『公研』2013年7月号「対話」

水島 治郎・千葉大学法経学部教授×古賀 光生・中央大学法学部准教授

オランダやデンマークなど先進各国で移民や難民の排斥を主張する「新右翼政党」が台頭している。

欧州に拡がる「不寛容」の背景には何があるのか?

新右翼政党とは何か?

古賀光生・中央大学准教授

古賀 欧州では、フランスやオーストリアで伝統的に右翼政党あるいは排外主義政党が比較的強い傾向にありました。例えばフランスでは、産業構造の転換に時間がかかった結果、高失業率、構造的な失業が社会問題となり、フランス共産党のような左派政党を支持していた労働者層が右派政党の国民戦線を支持するようになるというロジックが指摘されていました。

 ところが、水島先生が昨年発表された『反転する福祉国家──オランダモデルの光と影』(二〇一二年、岩波書店)で指摘されているように、二〇〇二年以降労働市場の徹底的な改革に成功したと目され、経済状況も良好だったオランダやデンマークでも排外主義政党が台頭しています。これは新しい展開だと思いますが、フランスやオーストリア等と比べて、オランダのケースでは何が同じで何が異なっているとお考えでしょうか。

水島 オランダでは、過去十年間ほど「政・労・使」の協調による経済運営が失業率の低下や雇用の増加をもたらし、「オランダモデル」として日本でも高く評価されていました。しかし、その陰で排外的な傾向を持つ「新右翼政党」が躍進し、現在に至るまでその影響が強く社会に及んでいます。

 二〇〇二年に、ピム・フォルタインというポピュリストの政治家が創設した個人政党、フォルタイン党が選挙で一挙に第二党に進出して政権に参加することになります。党首のフォルタイン自身は、選挙直前に暗殺されてしまいますが、その後もヘルト・ウィルデルスという新右翼的ポピュリストが率いる自由党が登場してきた。自由党は二〇一〇年の選挙で第二党に躍進して、政権に閣外協力するまでに至っています。

 日本でも欧州でも、これらの政党の出現に対して、メディアは「極右が各国に飛び火している」と報じました。しかし、その中身をよく見るといわゆる極右とは異なるいくつかの特徴があるように思います。近年、オランダや北欧などで伸びている新右翼政党は、いわゆる極右政党に見られるような暴力主義的な傾向や反ユダヤ主義を明示的に掲げていたり、デモクラシーや議会主義に対して否定的な立場をとることは基本的にはありません。

 オランダの新右翼政党はむしろ民主主義や自由、人権といった欧州の啓蒙主義的な価値を維持した上で、選挙を通じて合法的に支持を訴えている点では、極右とはだいぶ様子が違います。新右翼政党の党員も基本的には極右勢力とは人的なつながりをほとんど持っていないという共通した特徴が見られます。

古賀 私が研究対象にしているオーストリアでも反議会主義のようなスタンスはなく、議会で議席を獲得することで勢力を拡大しているという点では今ご指摘された新右翼政党と同じです。一方で戦間期のナチス・ドイツ占領時代以来生き残っている極右勢力との人的なつながりは公的には否定しているものの、ジャーナリスティックにはつながりが指摘されています。オーストリアの新右翼政党は暴力主義とは一線を画していますが、例えばヒトラーをどう評価するかという点では歴史修正主義的な傾向が見受けられるなど、戦間期の極右集団とのつながりを明確に切り離せていない部分がある。この点はオランダや北欧の新興の右翼政党とは異なる特徴のように思います。

水島 過去の捉え方やレイシズム(人種差別)に対する姿勢という点では、オランダの新興の右翼政党にはいくつかの興味深い特徴があります。新右翼政党は現在、反イスラームを旗頭にして勢力を伸ばしているわけですが、その際彼らはイスラーム移民を差別するとは言わず、例えば女性差別やホモセクシャル差別を認めるイスラームは許すべきではないというロジックをとっている。むしろ反差別の立場に立つからこそイスラームは問題を抱えているという主張をしているのです。

 彼らは欧州の自由や民主主義といった普遍的な価値を全面的に受容した上で、その価値を守るためには、政教分離や同性愛を認めないイスラームは排除するべきだという主張をする。あくまでアンチ・レイシズムという開明的、進歩的なスタンスをとっているわけです。

古賀 この特徴は、9・11同時多発テロ以降強く打ち出されるようになったのではないかと思います。オランダやデンマークにおける排外主義政党の成功を受けて、フランス、イタリア、オーストリアなどでも同様に選挙という合法的な選択を経た上で、新右翼政党が受け入れられている面があります

 ただ、オーストリアを例にとると全面的に近代西欧の啓蒙的、立憲的な価値を前提にした上で排外主義政党が台頭しているとは言えない面がある。イェルク・ハイダーという自由党を大きく躍進させた指導者が党を離れて以降、再びいわゆる伝統的な排外主義に回帰しつつあるのではないかという印象を抱いています。ですから、北と南とでは少し違いが生まれて来ているという印象を持っています。

水島 フランスの国民戦線などは、先代の党首ジャン=マリー・ル・ペンが健在だった時はいわゆる極右に分類されるような主張をしてきたわけですが、娘のマリーヌ・ル・ペンの世代になると反フェミニズムや反ユダヤ的な主張を取り去って、むしろ反イスラームを強調してユダヤとは近い立場をとるなどの展開も見られます。

古賀 フランスの国民戦線に関しては、長らくル・ペンの個人政党とさえ目された勢力でしたが、懸念された世代交代が世襲のような形で進んだことで、今までとは異なったモデルを提示しようとしていますね。ここは党内でどういう議論が行われたのか非常に興味深いところです。国民戦線はある程度長い間、政治的なメインストリームの中に位置づけられていました。先日、学会で発表された佐賀大学の畑山敏夫先生の報告によれば、新しい世代の人たちが党の性格を大きく変えているとのことでした。その意味では、政党が長く活動していく中で党の性質や基本的な方針を少しずつ時代に調整しながら生き残っている。生命力や適応能力の高さをうかがわせるところがあります。

なぜ左派が強力な反移民に転ずるのか

水島治郎・千葉大学教授

水島 確かに、新右翼政党は現実の政治状況の中では選挙戦略や政権戦略を重視しています。現在のヨーロッパでは、反ユダヤ的なことを明示的に掲げる政党は、右であろうが左であろうが、既成政党から連立を拒まれることはほぼ確実です。新右翼政党は、極右政党の多くが既成政党から連立を拒まれ、政権入りができないという状況をずっと見てきたわけです。新右翼政党の党員や支持者たちは、心の中では反ユダヤ主義的な部分を持っているのかもしれませんが、それは封印して近代的な価値観をとにかく前面に出すことで、他党に受け入れ可能なパートナーであろうとする。そうした戦略は彼らにとってはとても重要です。

 オランダや北欧において、そうした近代的な価値を前面に出すことが選挙で支持される背景に、脱工業社会的な価値観がかなり浸透している面があると思います。先ほど例に挙げたオランダのフォルタインなどは、自らが同性愛者であることを公言した上で、だからこそ同性愛者を認めないイスラームは許せないという主張を繰り広げた。

 ただ、同じことを他の国で言っても、それが受けるかどうかは、その国の状況によってずいぶん違いが出てくると思います。ドイツなどは右派、極右勢力における反ユダヤ主義的なカルチャーをどうしても拭えないところがある。反ユダヤ主義的な主張を一切語らず、むしろイスラームのみにそのターゲットを絞るような政党の立脚の仕方は難しいのではないか、とドイツについては指摘されることもありますね。

古賀 我々は一口に極右、右派、あるいは新右翼という形で各政党をカテゴリーの中に収めようとします。私の専門は比較政治学ですから、どうしてもある範疇の中に収めようとしてしまう。しかしながら、実際にはどこからが極端な右翼と呼ぶことが可能なのかを定義する条件は国ごとにずいぶん異なっています。

水島 実際に新右翼政党が政権に参加することで政策が大きく変わった点で最も重要なものとして、移民政策や難民政策が挙げられます。特にオランダでは、オランダに入国しようとする第三世界出身の移民に対して、「市民化」という関門が課せられるようになりました。オランダ語を始めオランダ社会に関する知識の有無を問う試験にパスすることが滞在の条件になり、審査自体もかなり厳しくなっています。難民政策に関しては、従来のリベラルな政策を大きく転換させました。実際、フォルタイン党が政権に参加して以降、オランダへの難民申請者の入国が大幅に減少し、拒否される数もかなり増えている。

 こういった政策転換とともに重要なのは、社会の雰囲気です。多くの移民がオランダ社会は非常に住みにくくなったと感じていることは間違いないでしょう。さまざまな場面で、自分たちの集団に対する否定的な言説が語られることによる心的なダメージも大きい。オランダや北欧諸国では今こうした大きな変化が生じています。

古賀 新右翼政党が政権入りすることに伴って、入国管理政策がより抑制的になったことは、オーストリア、デンマークあるいはイタリアでも指摘されています。フランスのようにそうした政党が政権に入らなかった国でも、既成右派側が排外政党を支持する人たちから票を取り込むために、少し抑制的な入国管理政策をとろうとしました。あるいは国内にいる不法移民に対して厳しい対応をとるようになった。これは全欧州的な現象だと言えると思います。

水島 ポピュリズムとは要するに、民衆に基盤を置くことを主張する政治勢力ですが、ポピュリストに率いられる政治勢力が力を増して、時に既成政党側が慌ててそれにすり寄る政策をとろうとする点も、全体を右傾化させる重要なポイントであるように思います。既成の保守政党の多くは、新右翼や極右政党の主張にかなり寄ってきたところがある。

 もう一つ興味深いのは、左派政党の側でも実質的にかなり大きなチェンジが生じている点です。従来、社会民主主義政党などの左派政党は、多文化主義的な主張が強く、移民やマイノリティーに寛容なイメージで捉えられてきました。しかし、ここ十数年の間にヨーロッパの左派政党の中では、移民に厳しい政策に賛成する政治家たちが出てきている。背景にはもちろん選挙戦略があります。「移民に甘い党」と見られると、選挙でかなりダメージを受けるようになってきている。そのため、左派政党も社会統合を求めるという形で移民に対する要求水準を高めていて、それが移民への厳しい姿勢を強化しています。フォルタイン自身も、かつては労働党の党員として長く活動したバリバリの左派活動家でした。

 なぜ左派が強力な反移民に転ずるのか。これは非常に興味深い点です。実は左派のロジックの中にも、移民に対して批判的になり得る契機があったと私は考えています。具体的には左派政党の活動家の中における、たとえば女性の地位向上をめざすフェミニスト活動家が、まさにフェミニストな主張であるがゆえに、女性差別を認めるイスラームに対して批判的なスタンスを強力にとる。また、左派政党の側は政教分離のロジックを強く内面化しているところが多い。フランスなどはもっと強いわけですが、政教分離のロジックを強力に主張する左派の活動家は、同時にそのロジックを持ってイスラーム批判に容易に転化し得るところがあります。左派こそが後に強力な反移民に転ずるケースが多く見られる。

 既成の右派政党は、反移民という主張にどちらかというとメンタリティーとして近づいていき、ロジックとしては必ずしも明確ではないところがあります。逆に左派の側は、一部のかなりアクティブな層がロジックを明確にした上で、反移民の主張を先鋭化させている。結果的には、左右の図らざる協力関係による反移民連合が既成政党の側にも生じていると私は見ています。

古賀 大変興味深い指摘です。ここは排外政党が台頭した過程とも関わってくると思います。例えばオーストリアやフランスでは、移民という争点だけを取り出すと、従来の右や左というきれいな境界線を引けなくなってしまう悩みに直面したのではないかと思います。

 フランスなどでは移民がたくさん入って来た結果、公共住宅が不足したり、失業手当てなどが増えたりして、自治体の財政がパンクしてしまうのではないか、と心配されるようなことが起きました。ただし、左派は心情的には連帯を重視しているので、気持ちの面では連帯したい。けれども、お財布がそこまで届かないとなると、移民に対して寛容ではいられなくなる。その葛藤の中で、排外主義にコミットする人たちの台頭を抑制できなかったのが、フランスやオーストリアで八〇年代から九〇年代に見られた現象だと思います。そうした状況下で、新右翼政党は排外主義を独自の争点として定式化するわけです。

「反移民」「反既成政党」「反エリート」

水島 反移民という争点に関しては、右や左を超えるところがあって、それをポピュリズムが支えているのが近年の状況ですね。そして、その支持者は必ずしも伝統的右派に限らないところが重要なところです。

 フォルタイン党は、最初は地方レベルの地域政党でした。「反既成政党」「反エリート」を掲げ、住民自治を取り戻そうという、ある意味ではリベラルの動きでした。それを支えたのは、いわゆる無党派の新中間層です。既成政党によって地方自治が牛耳られている状況に対して、具体的な生活問題や環境問題を取り上げながら、市民に政治を取り戻そうという動きが、一九九〇年代後半のオランダで高まっていった。「住みよいユトレヒト」「住みよいロッテルダム」といった形で、各自治体に「住みよい〇〇政党」が誕生していったのですが、その全国規模の政党として「住みよいオランダ」という反既成政治を掲げる一つの政党としてまとまり、そのトップにフォルタインが就任した。ですから新右翼政党といえども、出自はむしろリベラルで、ある意味では民主主義に根差した政党でした。

 民主主義とポピュリズムの究極の違いは何かというのは難しい問題ですが、フォルタイン党それ自身は開明的で、むしろ進歩的な市民によって支えられてきた運動だった。

古賀 オーストリアやベルギーは、伝統的に少数の政治エリートが長い時間をかけて協議して、妥協の結果として政治的なアウトプットがあるというスタイルです。手間が掛かるし、外からはそのプロセスが見えにくいところがある。しかし、実質的な審議を固めることは政治的対立を抑え込むという肯定的な側面もあり、妥協的な民主主義と言われていた国々でした。近年、そうした妥協に満足しない市民が新しい政治体制を求める動きが強くある。既存の政治体制を改革しようと主張するポピュリズムが支持される図式は、ヨーロッパ共通の現象と言えるかもしれません。

水島 オーストリア、スイス、オランダ、ベルギーといったヨーロッパ諸国は、いわゆるエリート相互の協調による安定的なデモクラシーの代表格とされてきました。ところが、これらの四国いずれにおいても新右翼ないし反既成政党的な勢力が強くなっているのは興味深いところです。

 その背景には、労働組合や経営者団体など、従来、国民を広くカバーしてきた組織の市民に対する統制力が明らかに低下していることがあります。同時に政党そのものの組織率や活動の密度も低下している。労働組合や政党の有力なリーダーは、かつては市民のかなりの部分を代表していることが目に見えていたわけですが、今はむしろそのような団体のリーダーは、少数を代表する既得権益の保持者と名指しされて批判されている状況です。

 その際、反既得権益というのが重要なモーメントになっている。本来のポピュリズムは、例えば十九世紀のアメリカや二十世紀半ばのラテンアメリカのように、貧しい民衆が既成の巨大な政党権力や企業権力あるいは地主権力に対して立ち向かうという面がありました。二十世紀末以降の欧州におけるポピュリズムは、同じように特権層批判と言いながら、特権層の質がかなり変わってしまっている。これは日本においても同様のことが言えるかもしれません。

 現在では特権層として批判対象になっているのは、働いていないにもかかわらず福祉給付はもらっていると見なされている移民、それから公共セクターを担っている人たちです。公務員叩きはヨーロッパでも浸透していて、役人は反発の対象です。ヨーロッパではそれほど強くありませんが、日本においては生活保護受給者が特権階級として意識されるようになりました。

 そういう意味では、本来の巨大な権力ではなくて、ミクロなところに特権層を作り出しては、そこを叩いている。それが現在のポピュリズムの特徴だと思います。

引き下げデモクラシー

古賀 今のお話を伺って九〇年代のオーストリアで進展した事態が頭に浮かびました。「コーポラティズム」と呼ばれているのですが、オーストリアでは労働者を大規模に組織して、ほとんどの労働者が労働組合を通じて代表されていました。労組の交渉力を通じて安定した生活基盤、充実した社会保障を実現するというモデルをつくってきた国です。ところが、皮肉にもグローバル化の進展とともに、社会民主党主導の政府が少しずつ規制緩和をして、民営化をしなければならない局面に直面した。

 今までならば、全員に保障されていた安定した職場環境や社会保障が、一部の人たちは守られるが、保障されない人たちが徐々に増えていった。その過程で保障されない側に回ってしまった人たちは、もはや保障を期待できないのであれば、今持っている人たちを叩いて引きずり下ろそうという形で排外主義、新右翼政党支持に回った節があります。十分な実証を経ていませんが、いま考えられているところです。「自分たちにも同じものをよこせ」と主張するのではなく、「いま受給を受けている特権層をなくせ」という形に変化しているのではないか。

水島 まさに「引き下げデモクラシー」ですね。そういう意味ではポピュリズムは、良くも悪くも人々の一種の平等、連帯を復活させようというモーメントもある。最も強力な富や権力が集中しているところを民主化するのではなくて、自分の目に見える範囲の特権層と思われる部分を叩くことで、形だけの平等をつくっていく方向性ですね。

 グローバル化の進展による大きな変化の中で、自分たちの生活を守るためには、目に見える特権層を叩いて引き下げデモクラシーを実現しようとする。そして、そもそもデモクラシーの枠内に入ってこられない移民に対しては、最初からシャットアウトしていくわけです。

古賀 移民や外国人は持たざる者として、連帯の対象として考えることも原理的には不可能ではなかったように思いますが、残念ながら現代のポピュリズムや排外主義政党はそのようには考えなかった。

 一九二〇年代、三〇年代のフランスを振り返ると、フランス南部の港町にイタリアから移民がやってきたとすると、左派の人たちは、その移民たちのお世話をして町の一員として迎え入れる代わりに、「一票よろしく」という形で勢力を拡大していきました。アメリカ合衆国でも似たような状況があったと思います。近年の欧州の排外主義政党は、どうしてもそこには踏み込めない。ひと度、宗教や人種を壁として出してしまった以上、一度立てた境界線を自分たちが崩せないでいるのではないか。

水島 一九五〇年代、六〇年代にヨーロッパはイスラーム系移民を積極的に受け入れてきて、それが戦後のヨーロッパの経済成長に大きく貢献した面があります。ヨーロッパは、日本より早く少子化が進みましたから労働力不足が深刻で、戦後の再建を進める上では国外からの労働者の移入が不可欠だった。かつては移民を歓迎してきたにも関わらず、一九九〇年代以降それが大きく転換している。

古賀 かつては労働力不足を補って成長を促進してくれる人たちであるという認識でしたが、全体のパイが縮小していくと、パイを奪い合うライバルと見るようになってしまったわけですね。

水島 ただ、インド人やシンガポール人のように英語を駆使できるアジア人は、現在でもむしろ歓迎される移民として扱われています。近年のヨーロッパでは、「ブルーカード指令」のような形で、技術や能力の高い移民に関しては手続きを簡素化して移入を促進しています。他方で技術を持っていない普通の移民に対しては厳しいハードルを課している。いわば「選別」が生じていて、これは五〇年代、六〇年代には存在しなかった。

 背景には、やはり脱工業社会への転換という産業構造の大きな変化があると思います。脱工業社会では、IT技術や高度なサービスセクターの発達を背景に、技術、能力を持った人材に対しては強い労働力需要を生ぜしめる一方で、これまで工業労働の中核をなしてきた単純労働者の需要が大幅に減っている。産業構造の転換に見合った移民の上澄みだけを掬い上げて、残りの大部分はご遠慮願うという形に移民受け入れのレジームが変化しています。

古賀 ヨーロッパでは社会保障制度のシステムが出来上がっていますから、移民を市民として受け入れたからには、政府は一般市民と同じように生活上必要な手当てを保障しなければならない。単純労働者の需要が減っている現在では、そうした移民は社会保障でお世話をする対象と見なされてしまう。

水島 かつては若くて健康な男性であれば、イスラーム教を信じていようが、無宗教であろうが、そこは問われずウエルカムでした。ところが近年の選別方法は、語学をきちんと学んでいることや高度な職業能力が大きな基準になっている。それらがヨーロッパの国における市民であるための重要な条件になってきています。

古賀 市民であるためのハードルが上がっていますね。

水島 移民に対してだけではなく、ヨーロッパ各国の国内でも、シティズンシップの変化が見られます。この変化はいわゆる「第三の道」において促進されたところですが、そもそも福祉の前提として働くこと、あるいは働こうと努力すること、少なくとも社会生活に積極的に参加することが市民に求められる。労働や社会への参加が、市民たることの第一の条件とされる形で福祉国家の再編がなされたのです。そうした福祉国家の再編自体が、移民に対して求める基準の大幅な厳格化につながっていった背景にあると言えるのではないか。

ハイパーコミュニケーション時代の「生きづらさ」

古賀 その国で生まれた人々も今までと同じようなサービスを受けたければ、「もっと働きなさい」とか「積極的に社会で活動しなさい」という基準が設定されているがゆえに、外から来た人たちにも当然それを要求するという論理構成になっているわけですね。

水島 そう思います。これは教育の分野においても、ある程度共通の変化が起きたと言えます。日本では勉強というものは、先生から聞いたことをきちんとノートし、それを覚えて、試験でいい点数を取ればそれでよろしいとされてきました。ところが近年は、コミュニケーションをいかにうまくとれるかが重視されています。外国語の勉強でも、とにかくコミュニケーションを重視する。教育全般に関しても「生きる力」といった、ある意味では客観的に測りようもないコミュニケーション能力、その場に応じた柔軟な対応ができる能力こそが重要であると受け止められるようになった。

古賀光生・中央大学准教授

古賀 排外主義政党の支持者は、高等教育を受けている人たちの割合が高くないと従来からの調査が明らかにしています。高等教育に加えてそうしたコミュニケーション・スキルを社会の中で発揮して富を生み出していくことが求められるとなると、多くの人たちはどんどん生きづらくなる。ですから、大変な思いをしている層が新しく来る人たちの排除を支持している構図があります。社会で生きづらさを感じている人たちが、自分たちよりも大変な思いをしているかもしれない移民を排除しようというのは、切ない状況だと思わざるを得ませんね。

水島 ポスト近代における産業、労働のあり方の変化は人々の日常的な人間関係にも大きな影響を与えています。そもそも、企業活動の中身自体が変わっているのです。オランダを代表するフィリップスという会社は、かつて国際的な電機メーカーで、日本の東芝、日立というイメージでしたが、近年は医療サービスに特化する先端技術メーカーとして企業構造を大きく変化させました。もともと電球生産から始まった企業ですが、今は電球を作っていません。工業製品の生産から、高度技術とサービス提供へという形で華麗な転換を図ったわけです。オランダは変わり身の早い国ですが、フィリップスの変貌はその象徴と言えます。

 そうすると医療技術や言語能力、高度な対人サービス能力を持った人材は高い給料で積極的に雇われますが、単純労働以上の能力を持たない人たちは厳しい状態になる。結局、教育においても脱工業化時代に適応する人材の育成が重視されるようになります。「生きる力」や何やらと盛んに語られるわけですが、当然そこについていけない人もかなりいる。そういった人たちも社会的な新しい序列に組み込んでいく構造が、今後ますます強くなっていくのではないかという感じがします。

古賀 私の祖父はずっと金型屋で金型を作っていましたが、コミュニケーションが得意だったとは思えない人でした。でも、そうした人たちの受け皿がいくらでもあった。ヨーロッパで言えば、石炭はずいぶん前から斜陽でしたが、八〇年代頃から鉄鋼がもはや日本に勝てなくなり、造船も厳しくなった。膨大な雇用を支えていた製造業は、日本より先にクローズしていった。

 そうした業種に従事していた人たちは、ハイパーコミュニケーション社会ではなかなか行き場がない。新しい世代は生まれた時からそうした社会に適用しようと努力するのが当たり前になりましたが、かつてそれらの産業を支えていた世代はうまくいく場所がなかなかない。

 そうした人たちがあまりコミュニケーションの必要のない部門を探そうとしても、そこは移民層が多く担っている。新しい産業構造の中で社会全体の中で「行き場」と言うとおかしいかもしれませんが、より安心して暮らせるための条件を整えていけることが大きな課題になっているように感じますね。

水島 近年、女性の社会進出が進んでいるというのはどこの国でも同じですが、これは単純に女性解放運動の結果であるとは言えない。むしろ産業構造の変化が積極的に要請した面があると思います。無口でコミュニケーション能力に劣るとも言われる男性がいわば退場を強いられているのとは裏腹に、積極的に活用されているのは女性の能力です。近年伸びているサービス系の産業は、医療・介護をはじめとして女性の能力が活用されている分野です。女性のほうがコミュニケーション能力が高い面がありますから。

古賀 ヨーロッパの新右翼政党、排外主義勢力は統計で見ても男性からの支持が厚いことが知られています。かつては、「女性は家庭にいるべきだ」というようなマッチョな主張を掲げていることが多かったので、女性受けが悪かったと考えられていましたが、現在ではあまりそういうことは言わなくなっています。にもかかわらず、未だに圧倒的に男性の支持が厚い。ご指摘のように、男性のほうが社会における居場所のなさをより強く感じていることがあるのかもしれません。

排外主義は心地よい?

水島 近年の日本でもヘイト・スピーチ(憎悪発言)に代表されるように、外国人に対する心ない言葉が問題になっています。その背景にも今見てきたような産業構造の変化があると思います。変化の著しい現代社会でグローバル化に乗って英語でバリバリ活動している人は、恐らくそうした言葉を語ることはない。むしろ絶えずスキルアップを要求され、常時コミュニケーションを強いられる中で、それについていけないという思いが、コミュニケーション能力が低く、社会的に排除されやすい外国人に刃を向けていくという傾向があるのではないか。

 その際、仲間を集めて排外的なスローガンを叫ぶ時の一種の心地よさというものも実はあると思います。一時的なものであっても、その場では「自分たちはマジョリティーであるはずだ」という、バーチャルな連帯感が生じているように思います。

 インターネットの空間においては、そのような排外的な主張がマジョリティーを占めることも難しくない。ネットの中をのぞき込んで、そこに応援メッセージを送る時には、「自分たちこそは社会の多数派だ」という感覚を味わうことができる。これは少なくとも当人たちにとっては重要なモチベーションになっていると思います。

古賀 私は、オーストリアで自由党の党首の立会演説会を聞きに行ったことがありますが、政治家の演説会というよりもロックコンサートのような情景でした。みんなはしゃいでいて、なぜかビールが提供されていました。一杯ひっかけた後で演説を聞くわけです。演説では要所要所にイスラーム教徒の悪口が挟まれます。小難しい話の時には黙って聞いていますが、「だからイスラームはダメなんだ」

 となると、みんなで一緒になって「その通りだ!」と歓声を上げる。まるでサッカーの得点シーンのような盛り上がりを見せていました。確かにあの場にいると「自分たちこそがメジャーだ」という、一種の連帯感を味わいやすいのかなと思いました。

 私が研究しているオーストリア自由党は、もともとネットの利用に熱心で、YouTubeやフェイスブックのファンページを積極的に活用しています。ファンページにはオープンなサイトとクローズドなサイトがあります。オープンなサイトでは、排外的な主張を示す場合でもいくらか躊躇が見られます。一般人を意識した論理構成で説明的になっている。クローズドサイトには招待されないと入れないのですが、なぜか私も招待されて入ったところ、そこでは感情的な単語やフレーズを中心に排外主義を訴えているわけです。この空間では、いちいち丁寧に説明しなくてもお互いをわかり合える仲間意識を共有しています。

 ネット空間の外に出ると、当然自分たちのことを悪し様に言う人たちがいることは自覚しているわけです。そうした身内だけで盛り上がれる空間がネット内にあるという状況は、八〇年代や九〇年代とはずいぶん違った状況が生まれているという印象があります。

水島 日本においてもポピュリスト的な政治家に対して親近感を覚える人は、若い人たちを中心にかなり多くなっています。そういった若者がゴリゴリの保守のイデオロギーを持っているかというと、そんなことは全くないと見ています。ただ、現状を変えるためには既成政党はもはや信頼できないと感じていて、そこだけを取り出せば大変改革的で前向きなことを言うわけです。

 ただ、その主張の内容を突き詰めていくと、結果的にはポピュリズム政党の指導者が何を言うかに大きく左右されてしまうところがある。少なくとも、メンタリティーとしては現状を変えたいという若者らしい熱い思いがある面も否定できない。そこに仲間意識が加わると大きなパワーになり得るところがある。

古賀 ヨーロッパの新右翼政党も登場したばかりの頃は若い人たちの党と言われていました。三十年経って、現在では支持者たちが、そのまま持ち上がって年齢バランスが整ったと言えます。若い人たちが既存の政党や団体、既得権益者が政治を左右している現状を変えなければならないと考える点は、かなりの程度共通すると思います。

 ただ、それをどう変えるのかというポイントにおいては、時代ごと、極端に言えば選挙ごとに主張が異なっているように見える。

 例えばオーストリアだと、当初「国営企業が経済を牛耳っているのはけしからぬ。国営企業は政治に左右されているから民営化しなければならない」と主張して登場したはずなのに、実際に民営化が進むと、「民営化して人々の生活基盤が不安定になるのはけしからぬ。雇用が守られないのは、政治家が自分たちの安全を切り売りしたからだ。こんなことを押し進めた既成政党を倒さなければならない」というように、その都度状況に応じて批判の矛先が変わってしまう傾向がある。改革の志まではなるほどと思いますが、そこから何をめざすのかとなると主張が途端にわかりにくくなる。

水島治郎・千葉大学准教授

水島 ポピュリスト政党の側は、若い人たちを味方にするためには、改革的なスタンスをその時その時に応じて提示しているわけですね。

 オランダのポピュリスト政党も、年金の支給開始年齢を引き上げようという時には、むしろ先頭に立って引き上げ反対となる。その意味ではもう右派政党どころか、左派の社民政党顔負けのソーシャルな顔も出すわけです。結局、その時々のメディアの報道状況を見て、ここでこちらに味方すれば支持を集められるだろうという世論の空気に機敏に対応してアジェンダをセッティングしていくわけです。

 既成政党の有権者に対する把握力が極端に落ちた今となっては、そうしたポピュリスト政党の戦略は、限定された局面ではそれなりに成功し得る面がある。若い人のように特定の支持政党を持たない場合、ポピュリスト政党のリーダーがその志向性を掴むことができた場合には、なかなか強力なものになる。

古賀 人々が現状をどのように感じ取っているかを機敏に察知して、求めている内容をうまく言語化する。現状に対する不安や不満は曖昧で漠然としたものですが、それをうまく掬い上げることはポピュリスト政党にとっては重要なことです。ポピュリスト政党の特定の指導者に対して注目が集まりやすいのは、そういった言語化がしっかりできる指導者がいるかいないかで、かなりの程度その政党の命運を左右する側面があるからだと言えるかもしれません。

政党政治の最終形態は党員一人?

水島 オランダのフォルタイン党の次に出て来た現在のポピュリスト政党は、ウィルデルスという人物が指導している自由党ですが、実はこの政党はフォーマルには党員が彼一人しかいません。ですから、党の意思決定も何もかも彼の思うがままです。ただ今のところそれが有権者の反発を食らうこともないようです。

 政党組織は、場合によっては指導者に対する桎梏ともなるわけですが、むしろメディアに反応して指導者が機敏に的確な言葉を発し、しかもそれが排外主義的な心地よさをくすぐるものであれば、政党の非民主的なあり方はほとんど問題になってこない。

古賀 それを知って私も本当にびっくりしました。政党が党員たちをしっかり掴んで、各地域で地元の活動を通じて人々の声を吸い上げる伝統的なモデルとは全く違いますね。既成政党の場合は、どうしても党内協議や党内的な正規の意思決定プロセスを辿らなければならないので、指導者一人で全てを決定することはまず不可能です。

水島 かつては、日本でもヨーロッパでも党内民主主義が大切で、党内で熟議を尽くして、そこで物事を決め、政策として立案すべきだとされてきました。それが例えば小泉政権下では、自民党の政策経路がバイパスされて、小泉純一郎氏が次々とアジェンダを打ち出していったことをむしろ国民の多くは喝采したわけです。自民党は総務会に代表されるように、よくも悪くも全員一致的なルールがあって、基本的には党内の各勢力が一定の合意を得た上で政策を進めるという慣例がありました。ところが、そのようなあり方こそがまさに旧態依然としたあり方として有権者に映り、それをバイパスして「自民党をぶっ壊す」と主張した小泉氏こそが救世主として評価された。

古賀 先ほど話題に出た、エリートの協議を通じて安定的に議論を経た形で政策をアウトプットするといった政治のあり方に対する批判が、政治システム全体に対しても向けられています。どのレベルで意見を集約して、それをより鍛え上げて積み上げていくのかが十分に模索されないまま、政治決定がなされるようになってしまっている。こうした傾向には先行きの怖さを感じます。

水島 メディアもそれを助長しているところがありますね。党内でさまざまな議論が出ている状況に対しては、メディアは統率がとれていないと批判を投げ掛ける。リーダーが内部の手続きをバイパスして外に向けて発信すると、メディアは喝采をもってそれに飛びつく。リーダーは、メディアを積極的に利用しながら従来の党内の組織をバイパスさせようする。ここには一種の相乗作用がある。

古賀 確かに直接政治に関わっていない人たちから見れば、党内でどのようなプロセスを経ているかわからないまま話し合いが長時間行われて、しかも、その話し合いの結果出て来たものが当初の予測とは違っているというのは、フラストレーションが貯まる事態です。メディアが小泉さんのように議論をバイパスさせる手法に喝采を送るのは理解できなくはない。一方で、多様な意見をぶつけあう中で相違点を炙り出し、共通点を見出そうというプロセスに理解を求めることも本来メディアの仕事ではないか。いま先生がおっしゃった相乗効果に対して、どこかで歯止めを掛けることをメディアには期待したいですね。

日本のヘイト・スピーチデモをどう見るか

──日本で見られるヘイト・スピーチにはどう対処すべきでしょうか。法律で取り締まることは有効でしょうか。

古賀 こうした運動は盛り上がってくる契機や急に大きくなるタイミングがあります。一見すると波があるようには見えますが、根底のマグマがある限り、無視していればそのうちいなくなるというものではないと私は感じています。底流にマグマがある以上はそれが沈静化しているか、大きく噴火するかは波の違いでしかないと感じています。

 今、行われているヘイト・スピーチを法律で取り締まるべきかどうかですが、例えば新大久保や鶴橋で見られているような本当に乱暴で粗野な言葉に対処するというレベルでは、法的な禁止も場合によっては有効かとは思います。例えば目の前で「古賀光生を殺せ、古賀の家族を皆殺しにしろ」とやられたら、私は耐えられません。何とかして欲しいというのは、当然の要求ではないかと思います。

 ただ、何らかの形でヘイト・スピーチを規制したとしても、それによって根底にあるマグマがなくなるわけではない。排外主義への対策についてはドイツの例がしばしば引き合いに出されます。ドイツでは、人種差別やナチスの賛美は法的に禁止されています。だからと言って、ドイツに排外主義や反移民感情がないかと言えば、そんなことは全くありません。法律で禁止されていても網の目をかいくぐる形でいろいろな運動が散発的に起きています。

 今日のお話に出て来たオランダやオーストリアのように合法的な新右翼政党があり、そこに集まって活動しているほうがある意味では党幹部が過激な主張をなだめすかすことに一役買っていると言える面もあるかもしれない。政党として議会という場で活動しながら、そうした不満や感情を外に漏らさないような形に変えていると言えるかもしれません。

 ただし、ノルウェーで起きたアンネシュ・ブレイビクによる銃乱射事件のようなケースもあります。彼はもともと進歩党に参加していましたが、進歩党が合法性を気にするあまり穏健なことを言っていて役に立たないからと、政党を飛び出て独自にあのようなテロ行為に走った。ですから、合法的な勢力があったとしても、孤立して不満を抱えている人たちを上から押さえつけた時に、その圧力が脇に強く出るという恐れも残されていて、難しいところです。

水島 日本のヘイト・スピーチの特徴が北欧の例と違うのは、例えば中国における人権侵害を問題視して、その上で中国を批判するというものではないという点です。北朝鮮、韓国、中国など全て一からげにして厳しい言葉を投げつけている。これは日本国内の一部では一定の支持を得られても、国際的には極めて批判されるところです。

 具体的に目の前の人に向かって「殺せ」と言うのは、一種の脅迫に当たる面があるので、既存の法律を使って取り締まることもあるいは可能かと思います。ただ、社会運動そのものに対して、日本は全体として抑制的で厳しい対応をとるので、運動そのものを強く規制すれば、その規制は他の社会運動に対してもかかってくると思います。私も積極的に新しく法律をつくって取り締まるべきだとは考えていません。

 私自身は、メインストリームの政治家やメディアがきちんと批判すべきところを批判すべきだと思います。実際ヘイト・スピーチに参加した人たちは、当初は安倍晋三首相にかなり期待していました。ところが、首相に就任した安倍氏がヘイト・スピーチに批判的な態度を明示的に示したら、そうした団体もやや混乱した印象があったように思います。恐らくそこで錦の御旗が降ろされてしまったように思いました。最近参加者が減っているのは、そうした社会的な孤立のあらわれと言えるのではないか。もちろん孤立してさらにラディカルに進んでしまう可能性もあります。ただ、少なくとも保守系の政治家によっても批判されるような行為だと理解するならば、これまでのような求心力は緩んでいくだろうと思います。

古賀 一番やってはいけないことは、既存の政治家がこれを少しでも利用しようとすることです。フランスの国民戦線は既存政治家がこれをうまく使って自分たちが伸し上がろうとして、結果的に助長したところがある。

 仄聞するところでは、意図はそれぞれにあるのだと思いますが、SNSなどで一部の政治家が何らかの形で少しでも利用しようとしている向きがある。これは徹底的に批判すべきです。政治家は絶対にこうした運動には与しない態度を明確にしなければなりません。ヨーロッパの経験を見ても、絶対にやらなければいけないことです。(終)

水島 治郎・千葉大学法経学部教授
1967年東京生まれ。東京大学教養学部卒。オランダ・ライデン大学留学を経て、東大大学院法学政治学研究科修了。博士(法学)。日本学術振興会特別研究員、甲南大学助教授を経て現職。著書に『反転する福祉国家──オランダモデルの光と影』『戦後オランダの政治構造──ネオ・コーポラティズムと所得政策』など。
古賀 光生・中央大学法学部准教授
1978年東京生まれ。東京大学法学部卒、同大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。立教大学法学部助教、学習院大学法学部非常勤講師などを経て現職。専門は比較政治学。西欧の政党政治、特に極右政党、ポピュリスト政党が研究対象。

 

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