生きていてよかったと思った、その翌日に

──2019年に森美術館で開催された回顧展は、現代美術として異例の約66万人を動員し、その後も世界各地を巡回しています。日本でご自身の作品がここまで広く支持されていることを、どのように受け止めていらっしゃいますか。

塩田 やっぱりとても嬉しかったです。本当にとんでもない数の人が来てくださいました。私の作品は「インスタ映えする」と言われることも多いので、最初は写真を撮ることが目的の人が多いのかなとも思っていたんです。でも実際にはリピーターの方がものすごく多かったと聞きました。それもすごく嬉しかったですね。

 何よりこの展覧会は、自分にとっても特別な展覧会でもありました。始まりはキュレーターの片岡真実さんがベルリンに来て、「森美術館で、あなたの過去25年分の作品がわかるような展覧会をやりましょう」と言ってくださったことでした。それを聞いた時、最初に浮かんだのは、本当に生きていてよかった、今まで制作を続けてきてよかった、という言葉でした。本当に嬉しかった。

 しかしその翌日の検診で、自分の身体の中に悪性腫瘍があることを知りました。実は1回目にがんが発症したときに、お医者さんから「あなたの命も危なくなるかもしれないから卵巣は二つとも取ったほうがいい」と言われていたのですが、一つは残したんです。どうしても子どもが欲しかったから。その後、子どもはできたのですが、残した卵巣にがんが再発してしまったということです。

 なので展覧会が決まって嬉しかったのは、片岡さんが来てくれたその一夜だけ。次の日にはがんだと告げられて、そのまま手術して、入院して。抗がん剤治療が始まる前までに、頭の中では展覧会の構成を考えるしかなかった。

──そのような状況でも、展覧会の準備は止めなかったのですね。

塩田 展覧会の1年半前には、お医者さんに許可をもらって、打ち合わせのために一度だけ東京へ行ったんです。その時に、どの部屋で何をするかをどんどん決めようとしていた。すると片岡さんに、「まだ1年半もあるのに、どうしてそんなに急ぐの?」と不思議そうに聞かれたことがありました。でも、次いつ日本に来られるかわからなかった。がんはすでにステージ3で、かなり進行していました。

 この時期は、死についてものすごく考えた時期でした。亡くなったら自分の身体はどうなるんだろう。今の自分の考えや思想はどうなるんだろう。当時9歳だった娘は、母親がいなくなったらどうやって生きていくんだろうって。もう生きることに精いっぱいだったんです。

個人的な記憶から生まれる壮大な普遍性

──幼少期からずっと意識していた「死」と直面されることになる。制作中の作品にも影響しましたか?

塩田 もちろんです。作品と私は一緒なので。5カ月にわたる抗がん剤治療の中で、髪が抜けていく過程を撮影して、作品にしようと思っていました。でも、それを片岡さんに提案したら、「それはやめましょう」と言われたんです。25年分の作品を見せる展覧会なのに、がん一色になってしまうのはもったいないと。

 ほかにも抗がん剤治療で使っていたバッグを集めてきて、そこにクリスマスのピカピカ光るイルミネーションを入れて点滴スタンドをベッドの脇に立てました。イルミネーションがまるで呼吸するみたいに明滅する作品をつくったんです。でも、それを見せた時も、「これもダメだ」と言われました。なんでダメなのか、その時はちょっとわからなかったです。当時は自分が精いっぱい過ぎて。

 でも、元気になったいま振り返ると、あの時はまだ作品になっていなかったんだと理解できます。作品が自分だけの問題になってしまっていて、見る人を拒否してしまうような強さが出ていたんだと思います。

──つまり塩田さんにとっては、作品で他者とつながることが表現であるということでしょうか。

塩田 どうなんだろう。私の作品って、すごく個人的なことしか作品になっていないんですね。例えば、《静けさの中で》(2008年)という作品です。これは、子どもの頃に近所の家が放火されて、燃えるピアノの音が聞こえてきたという記憶から生まれています。その焼け焦げたピアノを黒い糸で包んだ、私の記憶の中から出発した作品です。でも、見た人がどこかで共有できるものを感じてくれる。こんな感じに私から始まって「私たち」になった時に、ようやく作品になったと言えるんだと思っています。

 何か作品をつくるってそういうことなんですよね。音楽でも絵画でも、究極まで突き詰めていくと、周りからは「頭おかしい」って思われることもあるかもしれない。でも、その人が本当に極限まで行くと、どこかでその人だけの問題じゃなくなって、みんなと共有できるものになると思うのです。

不在から浮かび上がる物語

──その探求が、塩田さんの作品を貫く「不在の中の存在」というテーマにもつながっていますか?

塩田 人が亡くなった時に、思い出や記憶だけがそこに残る。いないけれど、たしかにあった存在っていうものに、ずっと惹かれているんだと思います。

 ベルリンは空き家がすごく多くて、誰かがそこに住んでいたのに急にいなくなったような部屋ばかりなんです。たまたまもらったアパートで制作していた時に、だんだんといろいろなことが気になってくるんです。ここには誰が住んでいたんだろうと。壁だと思ったら扉が隠してあったり、どこに寝室があったんだろうとか。その人はもういないけど、その存在がすごく強い。

──ベルリンの街自体が、そういう気配に満ちていたのですね。

塩田 ベルリンのフリーマーケットに行くと、「こんなもの売るの?」と思うようなものが並んでいる。パスポート、通帳、卒業証明書、アルバムなどです。その人が生きていた時にすごく大事にしていたものが、亡くなった途端に何の価値もなくなってしまう。でもそれを見ると、会ったこともないのにその人の人生が見えてくるのです。たくさんの記憶があって、その人の存在が浮き上がってくる。

 古いスーツケースを拾って、捨てようとしたのですが、気になって開けてみたら、旅行の荷物リストが入っていたことがあります。茶色く黄ばんだ紙に、靴下、ズボン、シャツと書いてありました。60年以上前のものなのに、今の私のリストと全然変わらないんですよ。全く知らない人なのに、なんかだか温かい気持ちになって。それからスーツケースを集め始めて、作品もつくりました。

──失ってから初めて、その存在を意識することも、不在の中の存在に重なる気がします。

塩田 そうですね。亡くなった人に対して後悔する気持ちって、みんなありますね。東日本大震災の後も、こんなことになるんだったらもっとそばにいればよかったとか、あんなこと言わなければよかったって。一瞬にして人の命が失われてしまうから。その後悔の感覚も、きっとどこかで繋がっているんだと思います。いない人の存在をこんなにも強く感じるっていうことが。

自分とは何かという永遠の問い

──死に対する答えは見つかりましたか?

塩田 今も探し続けています。どうしても死がテーマになってしまうところはあります。たぶん、自分とは何かという問いがずっと大きなテーマで、そこから自然と死とは何だろうにつながっていく。だから結局いつもこのあたりをうろうろしながら探しているんです。

 最近は、人が亡くなって灰になって、その原子が宇宙に溶け込んでいくような感覚で死を捉えるようになってきています。私という存在はなくなるかもしれないけど、原子としてはずっと生き続けるんじゃないかなって。

 友人が腎臓移植手術を受けたのですが、手術の後から魚がすごく好きになったと言っていました。おそらくドナーの人が魚好きだったのではないかなと。でも、そんなことがおこるのなら、どこまでが自分で、どこからが自分ではないのかとも思う。心臓を変えたら何パーセント自分でいられるんだろうとか。そういうことを考えています。結局、自分とは何かという問いに、答えが出ないままつくり続けている。

──自分とは何かをずっと問い続けてきた塩田さんにとって、娘さんを育てることはその問いに影響しましたか。

塩田 2回目にがんになったとき、最初のがんを診てくれた先生が大学病院の産婦人科のトップになっていて、また診てもらったんです。私のことを覚えてくれていて、「あの時残した卵巣で子どもはできたか」と。「3回妊娠して2回はだめでしたが、一人娘がいます」と伝えたら、「では残してよかったですね」と言われました。2回目は子宮にまで転移していたので、結局すべて取ることになりましたが、娘がいる。それだけで、残してよかったと思えました。

 娘とは似ているところもあるんですよ、やっぱり自分の遺伝子ですから。でも全く違う人間なので、本当にいろいろ学ばされます。娘はドイツの学校に通っているのですが、クラスでほぼ一人のアジア人でした。最初はいじめられないかと心配していたのですが、そんな心配は必要なかった。「そういう教育をしているから」と娘は言うんです。自分と他者は違うということを徹底的に教えると。私が「日本人だからそうなのよね」と言ったら、「その言い方、先生に怒られる」って。日本人だからじゃなくて、その人だからと言わなければいけないと。逆に娘から教わることも多いです。人間を育てるって、失敗ばかりだけど、学びも多いですね。

 

 

つくらないほうが苦しい

──制作と離れた時間ではどんなことに安らぎを感じますか?

塩田 私はアーティストなので、24時間全部つながっていて。映画を観ても本を読んでも、何かと作品につながっていく。旅行中や移動中に新作のアイデアが浮かぶことが多いです。プライベートと仕事の境がないんですよね。展覧会をつくることが大好きで、それなしでは自分の存在が考えられないというか、どうやって生きていいかわからないぐらいです。

──つくることが苦しくなる瞬間はありますか?

塩田 もちろんあります。妊娠6カ月で死産を経験した時は苦しかった。爪もまつ毛も見えていたのに。そんな時でも展覧会は迫ってくるので、こんな状態でもつくらなきゃいけないのかって思った時は、本当に辛かった。でも今つくらないと間に合わないって思った瞬間に、やっぱりアイデアが浮かんできて。作品をつくり続けることが、生きていくために必要なものになっているんだと思います。絵が描けなくなった時も、半年間何もできなくて本当に苦しかったです。でもこんなに苦しいんだったら、何かつくって表現したほうが楽だって気づいた。つくらないほうが苦しいってわかったんです。

──ありがとうございました。

聞き手 本誌:薮 桃加

塩田千春《DNAからDNA(From DNA to DNA)》
(1994年)© VG BILD-KUNST, Bonn & JASPAR, Tokyo, 2026 G4274

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