エリートたちのカトリック復権
宇野 また一つ興味深いのが、今のアメリカ社会でカトリックが復権してきているように見えることです。J・D・ヴァンス副大統領は2019年にカトリックへ入信しましたし、マルコ・ルビオ国務長官は生まれながらのカトリックです。トランプ政権の首脳部や連邦最高裁判事では、カトリック信者がアメリカ全体の人口比率を大きく上回る割合を占めている。このエリート層でのカトリックの復権、一体何が起きているのでしょうか。
加藤 まず司法に関して言うと、連邦最高裁をはじめ連邦判事にカトリックが多い背景には、フェデラリスト・ソサエティという団体の存在が大きいです。レオナルド・レオが共同議長を務めるこの団体は、カトリック信仰や反リベラルな立場を打ち立てるために多額の献金を集め、それを使って連邦判事を推挙してきました。
また、カトリックには長年にわたって培われてきた知的な蓄積があります。1960年代には、福音派が歩兵として一般信徒レベルで勢力を拡大していく中で、カトリックの知識人たちは、福音派以前から同性婚や中絶といった重要な倫理的問題を議論し続けてきました。そのため、神学的な伝統から社会思想に至るまで、知的な枠組みをきちんと積み上げていたのです。
例えば中絶の議論でも、福音派はどちらかというと聖書を直接引用するのに対し、カトリックは聖書だけでなくカトリック社会思想も用いながら、生命の尊厳を重層的に組み立てることができます。ある種、カトリックの知識人層と福音派とは、そうやって長らく役割分担をしてきたのだと思います。
つまり、司法レベルでの人材登用、大学レベルの知的貢献と、この両輪を長い時間をかけて培ってきた結果が今のカトリック復権の表れなのだと思います。
宇野 一方で、こうした変化も不思議に思います。過去、アメリカで初めてカトリックの大統領になったケネディの時代には、カトリック=アイルランド系という、ある種の差別意識が根強く残っていました。白人アングロサクソン系プロテスタントの主流派というWASP文化の中で、彼がカトリックとどう関係を持つかが重要な論点となっていました。ケネディは最終的に、自らの信仰を政策には持ち込まず切り離すという立場を取りました。
しかし時代が変わり、同じカトリックのバイデン大統領の時には、昔ほどの反カトリック意識は見られませんでした。そして今では、高学歴エリートがあえてカトリックを選ぶことも珍しくない。場合によっては無神論者や福音派であるよりも、カトリックであるほうが社会的に承認を得やすいことさえあります。
加藤 それはすごくあると思います。先ほどの知識の蓄積もそうですが、やはり近年の福音派はカトリックより浅いと感じる人たちが多いのも事実です。福音派の信仰は、回心体験──ある瞬間に神の存在を強く実感して人生観が一変する、という感情的な経験に拠っているので、哲学的な裏付けが弱い。だから迷った時に無神論や世俗にも簡単に流れてしまう。
その点カトリックには、トマス・アクィナス由来の神学体系(トミズム)や、理性で見出せる普遍的な道徳法則とされる自然法の伝統があります。聖書も一言一句を文字通り読むだけでなく、寓意的(アレゴリカル)に読み解く懐の深さがある。こうした知的な厚みは、福音派の神学にはなかなか出せないものなんですね。知的エリートはこうした点に惹かれるのだと思います。
宇野 福音派はボーン・アゲインという瞬間的な覚醒感はあるにしても、それが長く続くかというと難しい。教会や教義、制度や歴史、伝統といった蓄積で見れば、カトリックのほうが知的にも納得感を与えてくれる部分が大きいのかもしれません。まさにヴァンスの心の動きは、その典型ですよね。若い頃は福音派に惹かれ、一度は無宗教になり、最終的にカトリックへとたどり着く。
加藤 そうですね。ヴァンスが綴った信仰体験のブログ記事などを読むと、政治的なポジショニングだけが改宗の理由とは到底思えません。彼は誠実に何かを探し求めていた気がするのです。生い立ちに根ざした、知的にも政治的にも経済的にも「ここではない何か」を常に探し続けてきた。能力はあるが居場所が見つからなかったのが、最後にカトリックに行き着いた、という感じがします。
宇野 彼がもし最初からリベラルなエリート文化に染まっていたら、こんなことを考える必要はなかったはずです。そうではなく、その外側にいた人間だからこそ、あえてエリート文化に入り込み、そこに強い違和感を覚え、自分探しをした。そういうタイプの人にとって、カトリックはある種の救いになる。苦労した「すごろくの上がり」がカトリックだったのかもしれません。ヴァンスに限らず、同じように感じている人が一定数いるからこそ、カトリックが復権しているように見えるのでしょう。
ポストリベラリズムの論客 パトリック・デニーン
宇野 そのヴァンスに影響を与えたとされる人物の一人が、政治思想家のパトリック・J・デニーンです。ノートルダム大学の政治学者で、2018年の著書『リベラリズムはなぜ失敗したのか』で注目を集めた人物です。彼の主張は、個人の自由を最大限重視するリベラリズムそのものが行き過ぎた結果として、人々を支えていたはずの家族や地域、宗教といった共同体を壊してしまったというものです。保守・リベラルの垣根を越えて大きな議論を呼び、今ではポストリベラリズムと呼ばれる思想潮流を代表する論客の一人となりました。保守派を超えた影響力を持っています。
実は先日、私が国際交流基金に企画を持ちかけて、初来日されたデニーンさんを招き、直接お話しする機会がありました。その際、世間では「ヴァンスの思想的支柱」とも評されるデニーンに、ヴァンスへの影響について直接聞いてみたのですが、「それほどでもない」と否定していました。政策について具体的に話し合ったことはないけれど、ヴァンスが進路に迷っていた時期には、さまざまな対話を重ねていたと話していました。
デニーンのような人を、今の日本に呼んでよかったと感じています。日本では、トランプ政権の周りには悪質なイデオローグしかいないと思われがちですが、デニーンは彼なりに独自の理論を歴史的な視座において組み立てている人物でした。だからこそ、彼の思想がなぜアメリカでこれほど支持を集めているのか、私たちも理解しておく必要があると思ったのです。加藤先生は彼をどんな人物だと捉えていますか?
加藤 印象としては、人間的にすごく魅力のある人だと感じました。テキストを読んでいるだけでは伝わらない部分がありました。京都の専門家会議の後に食事をご一緒したのですが、異なるものを拒絶せず、一度きちんと向き合ってみようという懐の深さを感じました。もちろん彼にも立場がありますから、冗談っぽく文化的リベラリズムを揶揄することもありましたが、それでも目の前の相手ときちんと膝を突き合わせて議論したいという知的好奇心を感じました。
宇野 デニーンからは、本当にそう信じて語っている、ということが感じられますよね。
加藤 やはり彼自身が西洋思想史をよく学ばれていたからだと思います。
また、私自身、彼の考えすべてに同意できるわけではありませんが、共感できる部分もあります。個人の自由の追求が家族や地域を壊してきたという指摘や、他者を排除してしまう左派のキャンセルカルチャー的なリベラリズムへの批判には共感できます。
閉塞感を打破する「劇薬」の危うさ
加藤 ただ、彼の主張には相当な危うさも感じることも事実です。著書『レジーム・チェンジ』で彼は、個人の自由よりも社会全体の共通善を重視する「共通善保守主義」へ移行するために、貴族制と民主制を組み合わせるというアリストテレス由来の理想を掲げています。
危ういのは、その理想を実現する手段です。彼は、既存のシステムを一度破壊する「蜂起」が必要だと述べていますが、私はここにハイデガー的な危うさを感じました。 ハイデガーもかつて近代を憂い、既存の秩序を壊すことで、その先により本来的な何かが立ち現れると考え、それがナチズムへの加担という破滅的な政治判断につながっていきました。デニーンさんの蜂起の議論にも、破壊した先に何が来るかを十分に見通さないまま、危機そのものを刷新の契機として求めてしまう、同じ構造の危うさを感じるのです。
というのも、たとえシステムを破壊したとしても、人間社会はそう簡単には変わりません。人間は一度手にした権力や暴力性に、たやすく飲み込まれてしまうものだということは、西洋哲学史を振り返れば明らかです。それなのに、西洋哲学史を学んだデニーンさんがなぜそこまで楽観的でいられるのか、疑問に思います。
宇野 その危うさは、私も感じました。
彼の理論の核心はこうです。リベラリズムが成立するには、他者への信頼や、時に自己犠牲を払ってでも社会に尽くす姿勢といった、それを支える文化的な基盤が必要だと。ところがリベラリズムは、自己利益の最大化を追求する個人主義を徹底することに「成功」した結果、皮肉にもその成功ゆえに、自らを支えていたはずの文化的基盤を壊してしまった。失敗して個人主義に陥ったのではなく、むしろ成功したからこそ失敗した、という逆説的な問題提起です。
これはいかにもトクヴィル的です。トクヴィルも、民主主義が進めば進むほど、それを支えていた人と人との結びつきが失われていくのではないかと危惧していました。これは東大で議論した際に、デニーン自身が語っていたことなのですが、彼にとってトクヴィルの魅力はこうです。リベラリズムは基本的に発展志向・進歩志向に立つ思想ですが、トクヴィルはそうではなく、どこかで衰退もあり得るという視点を持っていた。そこにこそ惹かれる、ということでした。だからこそ彼は、エリート主導ではなく、人々の常識的な感覚に立ち返るコモンセンス保守主義を掲げ、コミュニティを地道に立て直していくべきだと主張します。それ自体には、私も共感しました。
一方で、二つ疑問が残ります。一つは、社会の解体や人々の絆の希薄化は、本当にリベラリズムだけが原因なのか。近代化や経済発展そのものがもたらした側面もあるのではないかという点。もう一つは、コモンセンス保守主義によって文化を立て直すという方向性は理解できても、急速に崩れつつあるアメリカ社会に、その処方箋は間に合うのかということです。この二点をかなりしつこくデニーンにも尋ねたのですが、明確な答えは返ってきませんでした。
また、目的のために破壊的な手段を選ぶ姿勢は、悪しき意味でのマキャベリズムと紙一重です。デニーン自身も、トランプ政権が全面的に正しいとは考えていないと言っていました。それでも、アメリカの現状を変えるには、トランプという劇薬を用いてでもレジームチェンジを起こす必要がある、というのが彼の考えなのでしょう。おそらく政権に参加している他の知識人たちも、程度の差こそあれ同じ発想なのだと思います。
デニーンは強い信念を持つ思想家でありながら、現実政治では極めて機会主義的な判断を下しているようにも見え、この点に私は危うさを感じました。裏を返せば、それだけ現在の体制への絶望が深いということなのでしょう。
加藤 この絶望や閉塞感がカギとなりますね。
宇野 それで言うと、一つ面白いと思ったのが、国際交流基金のイベントには多くの人が集まっていて、独特の熱を感じたことです。デニーン的なものを求めている人は、日本にも一定数いるのかもしれません。
加藤 それは確かにあると思います。デニーンだけでなく、トランプ政権の周辺で存在感を放つ起業家のピーター・ティールや、思想家のカーティス・ヤーヴィンといった極端な保守派思想家への日本人の関心の高さは、メディアの露出などを見ていても実感できます。
ただ正直なところ、彼らは本来なら批判されてしかるべきかなり特異な考えの人々です。それでも日本で関心が高いのは、アメリカ同様に、今の日本に漂う知的閉塞感の表れなのだと思います。既存の政党は自分たちの声を代弁してくれない、資本主義や既存のリベラルな考え方ではもう立ち行かないのではないか、という思いが日本にも薄々あり、「ここではない何か」を求める気持ちがふつふつと湧き上がっているような空気があります。
宇野 程度や種類は違えど閉塞感は日本にもある。だからデニーンの語りに惹かれる人がいるのも頷けます。
