術を使い、遺跡の正確な見取り図や立体地形図を作成、今後の本格調査に備えています。

 水中考古学の現場では常に資金不足です。諸外国では企業が社会貢献の一環として支援するケースが多い。私たちのプロジェクトにも、心あるスポンサーが現れてくれることを願っています。

水中考古学には冒険と同じロマンがある

──井上さんが水中考古学の世界に飛び込んだのは40歳過ぎですが、誰でも決断できることではありません。

井上 このごろの若い人たちは保守的と言うか、あまり冒険しないですね。ですので、もう少し冒険してほしいなとは思います。仕事選びについては、私が失敗したから言うわけではないのですが、おカネのために選ぶのではなく、自分の好きなものを、一生できるような仕事を選べれば一番ハッピーですよね。今はそういう選択肢が広がっていると思います。

 水中考古学者がやっていることは、スキューバして水中の遺跡や沈没船のありかを探ることです。やっていることは、財宝目当てのトレジャーハンターとは一線を画しています。つまり、一方は略奪を、他方は保護を目的とする敵対関係にあります。ですが、水中考古学には宝探しの冒険と同じロマンがあります。たまには宝の山を発見することもあるかもしれませんが(私にはまだありませんが……)、私たちは金儲けのために沈没船や遺跡を探しているわけではありません。それよりもっと価値のあるもの──歴史をくつがえすことになるかもしれない発見に感動を覚え、先人たちの生きたありさまを検証しているんです。

 そうは言いながら私自身、人間的に生き方が不器用であることは自覚していますから、もう少し要領よく生きてこられたらもうちょっと違う人間になっていたのではないかと思います。本当に失敗が多かったんですよ。

回収された19世紀中葉の英国製白磁皿など/
窯印に英国王室の紋章がみられる
(提供: 日本水中考古学調査会)

 金も力もないものだらけでした。学閥も派閥もなく、一人で何かに立ち向かい戦っているような毎日でした。こんなことをしていていいんだろうか、と自問自答することもありました。自分自身を見失い挫折しそうになったことが何度もあります。アメリカ留学を含めずいぶん投資してきましたが、そのうちの10パーセントすら回収できていません。あるのは、自分は冒険者なんだ、水中考古学をやるんだという情熱だけでした。それでも、自分の進んできた道が間違っていたのでは、と思うこともたびたびありました。

 おカネにならないかもしれない。世間から評価されないかもしれない。それでもいい。やりたいことができるのだから。それが人間にとって一番幸せなことなんですよ。私にとって水中考古学が生き甲斐だし、生涯の仕事なんだと思ってやっています。

──ありがとうございました。聞き手:本誌 常川 幹也

ご経歴
いのうえ たかひこ:1943年茨城県生まれ。法政大学卒業後、地元企業に就職したが、40代で米国留学、テキサス州立テキサスA&M大学大学院文化人類学部(水中考古学専攻)修了。同大併設の水中考古学研究所にて、トルコのウル・ブルン難破船、ジャマイカのポート・ロイヤル海底都市、元寇船など水中遺跡の発掘調査に参加。その後、筑波大学歴史人類学研究科研究生、茨城大学非常勤講師などを務める。現在は千葉県勝浦沖の黒船ハーマン号を調査中。著書に『水中考古学─クレオパトラ宮殿から元寇船、タイタニックまで』(中公新書)等。

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