『公研』2020年8月「めいん・すとりいと」

呉座勇一

 最近話題になった書籍に、石井妙子氏のノンフィクション『女帝 小池百合子』(文藝春秋社)がある。女性初の総理候補との呼び声もある東京都知事の小池百合子氏の波乱に満ちた人生の軌跡を、関係資料の博捜と多数の関係者への徹底的な取材によって克明に描き出した迫真のドキュメントである。

 匿名の証言者も少なくないので、小池氏の酷薄な人間性を示すエピソードの真偽などについては、疑う向きもある。しかし、一つだけ確実なことがある。小池氏は政策に特段の知識も関心も持っていないという事実である。

 小池氏が初めて東京都知事選に出馬した際、「東京大改革」と称して、七つのゼロを達成すると主張した。待機児童ゼロ、介護離職ゼロ、満員電車ゼロ、残業ゼロ、都道電柱ゼロ、多摩格差ゼロ、ペット殺処分ゼロの七つである。2階建て電車を走らせる、空き家を保育士に住居として提供するなど、当初から実現性が疑問視されたアイディアが多かった。

 案の定、七つのゼロは全く達成できなかった。小池氏はペット殺処分ゼロの達成を主張したが、これは病気や障害のある犬猫の殺処分をカウントしないという環境省の方針変更によるものである、と石井氏は指摘している。

 また都知事就任当初から重視してきた築地市場の豊洲移転問題についても、石原慎太郎元都知事らの責任追及にだけ熱心で、決断を先送りし続けた。ようやく打ち出した「築地は守る、豊洲を活かす」という方針もいつの間にか反故にされた。豊洲移転が2年も延期され、無駄な費用をかけ、余計な混乱を生んだだけだった。

 小池氏が政界に入って30年近く経つが、政治的実績と言えばクールビズぐらいである。重要だが根気を要する地味な政策には興味を持たず、打ち水や風呂敷など、実効性に乏しくテレビ受けしそうな企画に熱中する。最近の新型コロナウイルス対応でも、単に目立ちたいだけではないかと疑わせる言動が見られた。石井氏が説くように、「学ぶ」ことは嫌いで、「見せる」ことにしか関心がないのだろう。

 政治家としての内実が空虚な人物が、メディアへのアピール力と政界遊泳術だけで総理候補にまで台頭してきたという事実は、非常に恐ろしい。

 別に私は小池氏個人を糾弾したいわけではない。小池氏的な人物は、日本社会のあらゆる分野で脚光を浴びている。そのことこそが日本の本質的な問題だと思う。

 私は、井沢元彦氏の『逆説の日本史』(小学館)や百田尚樹氏の『日本国紀』(幻冬舎)などの「俗流歴史本」を批判し続けている。小池氏現象と同根だからだ。地道な調査・分析を厭い、歴史学者の真摯な研究姿勢を貶め、奇抜な思いつきで注目を集めようとしているからだ。

 彼らの本はある意味で面白い。卑弥呼は殺された、天智天皇は暗殺された、崇徳天皇は不義の子だった、足利義満は毒殺された、豊臣秀吉は不妊症で秀頼は大野治長の子だった、孝明天皇はウイルステロで殺された──。けれども、それらの面白さは、打ち水や風呂敷のそれと変わらない。

 本能寺の変の黒幕説もそうだが、これらの陰謀論は学問的検証に耐えられる代物ではない。仮に歴史的事実だとしても、それは歴史の本質とは関わりない。彼らの珍説の面白さは歴史の面白さではなく、ワイドショー的な底の浅い面白さである。

 地道な努力を積み重ねた者よりも、自己PRに長けた者のほうが、あるいは体系的・持続的に思考する者よりも、瞬発的に気の利いたコメントを繰り出せる者のほうが成功者になれるのだとしたら、日本社会の衰退と劣化が止まることはないだろう。国際日本文化研究センター助教

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