『公研』2023年12月号「対話」 ※肩書き等は掲載時のものです。
ロシアとオランダは、同じヨーロッパにありながら対照的である。
今の時代に領土戦争を始めたロシアと先進的なオランダ。
この二つの国の違いの背景はどこにあるのだろうか?
ペテルブルクとアムステルダム、革命、君主制などから考える。
千葉大学法政経学部教授 水島治郎
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東京大学大学院人文社会系研究科(西洋史学)教授 池田嘉郎
ピョートル大帝はアムステルダムの造船所で働いていた
水島 本日は「ロシアとオランダ──ヨーロッパの東と西、大国と小国」と題して、ロシアとオランダという、ある意味で対極にある両国を比較しながら、その違いの背景などについて考えていきたいと思います。
オランダの人たちがロシアを思い浮かべたときに真っ先に出てくる歴史上の人物は、ピョートル大帝(1672年─1725年)だろうと思います。ピョートル大帝は、初めてオランダを訪れたときにアムステルダムで船大工に身をやつし、オランダ人に交じってしばらくのあいだ船づくりをしました。ピョートルはその経験を通じて、オランダから様々な新しい知識を学びました。それを母国に持ち帰ったことで、それ以降ロシアの大国化が進んだというように、このエピソードはオランダでは肯定的な文脈で理解されています。
今でもアムステルダムの海岸近くにはオランダ東インド会社の造船所跡がありますが、そこには「ピョートル大帝はここで1697年から98年まで働いた」と刻まれたレリーフがあります(下記写真)。私をそこに案内してくれたオランダ人も「どうだ! 17世紀のオランダはすごいだろう」と誇らしげでした。
近年のアムステルダムは、様々なかたちで都市再生を図っていて、グローバル都市としての地位を再び取り戻そうとしています。その際にアムステルダムの人たちが思い起こすのは、17世紀に世界経済の中心だったというかつての栄光です。ピョートル大帝がアムステルダムで最先端の知識を学んだという話は、その時代の繁栄を端的に示すエピソードでもあります。
この話に象徴されるように、オランダにおけるロシアの受け止め方や見方は、意外と温かい気がします。おそらく、オランダとロシアがこれまで戦火を交えていないことも影響しているのだろうと思います。
池田 私はこれまでピョートルとオランダの関係を意識することはあまりなかったんですが、あらためて考えるとピョートルがつくったサンクトペテルブルクは、アムステルダムの街をモデルにしています。最初にこの街がつくられた頃には、「サンクトピーテルブルフ」とオランダ風の名前で呼ばれていたそうです。それが1720年代に初めてサンクトペテルブルクとドイツ語風の表記で呼ばれるようになった経緯があります。
ピョートル大帝は、若いときにモスクワの外国人村でオランダ人と知り合ったことをきっかけにして、海や航海に関心を持つようになります。外国人仲間といっしょに隋一の海港であった北方のアルハンゲリスクをたずね、その関心はいっそう強まりました。
今の水島さんのお話は1697年から98年に大使節団を結成してオランダを訪問した際のエピソードで、ピョートルはお忍びで参加していました。オランダでは最初にアムステルダムに隣接しているザーンダムに行って友だちに会って、造船の現場を見ています。その後アムステルダムでは実際に船大工を経験していて、ライデン大学では解剖実習も見学しています。
水島 ライデン大学では顕微鏡の発明者であるファン・レーウェンフックに自ら会いに行って、顕微鏡でミクロの世界を眺めたと言われていますね。
池田 本当に好奇心旺盛ですね。オランダの当時の最先端の技術にずいぶん接している。ピョートルは思想的にもオランダのフーゴー・グロティウスから大きく学んでいるんですよ。彼は、君主または国家主権が公共の福利を増進することで市民の幸福を増すべきだと考えるわけですが、ピョートルも専制君主としてこの考えを取り入れています。
水島 ピョートル大帝は豪放磊落ですよね。モスクワにあった外国人村で知り合ったオランダ人たちとは、すぐに「俺・お前」の関係になっていて、オランダ語もこのときに身に付けています。いくらオランダが当時世界の最先端の国と言っても、君主がオランダ語を学ぶのはとても珍しいことです。ピョートル大帝は、外の世界の風物や学問、言葉に対して感受性があったと言えますね。
池田 子どもの頃のピョートルは、彼の義理のお姉さんが権力を持っていたこともあって、政治闘争の世界からは退けられていました。表舞台にいなかったために、他の人が行かない外国人村に出入りする余裕があったのかもしれません。それでオランダ語も勉強して、かえって新しい知識をどんどん摂取していきました。
ソフト面でも世界最先端だったアムステルダム
水島 人との出会いにも恵まれていますよね。最初に入ったザーンダムの街ではすぐに身分がバレてしまって居られなくなりますが、アムステルダムに移ったら、当時の市長ニコラス・ウィッセン──東インド会社の重役でもありました──がピョートルを大歓迎しています。住まいも手配しているし、造船所で働けるように万事取り計らっている。それで最終的に4カ月にわたって造船所で働くことができた。
17世紀の旅行でここまでしっかりやってくれるのは、なかなか珍しいことだと思います。ニコラス・ウィッセンは1664年から65年に自らモスクワに滞在したロシア通でして、ピョートルに対して畏敬の念を持っていました。ピョートルの好奇心旺盛で誰とでも仲良くできるキャラクターが、外国でのサバイバルを後押ししていますね。
池田 ピョートル大帝がオランダで船大工をやっていたエピソードは、ロシア人も大好きで、彼の伝記映画などにはよくそのシーンが出てきます。
水島 ロシア人も大好きなんですか。それじゃあ、その部分に関してはオランダとロシアは相思相愛と言える。
池田 そうですね。ロシア人は、今でも歴史上の人物で一番好きなのはピョートルです。プーチンも彼を尊敬しています。何と言っても、皇帝が自分でハンマーを振って船をつくったエピソードは、ロシア国民に広く愛されており。よほどオランダが好きだったのか、1716年から17年にも訪問しています。それから、オランダの都市計画に倣ってペテルブルクに街灯を建てたり、公園に彫像を置いたりしたとも言われています。
水島 あまり有名ではないけど、アムステルダムのヤン・ファン・デル・ヘイデンという人物が油を使った高性能の街灯を開発しました。ピョートルはその発明者にも会いに行って、発明品をもらったそうです。本当に好奇心が活発で、分野を問わずに誰にでも会いに行きますよね。そこで実際に体験して、あわよくば物をもらっている。
池田 アムステルダムは、都市計画においても当時のヨーロッパの水準では最先端と言えるのでしょうか?
水島 パリやロンドンも規模としては大きいですが、しかし、先進性という点でアムステルダムはヨーロッパ随一だったと思います。ハード面に留まらず、ソフト面においても充実していました。
例えば、出版業などはその典型です。アムステルダムにおいてこそ、非キリスト教的なものも含めて様々なジャンルの出版ができたわけです。スピノザ、デカルト、ジョン・ロックもアムステルダムに縁があります。限界はありましたが、当代一流の人物が集まっては、言論・出版活動を行っていたという点でも、アムステルダムは先進的です。
「ユダヤ人なくして17世紀のアムステルダムの繁栄なし」
池田 水島先生が今年発表された『隠れ家と広場──移民都市アムステルダムのユダヤ人』(みすず書房、2023年)は、有名な『アンネの日記』を書いたアンネ・フランクとその家族のエピソードを中心に、アムステルダムにおけるユダヤ人の存在をテーマにされましたが、その本でもアムステルダムがユダヤ人に対して開かれていて、それが街の発展の大きな力になったことが述べられていました。
水島 ユダヤ人に対する扱いに関してみれば、アムステルダムが常にその時代のヨーロッパで最先端であったことは事実だと思います。イベリア半島でのユダヤ人迫害を受けて、ポルトガルから多数のユダヤ人がオランダに入ってきました。オランダは都市によってそれぞれ政策が違っていたのですが、アムステルダムが最も宗教的に自由で、信仰の実践についても寛容でした。それでユダヤ人がアムステルダムに集中するわけです。
ポルトガルからきたユダヤ人の多くは、商業従事者でした。彼らはそれまでに構築してきた商業ネットワークをアムステルダムに移します。しかもブラジルなどのポルトガルの植民地とも関係があって、その関係も持ち込みました。それによって、アムステルダムは国際的な貿易の街として発展していきました。まさに「ユダヤ人なくして17世紀のアムステルダムの繁栄なし」です。
ただし、冒頭で紹介した造船技術に関しては、ピョートルはアムステルダムに満足できなかった面もあったようです。その後はロンドンに行ってより高度なものを学んでいます。オランダが海上帝国として名声を轟かせていたのは17世紀から18世紀にかけてのことでした。18世紀初頭になると陰りが見えていて、イギリスが台頭していきます。このあたりはピョートルの勘は鋭いですね。
池田 そうですね。確かにイギリスにも行って、子午線が通る世界の時間の基準となるグリニッジも見ている。ただ、やはりオランダとの結び付きは強くて、船大工を始めとして造船関係者をお雇い外国人として何百人も連れて来ています。
水島 西洋歴訪は1697年から98年で、スウェーデンを打ち破って北方戦争に勝利したのは1721年です。海軍がほとんど存在しなかったに等しいロシアが、海洋国家スウェーデンに勝利するに至ったわけですから、歴史的に見てもかなり急速な海軍力の発展ですよね。ここにはやはり多数のオランダ人の技術者、海軍関係者などがロシアに渡って行ったことも影響しているのでしょうね。
池田 間違いないですね。オランダ人、イギリス人を始めとして、いろいろな外国人を連れてきて鉄工所をつくらせ、船をつくらせています。