2026年8月号「対話」
世界の民主主義を牽引してきたアメリカで、
いま一見突飛とも見える思想の数々が一定の支持を集めている。
増していく宗教の存在感、CEO的君主制への期待
その背後で何が起きているのか。
東京大学社会科学研究所所長 宇野重規(画像右)
立教大学文学部教授 加藤喜之(画像左)
うのしげき:1967年島根県生まれ。91年東京大学法学部卒業後、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了、博士(法学)。千葉大学法経学部助教授、東京大学社会科学研究所准教授、同研究所教授などを経て、2024年より現職。専門は政治思想史、政治哲学。著書に『トクヴィル 平等と不平等の理論家』『民主主義とは何か』『実験の民主主義──トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』『政治とは何か』など。
かとうよしゆき:1979年愛知県生まれ。プリンストン神学大学院博士課程修了、Ph.D.。東京基督教大学准教授、ケンブリッジ大学クレア・ホールおよびロンドン・スクール・オブ・エコノミクス客員フェローなどを経て、24年より現職。専門は宗教学・思想史・政治神学。著書に『福音派──終末論に引き裂かれるアメリカ社会』、共著に『キリスト教から読み解くヨーロッパ史』『日本史を宗教で読みなおす』など。
民主主義には宗教が必要?
宇野 今、アメリカの民主主義のあり方そのものが問われています。CEO的な君主制を唱える人が出てくるかと思えば、既存のリベラリズムそのものを見限る人もいる。時に突飛とも思える様々な思想が乱立しています。まるで、行き詰まった今のアメリカをどう立て直すか、あらゆる立場の人が思い思いの処方箋を試している、そんな状態です。今日はこれらの思想を単に奇妙なものとしてとらえるのではなく、その背後でアメリカ社会に何が起きているのかを、考えていければと思っています。
早速ですが、こうしたアメリカの動きを読み解く大きな鍵の一つが、宗教というテーマです。加藤さんは昨年9月に、『福音派──終末論に引き裂かれるアメリカ社会』を出され、大きな話題を呼んでいます。福音派は、回心体験や聖書の権威を重んじるプロテスタントの一大勢力です。共和党の最大の支持基盤の一つで、今のアメリカ政治を理解する上で避けては通れない存在です。加藤さんのご著書は、それまで日本ではあまり知られていなかった福音派という存在が知られるきっかけになったのではないでしょうか。そもそもですが、どういった経緯でこのテーマに関心を持たれたのですか?
加藤 もともと私は17、18世紀の西洋における宗教と政治を専門にしています。博士論文は、オランダの哲学者スピノザや、当時の思想家たちがラディカルな啓蒙思想とどう向き合ったか、というテーマで執筆しました。今も研究の本業はそちらですが、学部時代から現代社会における信仰と理性、政治と宗教の関係にも関心を持ってきました。
同時に、ポストリベラルの問題にも関心を持ち続けてきました。近年は、その関心をより実践的なテーマへ広げようと考え、2023年からNewsPicksで「宗教とグローバル社会」を連載し、各国でなぜ極右政党が台頭し、同時に宗教的な言説やシンボルが用いられるのかを比較してきました。その中の福音派の話を一冊にまとめたのが今回の『福音派』です。
宇野 スピノザからポストリベラル、そして福音派へと、一貫して宗教と政治の関係を追いかけてこられたのですね。
私の話と関連付けさせてもらうと、私はもともと19世紀フランスの思想家、アレクシ・ド・トクヴィルの研究から出発しました。トクヴィル個人にとっても、彼の思想においても、宗教はずっと離れられないテーマでした。代表作『アメリカのデモクラシー』で彼が一貫して説いたのが、デモクラシー社会には宗教が必要だ、ということです。政教分離が当然という日本人の感覚からすると不思議に響くかもしれません。
彼がそう考えるに至った背景には、故国フランスの事情があります。フランス革命において革命勢力とカトリック教会が対立し、多くの人が自由か宗教かの二者択一を迫られました。トクヴィルは自由主義者でしたが、宗教も社会にとって大切だと考えていたので、どちらかを選ばなくてはいけないことが苦痛だったのでしょう。そんな彼が1830年代にアメリカへ渡ってみると、宗教と自由は両立し得るということを目の当たりにして、非常に勇気づけられます。そして、彼が見出したアメリカの政教分離の本質は、宗教を公的な場から排除することではありませんでした。
加藤 国が特定の宗教を国教と定めないということですね。
宇野 そうです。複数の宗教が並び立ち、個人がどこに属するかを自由に選べる。国教がないからこそ、宗教が社会で生きてくる。これが自由と宗教が両立するアメリカ型の政教分離の姿だ、と論じたわけです。
では、なぜデモクラシーに宗教が必要なのか。トクヴィルによれば、デモクラシー社会では人々が他者との関係を失い、関心が「今この瞬間」の目先の利益へと狭まっていきます。宗教には、その視野を広げ、自分が死んだ後の社会や未来の世代にまで思いを馳せさせる働きがある。彼自身は宗教的懐疑に悩まされていたので、本当に信じていたかどうかは別として、みんなが一つの宗教を信じていること自体が社会の安定につながる、とまで言っています。今日お話ししたい福音派の台頭もカトリックの復権も、突き詰めればこの「デモクラシーにとって宗教とは何か」というトクヴィルの問いの、現代における再燃なのかもしれません。ただ、トクヴィルが当時の第二次大覚醒など、アメリカの宗教の実態をどこまで正確に見ていたかは、少し怪しいところもあります。
加藤 宗教を重んじたのはトクヴィルだけではありません。啓蒙思想家たちも、宗教の社会的な役割を明確に否定する人はほとんどいませんでした。無神論者とまで言われたスピノザですら、国が一種の公共宗教のようなものを重んじるべきだと論じているほどです。少なくとも20世紀までの民主主義や自由主義の思想では、宗教がなければ人々は各々の情念のまま勝手気ままに動いてしまい、それを規制するものがなくなってしまうと考えられていたからです。
宇野 宗教は、いわば情念の歯止めとして期待されてきたわけですね。
加藤 しかし、その歯止めであるはずの宗教には、二面性が存在します。宗教には人々の視野を広げる側面がある一方で、神と出会いそれによって世界が一変するような回心体験は、自分が経験した真実こそが絶対だ、という強い独善性を生むのです。そうなると、自分と同じ確信を共有できる仲間だけを大切にし、異なる価値観を持つ他者を遠ざける孤立主義的な傾向も強まっていく。様々な立場が対等に並び立つべきだという多元性の精神とは、相性が良くない側面もあるわけです。
宗教には、いわば起爆剤のような危うさが確かに宿っています。しかし皮肉なことに、その爆発力がなければ、そもそも人々の心に広がっていくこともない。民主主義にとって宗教は不可欠でありながら、同時にその危険性も無視できない。この矛盾こそが、宗教と民主主義の相性の良さであり悪さでもあるのだと思います。
宇野 まさにそこが、今日お聞きしたいところです。いまの独善性を生むとされる回心体験の話は、まさに福音派の信仰の核心ですよね。その福音派が、現在のアメリカで非常に強い政治的な影響力を持つようになっている。加藤さんのご専門でもありますが、なぜこのタイプの宗教がこれほどの力を持つに至ったのでしょうか。
世俗化するアメリカ、それでも残る福音派
加藤 一つ大前提として考えたいのは、福音派は確かに強いプレゼンスを持っていますが、アメリカ社会では世俗化が着実に進んでいるということです。今年のイースターには、カトリック教会で成人の洗礼・入信者が大幅に増加したことが話題になりました。しかし、それをもってしてでもアメリカ全体で宗教復興が起きているとまでは言えず、世俗化が止まった兆しも見られません。むしろ、特定の宗教に所属していない人々を指す「Nones」(非宗教者)は、冷戦直後で7%ほどでしたが、2023年には28%まで増えています。約3人に1人がNonesになっているわけです。
宇野 かなり多いですね。
加藤 さらに興味深いのは、教会に入る人よりも離れる人のほうが多いことです。2023年に出版された『The Great Dechurching』(Jim Davis, Michael, Graham、Ryan P. Burge著)によると、過去約25年間のアメリカでは約4000万人の成人が教会を離れたとされています。
宇野 ヨーロッパでも世俗化が進んでいます。特にフランスは早くから進んでいて、パリなど都市部にいると教会に通う人が極端に少ないことを実感します。ただ、それと比べると、アメリカはまだ宗教人口は多いでしょう。実態はどうなのでしょうか。
加藤 福音派に限ると、全米では約23%、およそ4人に1人だと言われていますが、地域差が非常に大きく、この数字だけでは実態は見えてきません。例えば、近年経済発展や人口流入が進む「深南部」のテネシー州やルイジアナ州では、約50%、つまり2人に1人が福音派の教会に通っています。一方、北東部のニューイングランドや北カリフォルニアなど世俗化が進んだ地域では4~5%にとどまります。
このように地域差は非常に大きいものの、全体として見ればアメリカは依然としてヨーロッパより宗教人口が多い国です。ただ、そのアメリカでも現状を見ると、既存の教会や宗教団体はかなりの勢いで影響力を失っているというわけです。
もう一つ興味深い調査結果があります。白人福音派を自認する人の三割弱が、「教会にはほとんど、あるいは全く通っていない」と回答していることです。
宇野 そうなると、その人たちは何をもって自分を福音派だと考えているのでしょうか。
加藤 彼らの多くはテレビやYouTube、SNSといったメディアを通じて、宗教的なコンテンツに日常的に触れています。そうしたメディア経由で「自分は福音派だ」というアイデンティティを持つようになる。ここでの問題は教会という緩衝材がないことです。通常なら他の信徒や牧師との対話が行き過ぎた考えへの歯止めになりますが、メディアと信仰が直接つながると、それが働かず過激な思想に傾倒しやすくなる側面があるのです。
福音派はいかにして一大政治勢力になったのか
宇野 なるほど。ただ、社会全体としては世俗化が着実に進んでいて、Nonesもこの数十年で大きく増えている。それなのに、なぜ福音派だけは他の宗派ほど衰退していないのでしょうか。
加藤 一つに、福音派には信仰を次の世代へ受け継ぎ、さらに信者ではない人々を自らの信仰へ導くことを重視する伝統があることが挙げられます。子どもたちへの信仰継承という点では、リベラルなキリスト教徒は宗教教育をあまり明確には行いません。一方、福音派では、子ども向けの宗教教育の場である教会学校(サンデースクール)を設けるなど、比較的しっかりと信仰継承が行われています。
二つに、福音派は、信者ではない人々に積極的に福音を伝える伝道・布教活動も特徴です。こうした姿勢は大覚醒運動以来の伝統ですが、1920年代の原理主義運動で強くなり、現在の福音派にも受け継がれています。一方、リベラルな人たちは布教活動をあまり積極的には行いません。「あなたが仏教徒なら仏教徒でいい」というように、それぞれの立場を尊重するスタンスが比較的多い。
宇野 信仰継承と伝道・布教活動の両方の強みがあることで、世俗化が進む中でも比較的その勢力を維持しているということですね。
ただ、数を維持しているというだけでは、これほど強い政治的影響力を持つ理由としては、まだ説明が足りない気がします。何が背景にあるのでしょうか。
加藤 一つに、投票率に占める福音派の割合が高まっていったことが考えられます。もちろん、福音派のような保守系プロテスタントは南部を中心に昔から存在していましたが、当時は必ずしも選挙への関心が高くなく、選挙登録をしている人も多くありませんでした。
そんな中、福音派が存在感を強める大きなきっかけとなったのが、1976年の大統領選挙です。民主党候補のジミー・カーターが、自らを「ボーン・アゲイン(Born Again)」と公言しました。
ボーン・アゲイン(Born Again)とは、新しく生まれ変わるという意味で、イエスを救い主として受け入れ、個人的な回心を経験したことを指す、福音派を象徴する言葉です。カーター以前もキリスト教徒の大統領はいましたが、自身の信仰体験をボーン・アゲインという福音派の言葉で公に語る政治家は彼が初めてでした。
宇野 この発言をきっかけに、福音派という存在が全米で広く注目されるようになったのですね。
加藤 また、1970年代にはカウンターカルチャーの影響などによって世俗化が進むアメリカ社会へ危機感を抱いた福音派の指導者たちが、伝統的な家族やキリスト教的価値観を守るため、積極的に政治への関与を強めていきます。
その流れの中で、1979年には福音派の牧師であるジェリー・ファルウェルが、保守系政治団体のモラル・マジョリティを設立します。こうした団体が、「選挙に行くことはキリスト教的価値観を守るために重要だ」と訴え、選挙登録を促したり、政治参加の重要性を説いたりすることで、福音派は次第に大きな政治勢力になっていったというわけです。
現在のアメリカでは、福音派は人口全体の約23%ですが、共和党内部では35%を占め、最大の支持基盤の一つとなっているのです。
宇野 福音派を無視しては選挙に勝てない、という構造になった。
加藤 さらに言うと、福音派の人たちはとても熱心なので、選挙で即戦力として重宝されます。必ずしも多額の献金をするわけではありませんが、ボランティアとしてビラを撒いてくれたり、熱心な「歩兵」として活動してくれるのです。またロビー団体も強いので、福音派なしでは選挙で戦えないほどになっている。
宇野 そうですね。特にレーガン以降、保守派はかなり意識的に組織化を進めていきました。ただ、1980年代の保守への大転換となったレーガン革命が突然起きたわけではありません。それ以前から福音派は組織として世代を超えて政治家を育成し送り出すところまで、非常に意図的にやってきた。そして重要なのは、今のアメリカ社会に一からそこまでできる組織がもうほとんど残っていないことです。だからこそ、福音派の持つ社会的な機能、さらに言えば政治的な機能が相対的に目立つようになった。社会全体は世俗化に向かっているのに、単独の団体として見ると福音派の影響力はむしろ拡大するというわけです。

