支持され続けるマッチョな孤高のリーダー像
加藤 では、なぜこうしたCEO的君主制が一定の支持を集めるのか。背景にはアメリカ人のリーダー観が大きく関わっていると思います。
一つは、文化的な土壌です。アメリカ人って起業家が大好きですよね。知性的で切れ者の強いリーダーが大きなシステムをつくり、富を築いていくというサクセスストーリーに惹かれる人が多い。また、西部開拓時代を描いたジョン・フォードの映画もマッチョな孤高のリーダー像を提示しますし、福音派の世界でも、「強い男性リーダー」像がこの50年ほど繰り返し語られてきました。
もう一つは時代的な背景です。1960年代以降、ローズベルト時代に肥大化した連邦政府が、文化的にリベラルな政策を推し進めるようになります。それへの反発が半世紀にわたって積み重なってきました。
こうした鬱屈が積もったところに響くのが、一種の強いリーダー待望論です。肥大化した政府を、道徳的で人々から尊敬される指導者が打ち破り、国民がその後に続いていく。そうした物語が、今のアメリカでは共感を集めやすい。
つまり、強いリーダーへの憧れという文化的な土壌の上に、政府への長年の不満という政治的な文脈が重なって、CEO的君主制というアイデアが受け入れられる土台ができているわけです。
しかしながら、トランプさんが実際にそのCEO型の強いリーダー像に当てはまるかというと、少し違うようにも思います。ヤーヴィンも、「トランプ政権の執行権はローズベルト時代に比べればはるかに小さく、本来は就任直後にもっと大胆な改革ができたはずなのに、それが十分にできなかったことは失敗だった」と言っています。理想として掲げられるCEO型リーダー像と、実際のトランプとの間には、ヤーヴィン自身が認めるほどのギャップがあるのでしょう。
政治の行き詰まり感という共通の根
宇野 興味深いのは、君主制を支持する根本にある、変えられるはずなのに変えられないというヤーヴィンの苛立ちは、実はもっと穏健な論者とも共通している点です。
一つ比較になるのが、政治学者フランシス・フクヤマの主張です。デニーンやヤーヴィンとは立場が明らかに異なるフクヤマですが、トランプ以前からアメリカ政治を「ヴィートクラシー(vetocracy)」だと批判してきました。三権分立やチェック&バランスの仕組みの中で、誰もが拒否権を行使し合い、結局何も決められなくなっている状態のことです。つまり、法の支配や権力分立が行き過ぎ、政治が機能不全に陥っているという認識です。
これへの解決方法として、フクヤマは制度の改革を求め、ヤーヴィンは君主制をもちだすなどそれぞれですが、アメリカ政治が機能不全に陥っているという認識自体は、思想的立場を超えて広く共有されているのだと思います。
加藤 まさにその通りだと思います。既存の政治システムへの不信感があるからこそ、CEO的な君主というアイデアも完全には否定されない。カトリックが求められるのも、デニーンさんのポストリベラリズムが支持されるのも、根っこにあるのは同じ行き詰まり感なのでしょう。
宇野 それをトランプが何もかもガラッと変えてくれるのではないかという、ある種の破壊者願望がある。その旗のもとに、百鬼夜行のごとく魑魅魍魎が跋扈しています。ただこれらは支離滅裂に見えても、それぞれ彼らなりの理屈があって、いろいろな思想的伝統を引っ張ってきているんですよね。デニーンの構想の背景には、古代以来の混合政体──君主制・貴族制・民主制を組み合わせる考え方──がありますが、実はヤーヴィンの構想も同じ枠組みで読み解けます。匿名の理事会が貴族制の役割を果たし、その上にCEO的な君主が立つ。彼もまた、現代版の混合政体のようなモデルを思い描いているのだと思います。
日本の政治思想には、こうして異なる統治原理を組み合わせて再設計するという発想自体がそもそも根付いていない気がします。
加藤 そうですね。だからこそ日本はアメリカに追随してしまう傾向にあるのかと思います。
日本賛美という突き放し
宇野 一方で面白いのは、反対にアメリカの保守系知識人も、日本をかなり意識していることです。ヤーヴィンが最近出した『ネオ君主論──民主主義の敗北とテック右派の時代』は、日本オリジナル版の編集でしたが、それもあってか、妙に日本を持ち上げる論調になっていました。徳川時代を賛美したり、日本には秩序があって循環型経済を実現していると。傍から見ると典型的なオリエンタリズムなのですが、やたらと日本を意識している。
こうした日本賛美は、ヤーヴィンに限った話ではありません。アメリカの社会学者ロバート・ベラーは、日本研究者でもあり、彼は徳川時代の日本に、表立った宗教はなくとも社会秩序を支える宗教的な精神──彼の言う市民宗教──を見出し、その視点をアメリカに持ち帰って、アメリカにも市民宗教があると論じました。このように日米の間では、互いのイメージが昔からぐるぐると循環していて、その思想的な文脈の中で、日本はどこか独特の位置を占めている。
加藤 ただ、賛美されている当の日本人からすると、複雑な気分です。
宇野 そうなのです。これまで日本はリベラルな民主主義国家アメリカをお手本として仰いできました。ところがいま起きているのは、そのお手本が勝手に座を降りながら、代わりに日本を持ち上げる、ということです。つまり彼らの日本賛美は、裏を返せば「お前にはお前の伝統があるんだから、勝手に生きていけ」という突き放しにも見えかねない。ヤーヴィンの議論は、「江戸時代の日本のほうが良かった、アメリカの支配から自由になればいい、デニーンもトランプ以前のアメリカにはもう戻らない。日本は日本で生き延びていけばいい」と言っているように、私には聞こえるんです。日本人として見ると、どこか居心地の悪さを感じます。
というのも、今日話してきたような閉塞感は、日本にも同じようにあるからです。だからこそ対岸の火事として眺めるのではなく、こうした危うい議論を日本側としてどう受け止め、どのような戦略を描いていくのかが問われているのだと思います。アメリカからの自立路線も、簡単に選べる話ではありません。
アメトラに見る伝統の再発見
加藤 すごく重要な問いです。その前に一つ例え話をさせてください。アメリカン・トラディショナル、通称「アメトラ」というファッション文化があります。ボタンダウンシャツに象徴されるような、アメリカの伝統的な学生スタイルを日本流に取り入れたものです。
興味深いのはその成り立ちです。1960年代、日本のファッション関係者がアイビーリーグの大学をめぐり、学生たちの服装を撮影しました。それが後に、伝説的な写真集『Take Ivy』として出版されます。ただ実際には、その頃アメリカの大学生はもうアイビースタイルをほとんど着ておらず、写真に収められたのは、かろうじて残っていたその名残でした。それでも日本では「アメリカの学生はこんな格好をしている」ということにして、そこから日本独自のアイビーブームをつくり出します。
面白いのは、この『Take Ivy』が2010年代になってアメリカで再評価され、大反響を呼んだことです。アメリカ人自身が「自分たちにはこういう伝統があったのか」と、日本を経由して自国の文化を再発見する、という現象が起きました。
宇野 まさに逆輸入です。
加藤 この構図は今の日本とアメリカの状況にどこか似ていると感じます。政治の話に戻すと、戦後日本はアメリカ由来の革新主義的な伝統を受け継いだ日本国憲法のもと、日米同盟という枠組みとともに80年間歩んできました。自由主義と民主主義を土台に紆余曲折を経ながらアップデートを重ね、今の日本は世界中から行きたい国として好意的に見られる、豊かな文化的土壌を築いています。アメトラの再解釈も、その一例と言えるでしょう。
だからこそ今は、この80年間で紡いできたものを単純に捨てて「戦前に戻ろう」と言うのではなく、そこから何を引き出しもう一度世界に発信していけるのかを、もっと主体的に考え直す時期に来ているのではないかと思います。
ただ、そのまま繰り返せばいいわけではありません。アメトラもその後何十年もかけてイッセイ・ミヤケのような日本独自のファッションブランドを生む土壌になりました。それと同じように、私たちの世代でこの伝統をアップデートできる時代が来ているのではないかと、楽観的かもしれませんが、そんな気がしています。
一方通行ではない、鏡のような相互影響
宇野 世界史の理解の仕方としてすごく面白いです。かつては「進んだ欧米」対「遅れたアジア」という構図で、いかに欧米をうまく理解し、学ぶかが議論の中心でした。しかし実際には、一方通行の関係ではなくお互いが鏡のように影響し合い、相手に勝手なイメージを投影しながら自分自身を振り返ってきたのだと思います。
アメリカにとって戦後日本の統治は成功例でした。アメリカの制度や文化がうまく根付いたと見なされたからです。ただ、同じことをイラクでもやろうとして、なぜかうまくいかなかった。つまり、その成功は、どこでも簡単に再現できるものではなかったわけです。
そして今、一部のアメリカの保守系知識人たちが、日本には良き秩序や社会倫理、良き伝統があると言っている。これもまた不思議な現象で、裏を返せば、そうした秩序がアメリカ自身の中では失われつつあることの合わせ鏡なんですね。
加藤 まさに、ベラーが日本で市民宗教を発見したのと同じことですね。アメリカが日本を経由して、自分たちの伝統を再発見している。
宇野 日米はああやって、お互いを鏡にしながらイメージを循環させてきた。私たちはアメリカの影響を受けてきた側面ばかり語りがちですが、逆方向の影響も同じくらいあった。それが今も機能しているというのは、とても興味深いと思います。
戦後日本がアメリカ経由で受け取った民主主義やリベラルな価値観も、日本なりに工夫しながら自分たちのものへと作り替えてきました。だからこれからは、その経験を世界に向けて示していく番なのだと思います。アメリカが民主主義を見直す方向へ進んだからといって、日本までその流れに従う必要はありません。
世界が互いに影響を与え合う時代だからこそ、日本は自国の政治が何を最も大切な原理としてきたのかを改めて問い直す必要があります。アメリカが君主制を言い出したから、日本もそうしよう、といった短絡的な発想には陥ってはいけないということです。
閉塞感をどう乗り越えるのか
宇野 最後に伺いたいのですが、今日繰り返し出てきた「自分は少数派で、誰かに押しつぶされている」というこの感覚は、アメリカだけの話ではありません。日本、そして世界中の人がどこかでこの閉塞感に囚われ始めている。これを乗り越えていくためには、どうしたらよいのでしょうか。
デニーン流に言えば地域の支え合いを取り戻す、ということになるのでしょうが、この変化の速い時代にそれは悠長すぎないでしょうか。私も答えは出ていないのですが、加藤さんはどう思われますか。
加藤 ここまで危機の話ばかりしてきて、最後にこう言うのも変ですが、まず大事なのが危機を必要以上に肥大化させないことだと思います。
PRRI(公共宗教研究所)の今年6月の調査によると、アメリカ国民のうち「多民族的な多元主義」を求める人は、「白人・キリスト教中心の国」を望む人よりはるかに多く、6~7割に達しています。外交についても、武力行使は最後の手段にとどめたいと考える人が7割に上ります。つまり、アメリカの多数派は、今も国際協調や多元性を望んでいるということです。声の大きい極端な塊が目立つと世界全体が極端なほうに向かっている気がしてしまいますが、実際はそうでもないことが多い。これは日本も同じで、明日にも戦前の天皇制を復活させようと本気で思っている人は、声は大きくてもごく少数のはずです。
宇野 やはり社会全体は世俗化に向かっているし、多様性を受け入れ、他国と協調するという価値観をよしとする流れは、社会の潮流として間違いなく進んでいるわけですよね。
加藤 おっしゃる通りです。ただ、「極端なところがただ目立っているだけだ」といって油断もできません。人々が政治に無関心になっている隙に、声の大きい人たちが組織票を固め、政治制度そのものを変えてしまうことがある。しかも一度変わってしまうと、簡単には元に戻せません。だからこそ、しっかりと目を開いておく必要があります。
もう一つ、閉塞感を乗り越えるために必要なのが、広がりすぎた格差をどう是正していくかという問題です。超富裕層をどう規制するのかは、右も左も関係なく、政治も経済も共に考えていかなければならない課題です。これは日本国内だけでなくグローバルな問題でもあり、国際的な連携の中で少しずつでも変えていく必要があります。
そこでは、伝統を重んじつつ日本の伝統の中にある良い部分を現代的にアップデートすることで、強者との関係を考え直せるかもしれません。あるいは、デニーンの言う共通善の中にヒントがあるのかもしれない。いずれにせよ、超富裕層や超強者たちをどう規制していくかは、これからの学問がクリエイティブに考えていかなければならない、今後最も重要なテーマの一つだと思います。
アメリカの試行錯誤から、日本の民主主義を考える
宇野 そうした格差の是正は簡単ではありませんが、実際に移行の痛みを負わされている人は多くいます。行き詰まり感や孤立感を抱え、自分の存在意義を確かめられるものを求めた結果、福音派のような信仰に頼る人が出てくるのも、決しておかしなことではないと思います。
むしろ今のアメリカは、そこに政治思想から宗教まであらゆる伝統を動員して、この状態をどう説明するかを、知的なおもちゃ箱から一つずつ出すかのように「コモングッド、使えるかな」「混合政体、また使えるかな」と試している。こうして、答えを急いで一つに絞り込むのではなく、様々な伝統を総動員して試行錯誤していること自体が、むしろ健全な模索の過程とも思うのです。
だからこそ、繰り返しになりますが、こうした混乱期には一部の極端な意見が実態以上に大きく見えます。しかし、それを見て「アメリカは全部違う国になった」「民主主義は終わった」と絶望するのはまだ早い。とにかくやれるところをやっていくしかないのです。それはデニーンの言う地域の立て直しもそうですし、加藤さんがおっしゃった通り、極端な格差は民主政体を維持する上で不都合なので埋めていく必要があります。
そうした課題に向き合う上で、日本には日本的な知的伝統もあれば、近代を通じて追いかけてきたリベラルデモクラシーがきちんとある。これを組み合わせながら、自分たちなりの答えを探していくべきです。アメリカのこうした試行錯誤を面白がりつつ、そこで何が問われているかを確認し、その問いを自分たちに引き戻して考える、そういうきっかけにするべきなのだと思います。
だから、アメリカをトランプは変な人、福音派は困った人とキワモノのようにしてしまうのでは理解が浅いでしょう。これだけ多くの伝統や思想を動員してでも危機と向き合おうとしているアメリカから、私たちが学べることは まだたくさんあるはずです。加藤さんのような研究者が今の日本で求められているのも、その表れなのだと思います。
(終)
