『公研』2026年3月号 第672回 「私の生き方」

俳優
岸部一徳


きしべいっとく:1947年1月9日京都府生まれ。1967年にザ・タイガースのベーシストとしてデビュー。解散後、PYGなどを経て俳優に転身。1990年カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作品『死の棘』をはじめ、映画『顔』『いつか読書する日』『必死剣鳥刺し』『鈴木家の嘘』、ドラマ『相棒』『ドクターX ~外科医・大門未知子~』シリーズなど多数出演。


 

面白い父、貧しい家族の温かみ

──1947年、京都のお生まれです。ご両親はどのような方でいらっしゃいましたか?

岸部 母は専業主婦で苦労ばかりしている人でしたね。父は元々憲兵でしたが、戦争が終わってからはちゃんとした定職に就かない人でした。面白い人で、どちらかというと遊び人みたいなところもあって、仕事をちょっとしたり、銀行に勤めたり、探偵をやったり、それから歌舞伎を見たり、美術品が好きな人でしたね。

 子供を一緒に連れて行ったりはしなかったですけど、歌舞伎役者の誰々の真似してみたりとか、話をするのが好きな人でした。稼ぎがない父で、たまにしか家に帰ってこないようなところもありましたけど、「もうこんな父が嫌だ」とか、誰も思いませんでした。そういう人いるじゃないですか、いい加減なんだけど好かれる人(笑)。

──幼い頃の印象深い記憶はどのようなことですか。

岸部 もうこれ以上の貧乏はないだろうっていうような貧乏でしたね。だから、勉強しろとか言われたことも一切ないですし、その余裕もなかったんだと思います。

 僕は9人兄弟でしたけど、まだ子供たちもみんな小さいんで、家族の中で勤めに出て給料をもらうような人は誰もいないわけですよ。うちの父がいろんなとこに行ってたまに帰ってくると、何で稼いだのか知らないですけど「ちょっとお金が入ったから、すき焼きするぞ」とか急に言ったりして。そういうのを当てにして待ってるみたいなね。

 母は、僕らちっちゃい子供たちにご飯を食べさせなければいけないから買い物に行くんですけど、お金を何も持たないで行くんですよ。魚屋さんに行ったら魚のアラをもらって、八百屋さんに行ったら野菜の葉っぱの端切れみたいなのをもらってきたり。ツケの時代だったんで、酒屋さんで醤油、味噌なんて全部月払いで何とか支払っていましたから、よく生活してたなと思いますね。日本中が貧乏な時代でしたけど、特に貧しかったから、母はすごく苦労したんじゃないですかね。

 でも振り返ると、その貧乏時代がやっぱり楽しかったっていうか。貧乏が面白いというのは変ですけど、そういう家族の中の何て言うか温かみみたいなもの、それが本当に何もない時に一番良かったっていう感じはしますね。

──大勢の兄弟ですね、のちにザ・タイガースに合流する岸部四郎さんとは特に仲が良かったのでしょうか。

岸部 2歳下なんで、小さい頃から近所で遊ぶときも必ず僕について回ってましたね。だから僕らがザ・タイガースで音楽やった時も東京に出てきて付き人みたいなことやったり、いつもくっついて回ってたタイプです。

 ザ・タイガースの加橋かつみが辞めた時、弟はたまたまアメリカに行ってたんですけど、急にメンバーになれと言われてびっくりしたんじゃないですか。おかげで弟はメンバーになったから、それはかえって良かったんでしょうけどね。

京都を早く出たい

──当時京都はどのような場所に感じていましたか。

岸部 京都は大人になってからいいところをいっぱい見つけられましたけど、子供の頃は窮屈なところでした。

 京都の人は、表では笑顔なんだけど心の中では何を思っているかわからない。そういうところがあります。京都弁て優しい言葉遣いじゃないですか、女性は特に。でも思っていることとは違う。それが兄弟だと、むしろよくわかったりする時があるんですよ。この独特な雰囲気があんまり悪いことじゃなくて当たり前、みたいな感じがあんまり好きじゃなくてね。とにかく京都を早く出たいって、小さい頃から思ってましたね。

 僕らは、たまたま音楽をやって10代で京都から出ましたけど「京都はイケズな人が多いんでしょ?」と聞かれたりすると、振り返った時に自分の兄弟が思い浮かぶんです。だからそういった京都の独特な雰囲気は、周りの人というより、家族から一番感じていました。

 それでも、今では京都駅に着くとちょっとホッとした気持ちになりますけどね。17歳で東京へ出てきたから、もう東京のほうが長いのですが。

──幼い頃の岸部さんはどんなことに憧れていたのでしょうか。

岸部 子供の頃は、東映の映画ですかね。チャンバラ映画とか面白いなと思って。その頃のスターは中村錦之助さんとかの時代で、すごく好きでした。日活の映画では石原裕次郎さんが登場すると観にいったり。考えてみると、かっこいいものをいつも追いかけていました。

 よく近所の映画館に行きましたね。当時の映画館は入れ替え制ではないんで、石原裕次郎さんの上映はもうずっと立ち見で、座って見たことはなかったです。

 銭形平次を見ると何か投げてみたくなるとか、忍者を見ると塀の上に登るとか、真似してみたり、そういう遊びばっかりやってる子供でしたね。

 映画といえば、小学校でも映画の上映会がよくありました。よく覚えてるのは『怒りの葡萄』。ヘンリー・フォンダが主演でしたけど、あんな社会派の映画を小学校でやってたことに後になって驚きましたね。当時は内容がわからないもんだから、スクリーンの裏側に回ったりしてふざけていましたけど。

ヒットする洋楽はわかっていた

──小さい頃から映画に親しみがあったのですね。音楽では、最初どんな曲を聴いていましたか。

岸部 中学の時に何々アワーとか、向こうの曲を流すラジオ局があったりして、アメリカンポップとかのヒット曲をよく聴いてましたね。洋楽の新譜紹介みたいなコーナーで流れた曲を聴いて、僕が「これはヒットするな」と思ったものは大体あたってた(笑)。

 プレーヤーを持っている友達の家に集まって、そんなふうに曲を聴いていましたね。
プレスリーが出てきたらプレスリーを聴いてみたり、片一方では三橋美智也さんとか、三波春夫さんとか歌謡曲全盛みたいなのを聴いたりとか、完全に向こうの曲だけじゃなくて、日本の歌謡曲も好きでした。それがグループサウンズ(GS)みたいなところへつながっていくんじゃないですかね。もちろん、まだ自分たちがやるとか何も考えないで、単純にいい曲だな、かっこいいなと思っていました。

──そういった中学生生活の中で、のちのザ・タイガースのメンバー三人と出逢います。

岸部 その頃はエレキブームがあって、エレキギターを持つのが流行り出した頃ですかね。まだ沢田とは出会っていなかったとき、4人でよく街をうろうろ遊んでたんですけど、そのうち「楽器持とうよ」みたいになってね。歌は全然ないですよ、インストゥルメンタルでとにかく弾いてみようとなって。その当時で言えばベンチャーズとか流行っていた時代でしたから、そういった曲をコピーして演奏してました。

 森本、加橋、瞳はやりたい楽器があって、余ってるポジションがベースだけだったんで、ベースに決めました。向こうの曲を、コードもなんでも耳でコピーして覚えましたね。

 楽器は当時で7万円ぐらいするものでしたから高かったです。その頃はビートルズが出てくる時代だから、どうしてもポールと同じのを持ちたいと思ってね。

 4人で集まって練習してましたけど、最初は発表する場所がそんなになかった。演奏する機会が増えて、そのうち誰かが「サリーとプレイボーイズ」とグループ名をつけたんです。

──沢田研二さんとの出会いはどのようなきっかけでしたか。

岸部 今で言うディスコみたいなところでバンドが演奏して、若い子達がホールで踊るような場所が当時ありました。「ダンス喫茶」って言いましたけど、そこでバンドボーイみたいなことを沢田がやってたんです。

 彼は一番下っ端だったんで、一回50分くらいのステージで一曲だけ歌わせてもらうんですよ。僕らは踊りながら沢田を見ていて、歌がうまいなって思ってね。その頃ボーカルが必要だと思っていたから、ボーカルで入らないかなと思って誘ったんですよね。誘った時の記憶は、それぞれメンバーの記憶がちょっとずつずれてるんですけど、僕の記憶では、「東京に行くつもりはあるの?」って聞いたら、「行くつもりはある。音楽で東京に出て行こうと思う」と言うから「じゃあ東京行けるまで一緒にやらないか」って僕から誘ったんです。沢田が入ってボーカルのいるグループになってからは、ダンスホールの会場でダンスパーティーの音楽をやったり、いろんなことをやりだしたんですね。それで、まずは大阪のジャズ喫茶「なんば一番」でオーディションを受けました。

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