2026年9月号「issues of the day」
2026年8月18日、国際刑事裁判所(ICC)の赤根智子所長らに対する制裁措置を米国政府が発表した。米国入国、クレジットカードやEメール、アプリ等の利用まで制裁の影響は多岐に及ぶ。通例に従って日本の金融機関が米国の制裁に歩調を合わせれば、日本国内に持つ資産も凍結されかねない。
異質な国家間のグローバルな相互依存が常態化した国際社会を日本はどのように歩んでいくのか──政府のみならず、日本社会の姿勢が問われる事態である。これまでの歩みもふまえた、冷静かつ覚悟を持った対応の一助となることを願いながら、この原稿を9月初めに執筆している。
「今回の措置は大変残念」
日本政府の最初の対応は外務報道官談話(8月19日)であった。ICCを一貫して支持してきたことに触れつつ、「今回の措置は大変残念(very unfortunate)」とされた。この種の談話で用いられる批難・遺憾・憂慮・懸念は避けられた。「引き続き、関係国等と意思疎通を取りつつ、国際社会における法の支配の強化に取り組んでいく」とされたが、抗議やICCへの具体的な支援継続は含まれていない。政治レベルの発言も抑制されていた。19日夜、高市早苗首相は外務報道官談話をなぞる発言を記者団に発し、中東訪問中の茂木敏充外相は翌20日に行われた会見で自らこの問題に触れず、記者の問いかけに首相同様に応じた。
この対応には様々なかたちで批判の声が国内外に広がり、24日には「人権外交を超党派で考える議員連盟」が制裁を非難する声明を決議した。日本政府の対応を「段違いに弱い」と問題視し、制裁への明確な抗議と即時撤回を要求するように求めた。
各種の批判を受けてか、同日には赤根所長と連絡を取っていることが官房長官会見で明かされ、翌25日、首相と外相は制裁措置が日本の「立場と相いれるものではない」とそれぞれ発言し、ICCへの支援を表明した。ただし、外相会見では「普遍的な裁判所として国際社会の信頼に足り得るためには、検察官が適切に職務を遂行するとともに、ICCが抱える課題にICCや締約国がしっかりと対処し、適正な運営がなされることが重要である」と米国への配慮が窺える発言も加えられた。28日には外相と赤根所長の電話会談が行われると共に、今後も「国際社会における法の支配の強化に取り組んでいく」旨が外相からも示された。
ICCの位置づけと日本の関与
政府の対応は十分だったのだろうか。また今後どのような対応が求められるのだろうか。それを考えるためにも、ICCの位置づけとこれまでの日本の関与を確認しておきたい。
ICCは、1998年7月に採択され、2002年7月に発効したローマ規定に基づいて設立されたオランダ・ハーグに置かれた常設の国際裁判所である。国際社会にとって最も深刻な罪(集団殺害犯罪、人道に対する犯罪、戦争犯罪、侵略犯罪)を犯した個人が訴追対象とされる。
日本は規定草案検討会議から参画し、設立後はオブザーバー参加しつつ早期加盟をめざしたものの、正式加盟は07年10月となった。加盟が遅れたのは、関連する国内法制との整合性や法整備の検討に時間を要したこと、財政上の負担への考慮や交渉が主な理由とされる。この間、有事法制の一環として戦争犯罪に関するジュネーヴ諸条約追加議定書及び関連する国内法が国会で承認された。締約国としては105カ国目とやや遅れての参加となったものの、加盟直後から日本人判事が選出され、最大の分担金拠出国であり続けている。
ICCには様々な限界や批判がある。米国、ロシア、イスラエル等は規約に署名したものの後に批准の意思がないと通告し、中国やインド、北朝鮮等は署名していない。未加盟国の存在は限界を示している。また2010年代に入ると、対象案件が植民地統治を受けた国の国民に偏っていたことで、アフリカ連合が17年1月に「脱退戦略文書」を公表するなど批判も高まっていく。このような限界や批判があり、米政権がICCへの批判姿勢を示し続けるなかで日本は07年に加盟し、積極的に活動を支援してきた。
ICC加盟や活動支援は、日本外交のなかでどのように位置づけられてきたのだろうか。それは国際社会における法の支配の促進を重視するという立場から説明された。戦後日本は国際司法裁判所の強制管轄権を受け入れ、国連海洋法条約制定に深く関与し、世界貿易機関の紛争解決制度等を積極的に活用してきた。延長線上にICC加盟は位置付けられる。
加盟に向けた動きが本格化したのが第一次安倍晋三政権下であったことも想起すべきだろう。07年1月、国会冒頭に行われた外交演説で麻生太郎外相は「敗戦後の我が国は、日米同盟、国際協調、そして近隣アジア諸国の重視という3本の柱でありました。今、これに4本目を加え、我が国の進路は一層明確となります」と述べた。第4の柱は「自由と繁栄の弧をつくろうとする方針」であり、ICC加盟はその文脈に置かれた。価値の重視を掲げた第一次安倍政権の外交方針に沿うものと説明されたのである。
アメリカのICCへの強い批判姿勢
法の支配はその後の各政権でも重視されてきた。13年12月に初めて策定された国家安全保障戦略でも「我が国が掲げる理念」として自由、民主主義、基本的人権の尊重と並置され、首相や外相の演説でも、様々な機会に日本の国益や守るべき価値として法の支配の重視は確認され、提唱から十年を今年迎えた自由で開かれたインド太平洋(FOIP)でも、その柱の一つとされている。
22年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻は法の支配への注目を高めた。安保理常任理事国が国連憲章を正面から踏みにじり、戦争犯罪、人道に対する犯罪が続発したからである。ICCは23年3月のプーチン大統領らへの逮捕状発行を皮切りに、捜査を継続した。同年5月のG7広島サミットのコミュニケでは「大小を問わず全ての国の利益のため、国連憲章を尊重しつつ、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序を堅持し、強化する」と謳われた。この間、赤根智子所長は18年3月に日本人として3人目の判事に就任、ロシアのウクライナ侵攻に伴う戦争犯罪等を担当し、24年3月からは日本人初となる所長を務めていた。
国際機関の職員と出身国の関係を簡潔に説明するのは難しい。出身国政府とは無関係に職員となるケースもあれば、各国政府職員が出向するケースもあるが、一般に思われている以上に国際機関は加盟国政府の影響が大きく、主要ポストは各国家の威信をかけた舞台ともなっている。ICC判事選出に際しては、地域枠が設定され、その枠内で選挙が行われる。候補者個人だけでなく出身国への評価が問われ、様々な選挙活動が行れる。赤根所長が日本政府の強い後押しを受けて判事、次いで判事の互選によって所長に就任したことは改めて確認しておきたい。前任者2名は外務省出身であったが、赤根所長は検事としてキャリアを積んだ法曹出身者である。赤根所長を支えることができなければ、国際公務員や国際機関で責任ある立場をめざす日本人に悪影響を与えることは必至だろう。
ICCへの強い批判姿勢は第一期トランプ政権時にも見られ、限定的ながら関係者への制裁も実施され、同時期にはフィリピン等が脱退したが、より直接的な攻撃はまずロシアによって行われた。赤根所長を含むICC判事9名がロシア国内で訴追され、25年12月には有罪判決が言い渡された。ロシアに対して、日本は23年8月に英国等と「深く憂慮」する共同声明を発表している。
さらに深刻な状況は、テロを受けたイスラエルによる23年秋からのガザ侵攻によってもたらされた。米国がICCを敵視する背景には、米国民が訴追対象となる懸念に加えて、イスラエルの働きかけが大きい。24年5月にイスラエル政府高官5名、11月にはネタニヤフ首相らにICCは逮捕状を発行した。25年1月に政権復帰したトランプ米大統領は、2月にICC職員等への制裁を可能にする大統領令に署名した。8月にはICCの判事2名・検事2名に対する制裁措置を発表、今年7月にはルビオ国務長官が「我々が持つすべての手段を用いて、ICCを解体する」方針を明らかにした。赤根所長らへの制裁はこの延長線上にある。
日本政府も米国による赤根所長らへの制裁は想定していたのだろう。大統領令署名翌日に出された79カ国・地域による「ICCの独立性、公平性、誠実性への継続的で揺るぎない支持を再確認」する共同声明には加わらなかった。具体的な理由は明かされなかったが、その後の動きや外相の発言からは、米国を刺激する表立った動きを控えつつ、水面下で米側に働きかけるという方針であったと推測される。赤根所長が制裁対象となったことはその方針が失敗に終わったことを意味する。
試される日本の覚悟
日本政府そして日本社会が、国際社会における法の支配の促進を掲げ続けてきた覚悟を示すべき局面が訪れている。法の支配がないがしろにされれば力の支配が優勢となる。自律性が高い大国や地域で圧倒的な軍事力を持つ国はいいのかもしれないが、世界の大多数の国は様々なかたちで不利益を被る。当然ながら日本は後者に含まれる。
日米同盟は日本外交の基軸だがその目的ではない。いたずらに米国を刺激する必要はないが、ICCを支える明確なメッセージを示し続け、締約国間の連携強化に向けて動くことが求められる。日本人職員を守るためにできることは米国との折衝だけではない。制裁の不利益が最小限に留まるよう、日本国内の金融機関への働きかけや各種の措置も検討する必要があるだろう。
トランプ政権はしばらく続くが、永続するわけではない。米国が振り子のように動き、世界や日本が振り回されることも今に始まったわけではない。力の支配が優勢になりつつあるようにも見えるが、その状況もまたいずれ変化することだろう。米国やロシアがICCを敵視する瀬戸際にあって、日本は国際社会における法の支配の推進という旗印を掲げ続けられるか試されている。これまで掲げ続けてきた旗印が方便だったと捉えられる事態となれば、日本への信頼は決定的に失われる。
本年6月、ドイツが国連安保理の非常任理事国選挙で初めて敗北を喫した。ウクライナ侵攻をめぐってロシアを非難する一方、米国のベネズエラへの介入に異を唱えず、ガザ戦争でイスラエルを擁護する姿勢が多くの国にダブルスタンダードと認識されたことが敗北の要因とみられる。日本がドイツの轍を踏むことがないよう、強く願っている。放送大学准教授 白鳥潤一郎
