『公研』2024年12月号「めいん・すとりいと」
2002年1月、奈良・曽爾(そに)高原。
海原のように波打つ芒の花穂に胸まで浸かって、早朝から立ち廻りの撮影である。私の役どころは最晩年の宮本武蔵。タイムスリップして、これから柳生十兵衛と打ち合う。
曽爾は秘境というほどではないにしても、アクセス自在とはとても言えない立地である。空漠とした異郷感は尋常ではない。
「あっ、やっぱり来ていますね、長塚さんの追っかけ」と助監督。こら大声で言うな。
彼が指し示すほうに目を凝らせば、見渡す限りの芒が原の遥か彼方、そっち向けのカメラの視野を大きく外れた辺りに、ひとの気配がする。よく見ると、ウインドブレーカーにリュックサックという、山歩き姿の女性が、満面の笑みでこちらに手を振っている。地味だ。しかし私へのエールだ。遠くまでご苦労さん、と私も手を振り返す。
「長塚さんに追っかけがいたなんて。何だか新鮮な驚きです。でもよくここがわかったな、あの追っかけ」
追っかけ追っかけと、無闇に呼び捨てる割には、助監督の口吻に、追っかけを迷惑がるふうも、小馬鹿にする気色も窺えない。むしろソワソワと歓迎の機運だ。
無理もない、うら若い映画人の卵としては、自分がいま打ち込んでいる仕事の最前線に、どうであれ他人さまが興味津々で首を突っ込んでくれるのは、晴れがましくも嬉しいことに違いない。
そうか、追っかけという捨て身のファン行為が今日まで許容された裏には、スタッフのそんな心情が働いていたのかも知れない。同好の士の内に醸成された「暗黙の連帯感」が、昨日までの傍観者を、突如、居ても立ってもいられない気持ちに駆り立てる。「今だ、行け」と発破をかけるのだ。
「帰りの足はあるのかな」と気遣う助監督に、つい「大丈夫」と答える私。さっきの追っかけ(失礼)さんが、周到な下調べをした上で、今日の日を迎えたことを承知しているから、そう言える。
働く彼女の、休日のスケジュールは極めて合理的で無駄がない。笑顔と手振りで「ひとエール」送り終えたら、ひとまず任務完了。あとは自由研究とばかりに、近隣の目ぼしい観光スポットや、地元グルメをしっかりチェックして、今頃は帰りの電車の中で文庫本か何かを開いているのだろう。
追っかけの標的はむろん私だ。
そもそもの発端は、曽爾の一件より更に以前に遡る。今から三十年前の、やはりロケ現場だった。
「終戦もの」とでも言おうか、敗戦直後の瀬戸内海を南下して、戦死した長男の遺骨を、故郷の墓に納めに帰る家族の話だ。その日のロケ地は京都市内の古い映画館。
撮影の合間に一息入れている私に、「失礼」と見学ギャラリーの群れの中から一人の女性が声をかけてきた。後の、曽爾の山歩きの君である。「ファンです。これからも現場でエールを送りたいので、またお会いすると思います。決してご迷惑はおかけしません。取り急ぎご挨拶を」と名刺を差し出した。
追っかけの許可を求められるとは、実に前代未聞のことであった。
あれから幾星霜、どれだけの撮影現場で相見えたことか。そして三十年目、私に途方もない朗報が舞い込んだ。この歳にして、とある映画祭の最優秀男優賞を戴いたのだ。
私の追っかけさんへ。私をサンプルに、フィールドワークを展開してくれてありがとう。君のプライベートな映画・演劇史の、良い節目になるといいね。私のほうは、君の控え目なエールが、相当利いたのだと思う…。
俳優