人の心にぶつかるように編み続ける
──絵から一度離れた後は、塩田さんの代表的な表現方法である糸を追求されます。京都精華大学で発表したインスタレーション作品《DNAからDNAへ》(1994年)は、初めて糸を使った作品です。
塩田 糸も最初は絵の延長でした。絵が描けなくなったので、糸を使って空間にドローイングの線を描くような気持ちで始めたんです。毛糸って簡単に手に入るマテリアルだし、安いので。
──糸を使ったインスタレーションは、どんどん大規模になっていきます。部屋全体に糸を張り巡らせた作品も多いです。
塩田 インスタレーションでは、糸を「糸」として捉えていない作品も多いです。空間中に糸を張り巡らせて、それをどんどん増やしていくと、糸が重なって、だんだん目で追えなくなってくる。それを繰り返していくうちに、線が見えなくなって霧状になった時に、ようやく作品が完成したという感覚になります。
空間に張り巡らされた糸は、人が入った瞬間に「何これ?」と思えるようなものにしたい。糸って、少ないうちはただの素材なんですけど、何万本も集まると、もう何なのかわからない存在になっていくんです。その不思議な目の錯覚を求めているところはあります。
──塩田さんの作品に入った瞬間、良い悪いという感情とは別のところで透明な心の輪郭を縁取られるような、今まで味わったことのない感覚になります。説明が不要な直接心に訴えかけてくるものがあると個人的には感じています。
塩田 そう見てもらえると嬉しいですね。編んでいる時は、何日間も限界まで編み続けます。だけど作品をつくろうというより、とにかく編んで、編んで、もう目に見えなくなるまで編んでいく。そうすれば、見る人の心の奥底に何かぶつかるのではないかというのを求めながら編んでいます。だからこそ、糸は人と人がつながる見えない線のようにも見えてきたり、ニューロンのようにも見えてきたりする。糸に対する眼差しは、作品ごとにずっと変わり続けています。
──糸の赤い色も印象的です。
塩田 ヴェネツィア・ビエンナーレで鍵を使った作品をつくった時に、赤い糸を使いました。鍵って人のかたちに似ていますよね。頭が大きくて体が小さくて。その鍵同士を人と人をつなぐように編んでいく時に、赤い糸のほうがいいなと。赤は血液の色でもあるし、家族とか国籍とか文化とか、それに今も続いている戦争とか、いろんなものを含んだ色です。
混沌から生まれた自由な創造
──1997年からはベルリンでの留学生活がはじまります。
塩田 ベルリンの壁が崩壊してすでに8年ほど経っていましたが、まだ街の中は混沌としていました。ポツダム広場も建設中で、世界中からアーティストが集まり、あらゆる空き地で展覧会やコンサートが開かれていた。
ビエンナーレやトリエンナーレに参加するような作家たちの多くがベルリンに住んでいて、世界中からキュレーターが集まってきていました。後にニューヨーク近代美術館(MoMA)でも活躍するクラウス・ビーゼンバックも、当時のベルリンから出てきた存在です。街全体に、何か新しいものが次々と生まれていく熱気があった。当時はそこまで意識していませんでしたが、いま振り返ると私は特別な時代のベルリンにいたんだなと思います。
──塩田さんもベルリンを象徴する伝説的アーティスト拠点のクンストハウス・タヘレスにアトリエを借りていました。非常に刺激の強い環境だったのですね。
塩田 タヘレスでは毎晩アーティストが集うパーティやイベントが開かれていました。特に東ベルリンは空き家がたくさん残っていて、そこから新しいアートやカルチャーがすごく発展していったんです。空き家で展覧会が開かれ、私自身もグループ展に呼ばれるようになりました。
当時まだ日本では貸し画廊の文化が強くて、銀座などでは1週間展示するのに何十万円もの費用が必要でした。学生の私にとっては、とても簡単に発表できる環境ではなかった。でもベルリンでは空き家で展示を重ねていくうちに、だんだん美術館やビエンナーレにも呼ばれるようになっていったんです。あの時代のベルリンには、若いアーティストにも多くのチャンスが開かれていたのだと思います。
──そもそもですが、なぜドイツへ留学をされようと考えたのでしょうか?
塩田 19歳の時、滋賀県立美術館で開かれていたマグダレーナ・アバカノヴィッチの巡回展に行ったんです。アバカノヴィッチは、麻布やロープのような繊維素材を使った巨大な立体作品で知られるポーランドの現代美術家です。そこですごい衝撃を受けました。彼女の作品がものすごく力強かった。女性がつくったとは思えないと言ったらいいのでしょうか。展示空間全体にエネルギーがあって、圧倒されました。
当時の私は女性としてすごく悩んでいた時期でもあったんです。やっぱり美術って男性社会なので。それでもこんなに力強い作品をつくる女性アーティストがいるんだということに本当に驚いた。
その後、オーストラリアへ交換留学していた時の友人がアバカノヴィッチのもとで学んでいるという話を聞いたので、私も作品集を添えて、「ぜひ学ばせてほしい」と手紙を書いたんです。ところが、返信に記されていた名前は、別の女性アーティストであるマリーナ・アブラモヴィッチでした。名前の響きが似ているので、どこかで混ざってしまったのかもしれません。でも結果的に、その偶然がマリーナとの出会いにつながり、彼女のもとでパフォーマンスを学ぶことになります。
アブラモヴィッチの究極の断食授業
──マリーナ・アブラモヴィッチというと、自身の身体を極限状態に置くパフォーマンスで世界的に知られるアーティストです。かなり激しい印象があります。
塩田 そうですね。1週間の断食をするという強烈な授業もありました。ただ、いきなり断食が始まるわけではありません。まず半年前から肉を食べないように言われて、ベジタリアンになる。授業でもヨガをしたりして、だんだん精神を整えていく。それで最後に断食の授業が待っているんです。最初は食べ物のことばかり考えてしまっていました。
断食中は、他にも修行僧のようなこともやって、精神をどんどん突き詰めていきました。例えば、池の周りを1日中歩いて、次の日には目隠しをして同じ池を一周させられる。前日にあれだけ歩いたはずの池も、目隠しすると全然わからなくなってしまうんですよね。あとは、その授業は12月だったのですが、雪が降る中外に出て、裸でジャンプをするんですよ。傍から見たらかなり頭のおかしい集団ですよね……(笑)。
その1週間は喋ることも禁止でした。マリーナは喋れるけれど、生徒はダメ。スケッチブックに書くことだけは許されていました。
──本当に極限状態ですね。私なら脱落してしまいそうです。
塩田 授業にはいろいろな国から学生が来ていましたが、参加したくないという人も多かったです。でもマリーナは、「参加しないのなら、このクラスから除籍になります。この授業を受けないなら、私の下で勉強している意味がないから」と、はっきり言っていました。
居心地が悪くも恋しい日本
──この修行のような一連の授業を受けて、「これはアートなのか」とは感じませんでしたか?
塩田 あの時の私は、アートとは何かというより、自分とは何なのかということに行き詰まっていた。なのでむしろ自分の考えがどんどんクリアになっていく感覚でした。授業の最後には、マリーナが学生に何を伝えたかったのかが、すごくよくわかるようになりました。
最終日は朝4時ごろにマリーナに起こされて、そっとメモと鉛筆を渡されます。そして、「何でもいいから書いてみなさい」と言われる。何も食べていないし、真っ暗だし、意識も朦朧としている。そんな極限状態の中で、私から出てきた言葉が《Japan》でした。マリーナは、「これはあなたの中から出てきた言葉なんだから、これがどういう意味なのか、これから自分の課題として考えていきなさい」と言いました。それが彼女の授業でした。
そこから生まれたのが、《Try and Go Home》(1997年)という映像作品です。全裸で泥だらけになりながら、斜面の洞窟を登っては転げ落ちるという行為を繰り返しています。日本に帰りたいと思いながらも、実際に帰ると居心地が悪く感じたり、でも離れるとまた恋しくなったりして。その複雑な感覚が、そのまま作品になっていきました。
──日本に対するその感覚は、今も続いているのですか?
塩田 今でもドイツにいると日本が恋しくなって、日本にいると今度はドイツが恋しくなる。どちらかを選んだほうがいいのかなと思ったこともありました。でも、やっぱり決められなかった。いつもどちらかを懐かしく感じる。
でも今は、故郷が二つあってもいいんじゃないかと思っています。二つの国を自分の居場所として認めることで、他の国のことも認められる気がするんです。両方の国が自分には必要で、今の自分をかたちづくっている。その二つの国がなければ、今の作品は生まれていないと思う。

