責任の所在が曖昧になる連立政権
待鳥 改革を阻害する要因が非常に複雑に絡み合っていますよね。まさに、シルバー民主主義という表現がよく当てはまる局面なのかもしれません。人口が多い高齢者層に負担の話を受け入れてもらうことは簡単ではありませんが、負担の話は避けては通れません。
負担の話が避けられがちなのは、現在の日本の政治制度が生み出す連立政権にも原因があると考えます。一般的に言って、連立政権では各政党の合意が重なる範囲でしか政策は決まりません。与党の中で政策を固めていくとき、連立パートナーの政党が納得していないものを無理やり押し進めることは不可能です。なぜなら相手は連立からの離脱というカードを持っているからです。
自民党の場合も同様で、連立パートナーである公明党が受け入れてくれる範囲でしか政策を決められませんし、自民党自体の支持層の関係もあって、どうしても負担の話はしにくいわけです。今後は国民民主党との関係でも同じ状況になると考えられますが、国民民主党は連立パートナーですらないので、いっそう合意のコストは高まります。やはり、負担の話をするためには、与野党にまたがる超党派合意でなければ、単独政権で引き受けないと難しいと思います。
島澤 連立政権の弱さが出ていますね。
待鳥 今の国民民主党のスタンスは、「与党として責任のある立場にはならないが、自分たちの政策を取り入れてくれるのなら与党を助けても良い」との考えに基づいています。しかし、自民党からすると国民民主党の政策を受け入れないと多数派形成の見通しが立たないので、他に選択肢はありません。拒否した場合には「他の野党と組んで不信任決議案を出します」と言い出すこともあり得るので、与党側はますます要求を飲むしかなくなります。
なかには「少数与党政権になると与党単独過半数の時には出てこない熟議が起こり、国会が活性化するのではないか」という意見もありますが、すでにその兆しが見えていないように、実際には起こらないだろうと思います。国民民主党からすれば国会で議論して意向を反映させるメリットがないのです。内閣提出法案をつくる過程で与党協議に参加するという、自分たちが持っている優先的な決定権を手放すことになるわけで、そうする理由がありません。
また、内閣提出法案や予算案は、連立政党と協議を重ねて合意し、内閣法制局が緻密に審査した上で国会に提出されています。ここを変えずに、内閣提出法案を国会で修正して仕上げていくのだとしたら、あまりにも過程が増え、法制局や所轄官庁の官僚は何晩も徹夜しないといけないというような悲惨な状況になるでしょう。
「103万円の壁撤廃」のように、党として真にやる価値のある政策だと思うのなら、国民民主党はきちんと責任を負いながら与党になって実現させるべきです。現在のやり方だと、仮に何らかの政策を導入して失敗したとしても、「与党が悪かった」と言えてしまうため、やはりいささか無責任ですね。
参議院で過半数を得ないと意味がない
島澤 ここまで大きなデメリットがあるなかでも、連立政権が誕生してしまうような仕組みが現在の政治制度にあるのですね。
待鳥 連立政権になる一因は選挙制度です。衆議院は比例代表制が小選挙区制に並立されており、小政党が存続しやすくなっています。もう一つの、そしてより重要な要因は議会制度、具体的には参議院にあります。
憲法上、衆議院で可決されて参議院で否決された場合であっても、再度衆議院で3分の2の賛成を得れば、参議院の否決を覆すことが可能です。しかし、一つの政党が衆議院で3分の2を占めることはほぼ不可能ですので、結果的に参議院が非常に強い拒否権を持つことになるのです。つまり、参議院での少数与党を避けるために連立するわけですね。こうなると、衆議院で過半数に達しても、参議院で過半数を持たない限り、その多数派はかりそめでしかないということになります。
参議院の選挙制度は小選挙区・中選挙区からなる選挙区と比例代表区の並立制ですが、一人区と通称される小選挙区は約50人のみで、残りの約200人は中選挙区と比例代表によって選出されます。この仕組みだと小さな政党も議席を確保しやすいので、おのずと多党制になってしまいます。参議院での多数派形成には、連立を選択せざるを得ないわけですね。だから、自公はこれまで連立を組んできたのです。
島澤 そうですね。連立政権になると背後にいる利害関係団体が複数いるので、負担の話のような痛みを伴う改革は難しいと感じています。やはり、デメリットはもちろんありますが、果敢にスピーディーに物事を決定することにおいては、二大政党制がよいのではないでしょうか。さらに言うと比例代表制は廃止して小選挙区で民意を拡大して議席に反映させていく必要があります。当然、小政党からは反対があると思いますが、今のような連立政権しかり背後に多くの利害関係団体が存在すると、それらの利害調整をするだけで手いっぱいになってしまう。そうではなく大きいところだけですり合わせて、一丸となって政策を進めていかないと、政治であれ、社会保障であれ改革は進まないと思います。
根強く残る改革への失望感
島澤 改革がしにくい選挙制度であることは理解できましたが、政治家個人として改革を掲げる方は出てこないのでしょうか?
待鳥 個人として改革の必要性を感じている政治家が1人もいないとは思いませんが、結局のところ票にはつながらないので、わざわざ行動に移す方がいないのでしょう。「票になること」が政治家にとって最大の動機なので、たとえ改革のアイデアを持っている人がいても、コストを払ってまでそれを掲げることはないのです。
島澤 しかし、過去を振り返ると、1990年代から2000年代は日本には、改革を押し進めた時期がありましたね。
待鳥 そうですね。当時は改革という言葉への評価が高く、小泉純一郎氏やかつての民主党も改革をプラスのシンボルとして使っていました。しかし、今では維新が一応改革を旗印にしていますが、議席比率で見ると15%程度にしか伸びていないことからもわかるように、今の有権者の広く強い関心を集めているとは言い難いですね。
その背景には、過去の改革への失望感があるのかもしれません。結局は大して結果が出ず、改革を経てもより良い社会にはなっていないと感じている人が多い。また、改革とは名ばかりで、結局は自分たちにとって触れてほしくないところはそのままで、都合のいいところだけ変えてきたという印象が残っているのかもしれません。
特に、現在の50代以上の中高年層は、90年代から始まった改革のプロセスを有権者として見てきた世代ですが、結果的に「悪夢の民主党政権」という言葉が生まれるほど、良いイメージが乏しい。もともと、民主党政権を改革のシンボルと捉えて期待をしていた人は多くいました。ところが、結局何も生み出さないどころか、いろいろな混乱を引き起こした挙げ句に、自壊して消えて行ったと評価する人は今となっては少なくありません。この記憶が鮮明に残る40代以上の人々は改革シンボルを高く評価しにくい傾向にあるのだろうと思います。
加えて、ここにも社会が高齢化している悪影響が出ていると思うのが、歳を取ると現状を変化させることに億劫になる傾向があることです。高齢者が多い日本社会では、大規模改革はめんどうだから小改善でいいだろうというような、改革に消極的な空気が社会全体に広がっているように思います。
こういった事情も相まって、有権者が改革を望み、それに乗っかる政治勢力が大きくなることは、現状では想像しにくいと感じています。
島澤 最近だと裏金問題で世論が沸騰した時に改革という言葉を度々耳にしましたが、結局のところ小さい話で終わってしまって、抜本的な解決にはつながりませんでした。改革を求める機運が今の日本にはないのでしょう。
待鳥 政治資金に関する今回の「改革」は、有権者の目につくかたちで政治とカネの問題が出てきたから、皆が怒っているところだけ変えたまでという感が強いですね。対症療法もいいところで、これを「改革」と呼ぶのはさすがに無理があると思います。
財政赤字出し放題のツケが今まわって来た
島澤 政治制度の改革についてお話してきましたが、社会保障や経済でも、改革と呼べるものは長い間生まれてきませんでした。そう遠くない将来、出生数の減少によって社会保障費の財源の確保が困難になることは紛れもない事実にも関わらず、5年に1度の財政検証で何となく現行の制度が延長され、小手先の手直ししか行われていません。
待鳥 財政の面で改革が先送りにされてきた背景には何があるのでしょうか?
島澤 改革がなされなかったというよりも、「改革をしなくても済んだのはなぜか」と言ったほうがいいかもしれません。その最大の理由は財政赤字が出し放題だったことにあると考えます。社会保障制度を支える層が減少し赤字が増え続けても、国債を日銀に買ってもらえば財源は工面できたので、特に大きな改革がなくてもやってこれたというわけです。アベノミクスや日銀の国債の買い進めもなども、「いかに財政再建をしなくてもいいか」という仕組みづくりの一環でした。
しかし、近年は日銀の金融政策の変更によって「金利のある世界」へと変わりつつあり、財政赤字が出しにくい状況になっているので、財源への議論が厳しくなってきています。例えば、少子化対策や103万円の壁撤廃でも財源の問題が強く言われ出しています。財源を工面できないのなら改革が必要だという雰囲気に持っていくのも一つの策なのかなと思います。
日銀の金融政策正常化という市場の圧力によって、今は約1300兆円の国債があるため金利が上がっていくと予算が組めなくなります。そうなると何かしらの改革圧力が働くのではないかと思うのです。赤字国債をいかに発行できないようにしていくかが、一つ方法としてあるのではと考えます。
待鳥 経済学の素人ながら、「やはり原因はそこにあったのか」という感じがしますね。ただ、非常に難しい方法だとも思います。「これ以上国債を出さない」と市場からメッセージを出すのは、ハードランディング路線になりかねません。かなりの混乱があちこちに生じる可能性が高いと思います。できれば避けたいが、それくらいしか策が残っていないということなのでしょうか……。
島澤 イギリスのトラス元首相が大幅減税を掲げましたが、猛反対ゆえに市場の原理が働き、結果辞職に追い込まれました。しかし、日本ではそれができなくなっているのが現状です。待鳥先生のおっしゃる通りで、いま急激に金利が上がるとあっという間にあらゆる機能が停止してしまうとは思いますが、それを避けるためにまずはインフレ率を2%~3%に維持して税収を増やしていく。そこで財政が少し好転し始めたら金利を上げるという流れが理想的です。ただ、とてつもなく狭い道を通っていくことには変わりません。
一つ言えるのが、名目GDP比200%以上の債務を抱え、経済成長率が平均約1%の日本が、簡単な経済運営で済むわけがないのです。すべてアベノミクスだけに原因があるとは言いませんが、そのような経済運営を10年近く続けてきたことは事実で、そのツケが今です。ここを上手く切り抜けないと大変なことになるでしょう。
待鳥 当初、アベノミクス第三の矢は「構造改革」でしたが、そこは手つかずに終わった印象ですね。第三の矢を進めるには政治的コストが高いと判断があったのでしょうが、10年間もそれで進めたのが適切だったかどうか判断が難しいところです。
なぜ財政楽観論が生まれるのか?
待鳥 あわせて少し疑問に思うのが、今の財政状況であっても「日本はこのままでも大丈夫だ」と楽観的な主張を繰り広げる経済学者、エコノミストの方もいらっしゃいますよね。おそらく経済学的には非常に異端なのだと思いますが、「国債はほとんど日本国民で持っているんだから、それは日本国内で誰のところにお金があるかの問題に過ぎない。つまり国債は財布を1階に置いているか2階に置いているかの差でしかない」といった議論を展開しています。なぜ経済学にはこのような方が出てくるのが、素直に疑問に感じています。
島澤 経済学者は10人いたら11個の政策提言があると言われる世界なので、様々な説を持った方がいるのはしょうがないことだと思います。ただ、待鳥先生が指摘されるような経済学者の方々は、実際には学会ではまともに取り扱ってもらえていませんし、正統派とは一線を画す理論だと認識されています。しかし厄介なことに、世の中には非常に好意的に受け入れられています。これは大きな問題です。
そこには、過去にとんでもない理論が出てきても、正統派の経済学者が一つひとつ反論してこなかったことに原因があるのかなと思います。丁寧に反論してきた方もいたのですが、それをしてもネットで袋叩きに遭うことが常なので、発言を控えるようになってしまったのでしょう。
もう一つは、受け手側の問題です。本当にその説に納得しているかは別として、耳に易しい話なので信じたい気持ちが生まれるのでしょう。自分たちが苦しい思いをしなくていいのであればそのほうが良いと考える人はたくさんいます。そのような楽をしたい人たちに上手く訴えかけていったのだと思います。
それらを放置していった結果、政治家すらもそれらの理論を支持する人が出てきてしまっているのが現状です。ノーコストで赤字国債を発行できる現状を放置したままで良いのなら、それに越した事はないので、政治家もそれに飛びつき、あくまでそれが世界標準の経済学であるかのように上手く宣伝していったのでしょう。
待鳥 今のお話を聞いて癌の民間療法を思い浮かべました。手術をしないで癌が治るとか、キノコを食べれば治るとか、痛い思いをしたくないから民間療法を信じる人が少なからずいますよね。ただ、医療の場合は人の生き死にと関わることですから、周りの人が止めるなどきちんとした標準治療が作用しやすいのです。ただ、これが経済だとそういう動きにはなりづらいということなんでしょうね。
島澤先生からご指摘にあったようにSNSの世界、特にXは玉石混淆というより荒野のような世界ですよね(笑)。「10個注文したはずが、ミスで100個届いてしまいました。助けてください」というような人には対してはすごく優しいのですが、それ以外はほとんどが叩き合いの世界です。特にまともな説や理論を引きずり下ろすと言いますか、悪い意味でまともなものと、とんでもないものを相対化してしまう傾向にあります。
もともと多くの人間が集まると多様な知識や経験によって優れた考えが生まれる「集合知」が形成されるのですが、むしろ現代は皆で考えたほうが悪い方向に行くという、何だかとんでもないものを見ているような感じが否めません。
島澤 おっしゃる通りですね。それこそ民間療法話で言うと病状が悪化してしまうだけかもしれませんが、経済の場合はとんでもない理論に政治家がかぶれて、経済が突然死してしまうことだけは絶対に避けなければいけません。それを回避するために財務省や役所が、現制度内の可能な範囲で手を尽くしているのです。しかし、結果ギリギリ生き延びることができているので、「それ見たことか。こんなに国債がある今でも生き延びている。今後も問題ない」と財政拡大論者の持論の強化にすら利用されてしまいます。
ただ、そういう方々は「今後はどうするのか」といった先の話はしません。もともとリフレ派の人たちは、「日銀がお金を刷らないからデフレのままなのだ。デフレを解消してインフレ率を2%にすれば財政赤字は解決する」と主張していたのですが、実際日銀がお金を刷ってもまったくインフレにはなりませんでした。そうかと思えば、「金融政策だけでは経済は動かないから、財政政策も必要だ」といった主張を始めて、どんどんとゴールポストを自分たちに都合の良いように動かしてきました。
さらに厄介なことに、このような人たちは時々の自分の主張を信じ込んでいるので、最初に主張したことは忘れてしまったのかと思うほど、今の視点でしか財政を見ていません。しかし、現実を放棄するわけにはいかないので、それらの後始末みたいなことばかりに対処しているというのが現状です。リテラシーという言葉はあまり好きではありませんが、政治家はもちろん一般の有権者もそこを少し上げていかないと、これまでは何となく切り抜けられてきましたが、今後はそうはいかないと思います。
待鳥 なかなか妙案が出てこないというのは想像がつきます。問題が難しくなればなるほど人間は簡単に答えを出そうとする習性があるとつくづく感じます。学生時代に「この問題集さえやっておけば、この教科の苦手を克服できる」という謳い文句の参考書を買って、結局効果が出ないといった経験をした人が山ほどいるように、人にはそういう傾向があるわけです。
むしろ、仮に人間がリスクを100%客観的に把握できる能力を備えていたのなら、とうの昔に滅んでいたとも思います。人類は明確なリスクが存在したとしても、まるでないかのように行動できる人たちがいたからこそ、ここまで発展できたとも言えるのではないかと考えています。そのため、リスクを一切取らないことが正解かというとそうではないので、ここは非常に難しい話です。
だからといって放置はできません。今後、これからの日本について楽な議論をしたいとか、妙案があるような顔をしたい人が、政治や言論の世界にますます出てくるでしょう。そうした議論に対してどのように抵抗力をつけていくかが非常に重要になるのだと思います。
(終)