保険料の支払い開始を遅くして負担を軽減
待鳥 もう一点、島澤先生の記事を拝読して印象に残っているのが、「1961年時点で年金支給対象の高齢者に当たる65歳以上の人は人口の5・8%を占めていて、この5・8%を現代の人口に当てはめると今の85歳以上に該当する」とお書きになっていたことに、非常に驚きました。そうなると、高齢者の定義を85歳として、支給開始年齢を引き上げることも理論上はおかしくないというわけですよね。
この年金支給開始年齢の高年齢化は、世界的にも見られる動きです。例えば、2023年にはフランスで支給開始年齢が62歳から64歳へ引き上げる改革法案が出され、大きな反対デモが起こりました。このような世界の流れを見ていると、日本も支給開始年齢を遅らせるという案が必ず出てくると思うのですが、当然反発が起きることも予想されます。
仮に、現在の支給開始年齢である65歳を70歳まで後ろ倒しにするとなったら、「あと5年も働かすのか」と言った声は出るでしょう。ここには少し矛盾した感覚があって、「まだ働けるのなら働きたいけど、年金がない生活はキツイ」ということです。大卒の場合、22歳で社会に出て40年以上働いたのに、まだ一息付けないのかという感覚ですね。
島澤 今の日本では依然として新卒一括採用の枠組みが残っていますし、新卒で入った職をずっと続けてきた人が一定数いるので、支給開始が遅くなることに抵抗感があるかもしれませんね。
待鳥 そこで素人案ですが、若者が社会に出て保険料を払い始める年齢を後ろ倒しすることで、支給開始年齢を遅くさせるというのも、一つ考えられるのではないでしょうか。要は、これまでは現役世代を22歳から65歳を一区切りとしていましたが、27歳から70歳という区切りに変えるのです。
今の日本では卒業してからすぐ就職しないのはおかしいという雰囲気がありますが、27歳ごろまで自由に過ごす期間とします。その間は年金的な発想が必要で、先ほど島澤先生からお話のあった年金の一階部分を税金で賄うように、最低限の生活費を公費によって賄う必要があるかもしれません。しかし、現在は若者人口が減っていることもあって、総費用は下がるのではないでしょうか。現役世代でいる年数は約40年間のまま、「27歳から70歳」という区切りに後ろ倒しにすることで、結果的に支給開始時期を遅らせるという考えです。
私だけが思っているのかもしれませんが、今の若者世代には「卒業したら早く社会に出て稼ぎたい」という姿勢が、そこまで強く感じられない印象はあります。だとすれば、20代には自由な時間を確保してもらい、遅いスタートでも問題ないのかもしれません。
と言うのも、今の20代は忙しすぎるんですよね。これは少子化問題にもつながってきますが、仕事をしながら家庭を築いたりするには、時間的にも体力的にもかなり難しい状態に置かれている20代の方が珍しくないように思います。そのため、20代では時間的に余裕を持って、30代になってからしっかり働く。その代わり70歳まで働き、年金支給時期を後ろにずらすというわけです。このような逆転の発想はできないでしょうか?
島澤 高齢者と定義する年齢をあげるという考えはすでにありますが、社会に参入する年齢を遅らせることはあまり考えたことがなかったので、すごく斬新で興味深いなと思いました。20代の人たちに最低限の生活費を支給するのは、要は若者向けベーシックインカムということですよね。そうなると、20代で支給された分は、定職に就いた後働いて自分で返せばいいわけですから、財政的にも帳尻が合い、中立が保たれるだろうと思いました。ただ、お金の面では上手く回っていくのかと思いますが、貴重な労働力がなくなる点に若干心配が残ります。
待鳥 難しい部分があることはよくわかります。労働力の話で言うと、私たちは20代の能力を高く評価しすぎている節もあるのではないでしょうか。企業は、体力と潜在能力を買って採用し、20代のうちに仕事を覚えてもらい、30代で戦力になってもらうことを期待して新卒一括採用をしています。その気持ちも理解はできますが、だからと言って絶対に20代であるべきというわけでもない。30代からでも十分間に合うはずです。実際、新卒一括採用した人の相当数は30代になる前に辞めていて、20代で仕事を覚えてもらうという感覚自体が現実に合致しなくなりつつあるのかもしれません。
世界に目を向けて見ると、ヨーロッパの国は20代の若者が日本よりのんびりしている印象を持ちます。大学の学費が無償の国もあるので、大学生や大学院生でも年齢の幅が広く、「何歳なんだ?」という人がゴロゴロいます。このような社会も、日本の在り方として一つ考えられるのではと思います。
島澤 そうですね。欧米のほとんどの大学院博士課程では授業料が免除されますし、給料が出るところがほとんどです。そういうシステムを日本でも構築するのも一つ有効ですね。
待鳥 年齢に対する社会的通念は変わっていくものです。かつては10歳から家庭の労働力としてカウントされていましたが、現代でそれをやったら児童労働になってしまうように、時代によって年齢への考え方は可変的です。それなら大胆に現役世代の定義を変えても、社会に受け入れられる可能性があるのかなとも思います。
むしろ、ここまで根本的な変化を生み出さないと、明るい話として高齢化に対する財政政策をどうするのかの議論が進まないと思うのです。そして、こういった策を政治的に受け入れ可能なかたちでパッケージングできる政党や政治勢力がいると、もしかしたら多くの支持を集めるかもしれません。
国民の期待と自民党の方向性がマッチしなかった総裁選
待鳥 先ほど少しお話も出てきたように、今年の選挙では経済が明示的にも潜在的にも争点になりました。
まず、自民党総裁選から振り返ってみましょう。石破さんの総裁選出は、「地方票を固めたこと」が理由だと言われていて、これは自民党としては非常に理にかなった選択だと思います。他方で、総裁選の決選投票に残った石破さんと高市さんは、それぞれ異なった意味で伝統的な支持基盤を持つ方でした。石破さんは農村部、高市さんは保守系の高齢者です。裏を返せば、現役世代や若い層を積極的に総裁にするという機運は乏しかった。これは、自民党支持者にとっては非常に心地の良いものだったのでしょうが、日本の平均的な有権者が自民党に向けた期待とはマッチしていない感じがしました。この点に対する国民の答えがはっきりと表れたのが、衆院選の与党過半数割れだったように思います。
衆院選でも、争点としての経済の復活が印象に残りました。これは日本だけでなく世界的にも見られる潮流です。環境問題、ジェンダー格差など、比較的新しく出てきた問題の方向性がおおむね定まった今、最近のインフレなどもあり、多くの人が「もう一度経済争点を重視して欲しい」と考える雰囲気が世界的に高まっているように思います。日本の場合には、それが世代間の争点というかたちを取ったわけですが、自民党はそこの感度が弱かったと言わざるを得ません。ここをすくい上げたのが国民民主党なのでしょう。
高齢者に悪く言えない日本政治
島澤 似たようなところで言うと、選挙期間中には当時の公明党代表であった石井氏が、物価高対策として「低所得世帯の10万円給付案」を突然公約に盛り込みましたが、これは現役世代の支持を集めませんでした。
結局のところ資産の把握が弱い日本のシステムでは、「資産はあるけど年金収入が低い高齢者」のような方も住民税が非課税となる低所得世帯に含まれるので、低所得者の75%が高齢者となります。これでは現に生活が厳しい現役世帯から「またかよ」という感想が出るのは当然でしょう。このように高齢者世帯へのバラマキに対する拒否感が高まってきている中では、ピンポイントに現役世代への政策を掲げた国民民主党が支持されたのだと思います。
しかしながら、国民民主党の公約には、「はたしてこれは現役世代向けの政策と言えるのか」と思う節もあります。手取り増を掲げる一方で、富裕層の資産課税強化や、教育無償化のために財政法を改正して教育国債の設立を公約として掲げました。しかし、これが「現役世代向けの政策」なのかは、疑問が残ります。教育国債については将来世代に負担を押し付けているにすぎません。結局のところ、どこが負担をするのかという話はありますが、その歳出の財源をどうするのかという議論が抜け落ちているのです。
また、国民民主党は高齢者に手厚い社会保障給付の問題については一切触れませんでした。他方で、日本維新の会も同じような社会保障会改革を掲げていましたが、「高齢者の負担を増やして、現役世代の負担を軽くする」という打ち出し方をしました。ある意味、馬鹿正直に真正面から攻めすぎたので、高齢者からの支持を得られなかったのか、結果的に維新は議席数を減らしました。国民民主党はそこを上手くかわして、現役世代の手取り増加にだけフォーカスした戦略を打ち出したことが、勝因だったのだろうと考えます。
やはり今回の選挙で再認識したのが、日本の政治は高齢者に対して悪く言えないということです。しかし、現在の経済状況を鑑みると、世界的なインフレが金利の引き上げを招く中、これまでのように財政赤字で世代間の対立を取り繕うことが不可能になっていきます。現制度では限界があるため改革は必須です。今ある税収でどうにか再分配する必要があるため、本当の意味で政治の腕の見せ所と言えますが、それができる政党や政治家は見当たりません。本当は野党がここで出てきて票を獲得できるチャンスでもありますが、高齢者層に配慮しているのか上手くいっていないのが現状です。