『公研』2023年2月号「私の生き方」

歌人・細胞生物学者 JT生命誌研究館館長 永田和宏

 

 

二人の思い出の場所、法然院

──今回のインタビューに先駆けて法然院(京都市左京区)を訪れ、昨年9月に建立された奥様の河野裕子さんのお墓にお参りし、お二人の短歌が刻まれた歌碑も見てきました。

永田 法然院から黒谷(金戒光明寺)の墓地に向けて降りていくあのあたりは、僕と河野裕子のデートコースでしょっちゅう歩き回っていました。法然院には、著名な文人や学者たちの墓があります。谷崎潤一郎、河上肇(経済学者)、福田平八郎(日本画)、湯川秀樹先生の師でもある理論物理学者の玉城嘉十郎、内藤湖南(東洋史学)、九鬼周造(哲学者)、そして川田順です。「老いらくの恋」で有名になった歌人です。

 ところが、NHKが我々のドキュメンタリー番組をつくるということでディレクターやカメラマンと一緒に法然院を歩いていたら、川田順の墓がなくなっていた。我々にとっても馴染み深い歌人だったし、いつも二人でそこを歩いていましたから墓の場所をよく覚えていたんです。ご住職に聞くと「墓じまいをされた」と。

 僕は河野裕子が亡くなったときも「墓はつくらない」と公言して、彼女の遺骨を側に置いていたんだけど、ここならいいかと思ってその墓地を購入しました。ほとんど衝動買いでした。法然院でなければ、あるいは川田順の墓の跡地でなければつくらなかっただろうね。ここだったら、河野も納得するだろうと思えたんです。

法然院に建立された二人の歌碑。
「われを呼ぶうら若きこゑよ喉ぼとけ桃の核ほどひかりてゐたる」
河野裕子
「きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり」
永田和宏

 最初は、墓地に歌碑を建てようと思っていたのだけど、ご住職から「歌碑は参道に建てても結構です」と言っていただいた。それで我々の短歌結社「塔」のメンバーが歌碑建立委員会を組織してくれて、寄付を募って歌碑を建ててくれた。

──思い出の場所にお墓があるのは素敵ですね。

永田 隣が九鬼周造だし錚々たる人たちが眠っていますから、死んでからもしんどいところなんですよ(笑)。

 

──昨年、ご著作『あの胸が岬のように遠かった』を原作としたドラマがNHKで公開されました。永田さんを柄本佑さん、河野さんを藤野涼子さんが演じられました。

永田 いろいろな人から若いときの自分に「似ているね」と言われたけど、僕のほうがもうちょっとカッコ良かっただろうと言っています(笑)。ずいぶん抜けている要素もあるから、あのドラマだけで自分たちの若いときを捉えられるのは困るなとも感じました。でも、あの原作をドラマにするのは難しいだろうし、大事な部分はよくやってくれました。柄本佑さんは、うまいですよね。撮影現場も見に行きましたが、河野裕子を演じた藤野涼子さんなんて孫娘と同じくらいの年齢ですから、とても自分のこととは思えなかったですね。

 

母の記憶

──1947年滋賀県高島郡饗庭村(現・高島市新旭町)のお生まれです。一番古い記憶は?

永田 母親の死んだ朝です。三つでした。父が母の顔にかけられた布を取ったところをはっきりと記憶しています。けれども、その布の下にどんな顔があったのかはどうしても思い出せない。まだ小さい子どもだから状況をうまく理解しなくて、僕が何かを言ったんですよね。何を言ったのかは覚えてないけど、それを聞いた親戚の女性たちが後ろのほうで泣いたんです。母親が死んだことも知らずに、何か無邪気なことを言ったのが大人たちの涙を誘ったのだと思いますけどね。それから、共同墓地までの道を歩いたこともかすかに覚えています。田舎の葬式は、まだ土葬でしたからね。

 それが一番古い記憶だとずっと思ったんですけど、それよりも前に母が「離れ」の縁側に立っている図もかすかに覚えている気がするんです。母は肺結核だったので、遷(うつ)しちゃいけないということで、早くから離れに隔離され、僕は母の実家のすぐ近くにあったお寺に預けられていたんです。母は離れの庭で遊んでいた僕を廊下から見ていたのだろうと思います。それが母であることは、たぶんわかっていたのだけど近づいていくことはなかった。一回でも抱きついていたら、母はどんなに嬉しかっただろうと今なら思います。不思議なもので、この場面は後から思い出した記憶という感じですね。

──この3年間も新型コロナウイルスによって多くの死者が出ています。どのように受け止められたでしょうか?

永田 パンデミックを自分のこととして受け止めるのは難しいことを実感しました。100年前に大流行したスペイン風邪のときは、世界人口18億人のうち6億人、約3分の1が感染しています。日本は総人口の半分ぐらいが感染して、死亡率は今より10倍も高かった。たいへんな状況だけど、恐ろしさを実感することは当時も難しくて、長崎医専の教授として長崎に滞在していた斎藤茂吉は、「寒き雨まれまれに降りはやりかぜ衰へぬ長崎の年暮れむとす」という歌を作っています。流行り風邪を恐れて一年を過ごしてきたが、いま長崎の一年は暮れようとしている、といった意味ですね。実は茂吉はその数日後にスペイン風邪に罹って生死の境を彷徨うことになるんです。東京から義弟の斎藤西洋が長崎を訪れたので、妻のてる子と長男茂太と一緒に4人で長崎のホテルで食事をして楽しく過ごすんです。感染症が流行しているときには一番やっちゃいかんことですよね。楽観性あるいは正常性バイアスが働いて、なかなか事態を深刻に捉えられずにどんどん感染を広げていきました。100年経ってもそれはほとんど変わっていない。

 確かに科学が進歩したことで死亡率は下がったし、こんなに早くワクチンも開発された。こんなに早いのは初めてですよ。けれども、基本はそんなに変わっていないんだな。今回の新型コロナの場合も初期の頃は、感染した人の血清を次に感染した人に打つという昔ながらの治療が行われました。基本的には100年前と対処の仕方はあまり変わっていない。だから、サイエンティストは何でもわかっていて、彼らが即座に正しい解決策を出してくれるわけでは決してないんです。常に現在進行形で、学者といえども試行錯誤しながら状況を見極めて、手探りで対処法を探っているんです。サイエンスが身近に感じられたという意味では、今回の新型コロナは逆にいい機会だったとも思います。PCRや免疫がどんなものかということを多くの人が知ることになりました。100年前はそこまで進んでいなかったからね。

 

変異の宿命

──変異を重ねるごとに新型コロナウイルスが弱毒化していったことが不思議に感じました。ここに理由はあるのでしょうか?

永田 ウイルスは、宿主に感染しないと自分を増やせないという宿命を持っています。変異は完全に確率的に起こるので、より強毒化することもあり得るけど、それだと宿主を死に絶やしてしまって自分が増えることはできなくなる。弱毒であれば、宿主は殺さないで自分も生き延びられる。だから結果的には弱毒化したやつだけが生き残っていく。ウイルスは考えてそれをやっているわけでも、生き残りたいと思っているわけでもない。それが変異の宿命であって、最終的にはそれで宿主と共存しているんですよね。なので、新型コロナウイルスもやがては風邪と大差ないウイルスになっていくことは間違いないでしょう。

 新型コロナは、コウモリ由来のウイルスではないかという可能性が指摘されていますよね。たぶんコウモリには悪影響を与えずに共存していたのだと思います。ところが、ホストジャンプと言いますが、宿主をセンザンコウというヒトが食べる動物に移し、そしてヒトに広がった。ヒトはその免疫を持っていないので、パンデミックに繋がってしまったのです。

 

お寺のおばあさんと歩いた湖西の道

──幼少期を過ごされた饗庭村はどんなところですか?

永田 今でこそ京都も大阪も通勤圏内ですが、当時は本当に隔離されたところでした。今津と浜大津を結ぶ江若鉄道が一本走っているだけで、もちろん街のことを全然知らずに育ちました。

 父は母が死んでから京都の西陣に働きに出ていました。叔父さんと一緒に作った店で帯の産地問屋をやっていたんです。今はもうなくなったけど、西陣では割と大きくなりました。父が家に帰って来るのは月に1、2回のことで、それが一番の楽しみでしたね。帰ってくるのをひたすら待っていたことをよく記憶しているので、やっぱり寂しかったのだと思います。帰ってきても一晩か二晩泊まるとまた京都に仕事に行くので、それをいかに阻止するかが幼い僕の大命題でした。あんまり僕が駅でごねたりなんかしたので、父が乗る電車を遅らせたり家まで一回連れて帰ったりしたこともありました。

 

──お寺に預けられていたとのことですが。

永田 ご主人を亡くされたお寺のおばあさんに面倒をみてもらっていたんです。なかなか品のいいおばあさんでしたが、昔の人だから字の読み書きができなかった。それで手紙が来るたびに読んでもらって返事を書いてもらうために、饗庭から今津に住む友達の家までよく歩いていったことを覚えています。子どもを連れてよく何キロも湖西の道を歩かせたなと思いますね。おばあさんとの生活は1、2年くらいだったでしょうか。僕が4歳のときに父が再婚すると、京都の上賀茂神社に近い紫竹に家を購入して、そこで親子3人での生活が始まります。新しい母が来ることには、子どもながらに複雑な感情があったけど、父と一緒に暮らせることが嬉しかった。

──少年時代は、どんなことに関心を持たれましたか。

永田 ラジオ少年でしたね。古道具屋に行って壊れたラジオをもらってきて、それを組み立て直して真空管のラジオをつくっていました。それでラジオ放送を聞いたときはすごく嬉しかったですね。無線機もつくりました。科学好きの少年で、湯川秀樹博士に憧れていて、小学生の時の学校通信にも「湯川博士が大すきだ。科学者、科学者、ぼくはきっとなろう」と書いているんです。

 中学生の時は、軟式テニスばかりやっていて勉強はしなかった。テニス部の部長をやっていて、京都市内でも8位以内に入っています。生徒会副会長もやらされていたけど、さぼってテニスをしていましたから生徒会の皆からは顰蹙を買っていましたね。

 その反動でもないけど高校時代はクラブには入らずに、塾に通って受験勉強に没頭しました。北野天満宮の近くにあった十如寺というお寺のお堂を借りて開かれていた北野塾というところに通っていたのだけど、そこには本当におもしろい先生がいっぱいいたんです。そこで勉強にハマっちゃったんですね。特に物理の梶川五良先生の講義に魅了されました。京都大学の物理に進むことになったきっかけですね。

 「受験勉強なんかよりもっと大事なことがある」とわかったようなことを言う人は多いけど、受験勉強自体が役に立つかどうかより、ある時期に何かに没頭することは、とても大事だと思う。若い頃にそういう経験をしておかないと、その後もうまく集中できない。高校時代に勉強漬けの日々を送ったことは良かったと僕は思っている。

 

最初に作った短歌が佳作と特選

──短歌や文学にご関心に持たれたきっかけは?

永田 北野塾で短歌とも出会っているんです。国語の佐野孝男先生が、近代の短歌を200首集めてガリ版で刷った資料を用いて一首ずつ鑑賞してくれたんです。落合直文や与謝野晶子から始まって、斎藤茂吉、若山牧水、石川啄木など近代の主だった歌人が網羅されていました。新しいところだと土屋文明もありました。文法がどうのこうのではなくて、「この歌は本当にいいよね」という感じで短歌の魅力を教えてくれたんです。僕にとってはあの授業は本当に良かった。晶子なんかに憧れて、自分でも作ってみるかという気持ちになった。

 それで、最初に作った短歌を京都新聞歌壇に投稿してみたんです。そうしたら一首目が選者をされていた平井乙麿さんという地方の歌人が佳作として選んでくれたんです。初めて作った歌が活字になって新聞に載ったのは、すごく嬉しかった。それで気を良くしてもう一首作って送りました。

 酔いまさむ父を迎えに外に出でぬ元旦の夜のオリオンの冴え

 この二作目がなんと特選になっちゃった。最初は「ほろ酔いの父を」だったのだけど、平井さんが「酔いまさむ」に添削しています。これは敬語なんだけど、その時はどういう意味なのかわからなかった。今から考えたら、最初の「ほろ酔いの」ほうが良かったと思ってる(笑)。酷い歌だよね。元旦って正月一日の朝のことだから、それが夜では意味をなさない。

──いきなり特選ですか。やはり最初からセンスがあったんですね。

永田 でも、二首しか作ってないのに佳作と特選になって「こんなもんか。つまらない」と思っちゃったんです。それきりでやめてしまいました。新聞歌壇はお年寄りが圧倒的に多いから、そこに若い人が投稿してきたから採ってやりたいと思うのが選者の親心ですよね。けれど、当時はそこには思い至りませんでした。若いというのは傲慢なものだからね。

 

「もう一度だけ、出てみないか?」

──1966年に京都大学理学部物理学科に入学されています。

永田 大学に入ってからは、また運動をしたいと思いました。元々、体育会系だしね。袴を履きたいと思って合気道に入ってみたけれど、履けるようになるのは2年後だとわかってすぐにやめてしまいます。バスケットボールも好きだったから覗いてみたけど、みんな背が高くてね。とてもレギュラーはムリやとすぐに諦めてやめています。

 ブラブラしていたら「京大短歌会を作る」というポスターを見つけたんです。短歌なら佳作と特選だからね(笑)。自信満々で最初の歌会に参加したけど、最初はもう本当にコテンパンでしたね。ちっとも褒めてくれないし、みんなの歌も理解できなかった。ちなみに、この歌会には高安国世先生が顧問として出席されていました。生涯の歌の師となる人です。

──短歌にはすぐに夢中になったのですか?

永田 それがしばらくの間は、みんなの歌も発言もよく理解できないからおもしろいとは思えなかったんです。すっかり興味をなくしてしまって、歌会にも行かなくなりました。けれども、京大短歌会の呼びかけ人である藤重直彦さんから「もう一度だけ、出てみないか」と電話があったんです。数カ月振りに歌会に参加したら、みんなの歌の評が少しだけわかるような気がしたんです。短歌について何か勉強したわけでもないのに、ただ寝かせておくだけで、それまでは見えなかったものが見えてきた実感があった。

 その夜、歌会から帰る途中にバス停でバスを待っておられた高安先生に「歌がうまくなるには、どうしたらいいですか?」と声を掛けたんです。すると先生は「『塔』にお入りなさい」とすぐに答えが返ってきた。「塔」のことはまったく知らなかったけど、僕は「はい、そうします」と答えました。短歌結社「塔」に入会したのは、それからしばらくしてからのことです。1967年6月号の裏表紙に新入会員として私の名前が載っています。

「なんでこんなんわからへんの」

──河野裕子さんと最初に出会った時の印象は?

永田 1967年11月に京都大学、立命館大学、京都女子大の学生歌人が集まって、「幻想派」という同人誌が創刊されました。その第1回の集まりが最初の出会いなのだけど、僕と河野とでは書いていることが違っているんです。僕は「私が学友会館の二階の部屋に入った時、窓際に一人の少女が立っていた」と書いていますが、河野は「あの人が一番初めに来ていたらしくて、立って窓の外を見ていた。私が入っていったら振り向いた」と書いている。どちらも相手が先に来ていたと記憶しているんです(笑)。すごくよく笑う子で、何人かいた女子大生のなかでは一番目立ってた。綺麗だったしね。この時に河野が提出した歌が、

 揺すらむとして不意にまがなし少年めきて君はあまりに細き頸してゐる

 という「かなしい」に「ま」を付けた「まがなし」という言葉を使った歌でした。そこにいた学生たちは、この言葉が誰もわからない。あーでもない、こーでもないと議論しては、みな首を捻っていました。そうしたら河野が「なんでこんなんわからへんの」と言ってのけた。あれには、本当にびっくりしましたね。彼女は、それなりに周りに気を遣ってはいるんだけど、最後にはいつも単刀直入やったな。だから僕だけじゃなくて、同世代の若い歌人たちは河野に一目置いていました。

──河野さんの歌は、まさに端的で単刀直入な印象があります。歌人として河野さんの才能に嫉妬するようなことはありましたか?

永田 才能という意味で嫉妬したことはなかったな。いい歌を作っているのはわかっていて、そこに魅かれていたけど、とても敵わないとは思わなかったですね。我々にも我々のいい歌があって、河野の歌のすべてが優れていたというわけでもない。

 ただ、河野はどんどん自分の道を先に進んでいくので、ちょっと遅れをとっている感じはありました。特に一緒になった頃は、彼女は短歌の賞をほとんど総なめにしていましたから、その時は落ち込むというか内心「こんちくしょう」と思っていましたけどね(笑)。ある時から、いろいろな賞がくるようになったけど、最初の頃は「僕には受賞歴がほとんどない」なんて笑い話をしていました。

 

歌の「呼吸」を見つける

──以前に歌人の岡井隆さん(『公研』2017年1月号「私の生き方」)にご登場いただいた際に感じたのですが、賞の選考や選者になることをめぐってはどうしてもやっかむ人が出てきますね。短歌の世界は意地悪ではないか、とも感じました。

永田 確かにそういうところはありますよね。目立ち始めると、必ず批判的なことを言う人が出てくる。その人の才能をあるがままに受け止めたくないという心理が働いてしまう人は、けっこう多い。僕を認めたくないと思うと、「あいつはサイエンスが本業だから歌には本気になって打ち込んでいない」と決め付けてしまう。

 研究の世界にもそういう思いはあるんですよ。逆に「あいつは歌人だから科学はおろそかになっている」と言ってみたり、あえて無視してみたりする思考形態をする人もいました。だから、どちらの世界にもそういうやっかみはありますよね。僕にしても本気で打ち込んでいないとは思われたくないので、しばらくはそれで悩んできたところはありました。

──短歌の良し悪しを評価するのは難しいと感じます。そもそも言葉の連なりが人の心を打つこと自体が不思議です。

永田 まずは「この歌はよくわかる」とか「ここはわからん」といったところから始まって、「これは言わなくてもわかるじゃないか」ということが批評になっていくわけです。短歌は短いので、短い言葉のなかに自分の思いをいかに伝えるかというところに四苦八苦する。大体の歌がね、言い過ぎちゃうんですよ。自分の思いをわかってちょうだい、という気持ちが出過ぎてしまうのでつまらなくなる。少しやってくると言い過ぎだとわかってくるようになります。

 自分が一番言いたいことは言わないで、その手前で歌を差し出す。言わずして、それを感じてもらうのが歌なんです。もちろん何も言わなければ、誰もわかってくれないのだけど、言い過ぎない。それを「呼吸」と言うのかな。その呼吸を見つけるのが歌会という場なんだ。だから、歌会に出ないとみんな独りよがりになっちゃう。これは今でも変わらないですね。

 

選歌の動体視力はイチロー並み

──一人では呼吸を掴むことができない。

永田 そうなんです。僕は歌壇では、一番人の歌を読んでいると思います。まずは歌会始があって、自分の結社誌「塔」の毎月の選歌、朝日新聞の「朝日歌壇」の選者もやっています。朝日はべらぼうに多くて1週間で2500首きますからね。それからいろいろな短歌コンクールも含めると、年間で大体20万首ぐらい読んでいます。

 これだけ読んでいるとみんなが言いたいことは、下の句を読まなくてわかるという感じになります。僕は「9割は結句で落としている」と言っています。57577の最後の77でどうしても言いたいことを言い過ぎちゃうんですね。それがつまらない。そこさえ言わないでおいてくれたら採れたのにという歌が断然多いんです。言わないところをいかに感じてもらえるか、あるいは作者が言わなかったことを読み手が回収して自分のこととして感じられるか。そこが歌の大事なところなんです。

 一度、NHKの短歌大会で僕が選歌している現場を放送したことがありました。アナウンサーの加賀美幸子さんが司会でしたが、彼女の問いかけに答えながら選歌していたら、視聴者から「もっと真面目にやれ」と苦情の電話が来たそうです。そりゃそうだよな。応募している方からすれば、一生懸命作った歌だからね。

 僕は上の句だけでだけで終わることはなくて、全部読みますけどね。ただ、歌の良し悪しはほとんど瞬時に見分けがつきます。朝日歌壇は2週間に1回選歌に行っているけど、朝11時から5時くらいに5000首くらいパッパと読んで判断しています。動体視力はイチロー並みですよ(笑)。

 

すべての出口が塞がって見えた

──河野裕子さんが亡くなった後に見つかった日記をもとに執筆された『あの胸が岬のように遠かった』では若かりし頃のお二人の関係が詳細に綴られています。いわゆる三角関係に悩まされる河野さんの吐露を受け止める永田さんが印象に残りました。若いのに包容力がある。

永田 包容力なんてなかったですよ。今振り返ると包容力みたいに聞こえるかもわからんけど、あの時は僕もしんどかった。ただ、この人に付いていってやらんといかん、この人しかないなと思っていました。

 河野は本気で悩んでいて、喫茶店なんかでお喋りしていても僕の前で倒れちゃうんですよ。完全にお姫様抱っこで、喫茶店の管理室なんかに連れて行って休ませることもありました。すごく苦しいのはよくわかった。そういうときは別に何も聞かなかったし、言わなかった。あるとき本当に地面を叩いて、自分を制御することなく泣き叫んだこともありました。完全に自分のほうに来てくれるという自信があったわけでもない。けれども、これは俺が付いていてやらんと、たぶん生きていけないだろう、そう思いましたね。

 結婚してからもそうで、もう本当に何でも僕に聞きました。着物を着るにしても、どの帯締めをしていくのかまで聞いてきた。僕も着物を選ぶセンスがあるわけでもないんだけど、僕がひとこと言ったら安心したところがありましたね。

──奥様の気持ちも射止められ順風満帆にも思えるのですが、自殺未遂を告白されています。

永田 結婚しなければならないことが、大きな要素になっていたのは間違いないですね。あの当時の田舎の感覚では、河野は、何がなんでも25歳までには結婚したいと強く思っていました。その一方で自分は、彼女の願いを叶えるための環境を何も整えられずにいました。大学院に進むための試験に失敗して、その後にどうするのかを具体的に思い描くことができずにいました。

 それにあの時には、父が再婚した2番目の母との関係がとても難しい状況にあったんです。母はかわいそうな人で、小脳変性症という難病を患っていました。徐々に運動機能が侵されていく病気で、その頃には外に出ることもままならない状況でした。結局、自分だけがなんでこんな目に遭わなければならないのだという思いが強かったのだと思います。それが僕に対して苛立ちとして現れてくるようになりました。何でも言うことを聞くいい子だったのが、大学に通い始めて自分の世界を持ち始めて、自由に動き回るのを見ていると腹が立ってくる。そういう思考回路になってしまっていました。

 あの時はそうしたことがいくつも重なっていて、どこを見てもすべての出口が塞がっているように感じられたんです。そういう時が一番しんどい。人間が最終的な行動を選ぶ時は、何か一つはっきりした理由があるわけではないことが多いのだと思います。

──大学教授になられるような方が院試に落ちるのは珍しいですね。

永田 (笑)。今時は大学院に落ちるやつはほとんどいないけど、当時の物理はすごく人気があって厳しかったんですよ。同じように諦めて辞めていったやつは何人もいますしね。ただ、対策がおろそかになっていたことは事実です。今から考えれば、僕は同学年の中で最も物理を勉強している時間が少なかった。あの当時は、集中を妨げる要素がいくつも重なっていました。まずは70年の学園紛争です。ロックアウトで1年間講義はなくて、みんな政治の話ばかりしていました。それから短歌が本当におもしろくなっていきました。おまけに恋愛にものめり込んでいて、恋人が歌人として自分の前を歩いてく。焦りばかりを感じてしまって、なかなか物理に本腰を入れられなかった。当然あれでは落ちると思います。

 

森永乳業中央研究所で研究に没頭

──結局、大学院に進まれることは断念して、森永乳業中央研究所で研究者として勤務されることになります。

永田 森永も理論物理、それも素粒子論なんてものしかやっていない人間をよく採ったと思いますよ(笑)。牛乳のことなんて何も知らんし、そもそも生物は嫌いだったから全然勉強してこなかった。それでも時代が良かったんでしょうね。どの企業も「これからはバイオの時代だ」と言い出していて、森永も例に漏れずバイオの研究に乗り出すことを決めたところでした。

 最初は何もやることがなくて、ずっと放任されていたんですよ。半年間は図書館に行って適当に寝て帰るというひどい生活が続きました。「あいつにバイオをやらせろ」という経営層からの指令は出ていましたが、研究所の上層部も何をやらせたらいいのかよくわかっていない。なので、いろいろな先生を訪れて研究すべきテーマのヒントを聞きに行くことから始めたんです。

──本当に手探りのスタートなんですね。

永田 そうなんです。こうして当時、自治医大におられた高久史麿先生(自治医大学長、日本医学会会長などを歴任)のサジェスチョンで白血球に関する研究に着手することになりました。抗癌剤治療をすると血液がつくられなくなり、白血球が減少する副作用が出ます。この時に白血球を減少させないような薬が開発されれば、それは非常に有効なものになります。細胞培養から始めることになりましたが、森永の研究所では誰もやっていないので教わることもできない。

 それで今度は、東大の吉倉廣先生(国際医療センター研究所所長。感染症研究所所長などを歴任)のところに話を聞きに行きました。僕が「先生、細胞が増えません」と聞くと、先生は「バカだなあ。顕微鏡の焦点が合ってないよ」と呆れられました。焦点の合わせ方も知らなかったから、シャーレの底を見ていたわけ(笑)。

 そんな初歩的な段階から始まったのだけど、おもしろかったですね。本当にのめり込んでしまって、研究はこんなにおもしろいものかと思いました。毎日夜の1時くらいまで残業していました。こちらは楽しくてやっているのだけど「それ以上働くな!」と組合から睨まれるくらいでした。就職して2年目に河野と結婚してからは、家に帰るようになりましたけどね。

 

恩師、市川康夫先生

──ご著作で恩師と紹介されていた市川康夫先生との出会いについてお聞かせください。

永田 文献を通じて京大の市川先生の研究に関心を持って、「話を聞かせてほしい」と手紙を書いたことが最初のきっかけでした。企業にいる研究者だけどサイエンスにピュアな人間がいると思ってくれたみたいで、それからお付き合いが始まりました。盆や正月に京都に里帰りする際には、必ず市川先生のもとを訪ねるようになるんです。最初はおずおずと仕事の話だけを聞いていましたが、次第に飲みに連れて行ってもらったりして、いろいろなおもしろい話を聞かせてもらうようになります。

 こうしていろいろな先生方の協力を得て、森永乳業での研究でも成果が出始めてきます。MCSF(Macrophage colony-stimulating factor:マクロファージコロニー刺激因子)というタンパク質の存在に出くわすことになります。マクロファージは骨髄で作られる細胞で白血球の一つです。今回の新型コロナウイルス騒動でも名前が知られるようになりましたが、外から入ってきた異物を食べる役割を果たしています。MCSFは、そのマクロファージを増やす働きがある。抗がん剤の副作用を減らす薬を作ることが我々の目標ですから、それらしきものができ始めてきた。素直に喜べばいいのだけど、「これはまずいな」と思っちゃったんですよね。

──どうしてでしょうか?

永田 一つの薬をつくるには、20年くらい時間がかかるんです。有益な効果がありそうだとわかると、それを病院で患者さんに使ってもらって臨床データを集める。その後に副作用がないかどうかを徹底的に調査する。その期間その薬だけに関わることは、とても意義深いことなのだけど他の研究ができなくなってしまう。僕は研究に没頭したことで、初めてサイエンスのおもしろさに気付くことになった。研究に魅了されてしまったんですね。薬を製品としてかたちにするよりも、研究を続けたいと考えるようになりました。

 森永には5年間勤務しましたが、やはり研究を続ける決心をして辞めることにしました。京都大学の市川先生のもとで、無給を覚悟して研究生として働くことを選びました。実は同じ時期に国立がん研究所からも「来ないか」とお誘いがあったんです。東京にいる間に長男の淳と長女の紅が誕生していたので、給料がもらえることは魅力的でした。けれども、やはり市川先生の仕事ぶりに惚れ込んでいたのだろうな。京都大学医学研究科の結核胸部疾患研究所の研究員(研修員)として潜り込むことになりました。

──覚悟がいる決断ですね。奥様は反対しなかったのですか。

永田 東京に適応できなくて滅入っていたところがありましたから、彼女は京都に帰りたくて仕方がなかったんです。東京では山が見えないことが、息苦しかったようです。河野が育った滋賀は自然がいっぱいあるところだしね。僕が「京都に戻る」と言ったとき、女房は全然反対しなかった。女房としてはありがたいと思います。

 

夫婦揃って掘りごたつで歌を作る

──短歌も作られていたわけですから、とてつもなく忙しい毎日ですね。

永田 龍安寺に住んでいました。朝、子どもを保育園に送ってから大学に行って研究します。夜中の1時までにラボを出ることは、ほとんどなかった。元日も出ていました。貧乏で車もなかったから最初は自転車で通っていたけど、原付きのCUBを買って通ってた。家に帰るのはほとんど深夜で、晩飯を食べてそれからまた歌人としての仕事をしました。東京に足かけ5年半いる間に若手の歌人としてそれなりに認められて、いろいろな評論を書いていました。50枚くらいの長い評論を書けるということが重宝されていたんです。それから塾で物理の講師もやっていました。あの頃が一番集中していたという気がしますね。

 暮らしていた狭い三軒長屋には掘りごたつがあって、河野と向かい合って歌をつくったり、物を書いたりしていました。彼女も「永田が頑張るから私も頑張らなきゃ」という感じで一生懸命でした。両方とも負けてられないという感じで、喧嘩ばかりしていたけど、お互い本当によく仕事をしていましたね。

 

白血球の筋肉を精製

──市川先生の研究室ではどのようなテーマに取り組まれたのですか?

永田 白血病細胞が研究テーマでした。白血病細胞は、正常な白血球にはなれずにガン細胞化してしまったものです。白血病細胞になると正常な白血球を作れなくなります。運動することもできずに分裂だけが進んで白血病になってしまう。けれども、きちんとした白血球になるべき進路に戻してやることで白血病は治療できます。これを白血病の「分化誘導療法」と呼んでいます。

 正常な白血球は運動して異物を取り込んで食べる働きをしていますが、そんな運動能を獲得するには筋肉などと同じタンパク質が必要になります。市川先生が僕に与えたテーマは、白血球が運動能を獲得するメカニズムを明らかにすることでした。生物の知識がほとんどない学生と変わりない研究生にやらせるのは、今の常識からすればめちゃくちゃな話です(笑)。市川先生もこんな課題をよう与えたものだと思いますが、すぐにこの研究がおもしろくなっていきました。

 この時に僕が注目したのは、筋肉を形成する「アクチン」というタンパク質です。アクチンは一個の細胞の中にもあることがわかっていたので、筋肉以外の細胞からこれを精製することに取り組みました。最初は難しく思えたテーマでしたが、うまくいったんですね。精製に成功したのは僕が最初なんです。

 この研究で論文を書いて、京都大学理学部のドクターをもらうことになりました。ただ大学院を出ていないので、どのぐらいきちんとした知識があるのかを問う学識諮問は冷や汗ものでした。主査は発生生物学の権威、岡田節人先生で他にも何人かの先生が居並んで難しい質問を次々してくる。僕は生物を勉強していないので、質問がまったくわからない。「わかりません」「それもわかりません」と正直に答えていたら、岡田先生も段々心配になってきて、「大丈夫かな」という顔をされていました(笑)。それでも何とか通してくれた。ちなみに僕はいまJT生命誌研究館の3代目の館長を務めていますが、初代は岡田先生なんです。ドクター論文の主査を務めていただいた方の後を継ぐのは、不思議な気がしています。

 

米・国立衛生研究所に留学

──1984年5月からアメリカの国立衛生研究所(NIH)の国立癌研究所に留学されています。

永田 アメリカではケネス・ヤマダ博士のラボに入りました。フィブロネクチンという細胞の外にあるタンパク質があります。細胞はフィブロネクチンにくっついていろいろな機能をするのだけど、それを発見した研究者が彼でした。彼のラボでは、みんながリセプターと呼ばれるフィブロネクチンを認識する細胞側のタンパクの研究をやっているんです。

 僕は競争するのが嫌なので、同じことはやりたくないと思った。それで、拙い英語で交渉して、同じ細胞の外にあるコラーゲンというタンパクをやりたいと彼に提案して了解を得たんですね。それで、同じ細胞外のタンパク質であるコラーゲンリセプターを同定する仕事を始めることになりました。運良くコラーゲンに結合するタンパクを見つけたのだけど、実はそれは細胞の膜にあるのではなくて、細胞の内側にある小胞体にあったことがわかった。これはリセプターを見つけようという想定と違いましたから、この時はがっくりしました。

 ただ、その時に諦めずに研究を続けたのが良かった。小胞体はタンパクをつくるオルガネラ(細胞内小器官)ですが、そこでコラーゲンを作る何らかの役割をしているのだろうと考えたんですね。そして、細胞に熱をかけると誘導されてくる「熱ショックタンパク質」というタンパク質の一種であることがわかったんです。それまではあまり注目はされていなかったのだけど、そこから仕事が広がっていくことになりました。世界的にもちょうど熱ショックタンパク質や「分子シャペロン」という言葉が出始めて、初めてその機能が注目されているときでした。日本の中では僕は3番目ぐらいに早く仕事をして、その後ずっとこの分野を引っ張っていくことになります。一つの新しい分野が出始めているときにその研究に出くわすことができたことは、本当に幸運でしたね。

 

タンパク質を「介添え」するタンパク

──分子シャペロンとは?

永田 シャペロンは「介添え役」という意味です。分子シャペロンもタンパク質なんだけど、他のタンパク質がつくられるための手助けする役割を担っているんです。遺伝子の情報をもとにアミノ酸がつながることで、タンパク質はつくられるのだけど、それだけでは何も機能しない。一本の紐であるアミノ酸のつながりが針金細工のように折りたたまれて、きちんとした構造をとって初めて固有の機能を果たすんです。これをフォールディングと呼んでいますが、これは自分だけではできないので手助けが必要になる。それが分子シャペロンです。つまり、他のタンパクが正しい行動をとって成熟する介添えをしているわけです。

 それまでも分子シャペロンの存在はいくつか知られていましたが、僕が世界で初めてコラーゲンだけに働く分子シャペロンを見つけました。ただ、そういう概念がなかったので「本当にシャペロンなのか」とあまり信じてくれなかったんですよ。けれども10年ぐらい経って、遺伝子をノックアウトする技術が確立されると、僕の説が正しいことが証明されます。僕が見つけたHSP40というシャペロンをつくる遺伝子を壊したマウスは、正しいコラーゲンを作れなくなって死んでしまうことが実験でわかりました。ここから基質特異的シャペロンという概念が定着したんです。

 はじめはまったく基礎的な興味から始めた仕事でしたが、その後、肝硬変や肺線維症などといった線維化疾患を治療するターゲットとしても注目されるようになり、研究が世界的に広がっていきました。基礎研究が大切だと思っていますが、基礎研究が応用研究に繋がってくれれば、それも嬉しいですね。ハンス・ノイラート賞を日本人として初めて受賞することにもなりました。

──新しい発見があっても不思議がどんどん増えていくことをどのようにお感じでしょうか? タンパク質は非常に精緻な構造をしているので途方もない気持ちになります。

永田 そういう新しい疑問が湧いてくるから、これだけ長く研究を続けてこられた。それはもう実感として思います。我々にとっては答えられない問題を発掘していくときが一番の楽しい時なのですよ。それを証明するよりも楽しいんです。「なぜ」という疑問が感じられなくなったらサイエンスはおもしろくない。だから素朴でも何でもいいので、自分なりの疑問や問いを見つけることが大事です。そうした本質的な問いかけができる若い人を増やしたいと本気で思っているんです。

 

ほんたうに俺でよかったのか

──お話を短歌に戻します。年齢を重ねることで短歌の作り方に変化は出てきましたか?

永田 歳をとってから感じるようになったのは、歌のリズム、呼吸が自分の中にできているということですね。昔は上の句だけが先にできて、1年後ぐらいに下の句がつくこともありました。今は一首がスラスラとまとまりとして出てくることが多くなりました。若いときは寡作型でなかなか歌を作れなかった。苦吟しながら、何とか捻り出すという感じ。河野裕子は多作型で依頼された数の10倍ぐらい作ってたよね。僕がその一首一首に「◯」や「×」を付けさせられていたんです。

 この頃は、僕も本当に多作型になりましたね。ある時、忙しくて締め切りをすっかり忘れていたことがありました。しかも、校了日に東京への出張の予定が入っていた。仕方がないので、京都駅からのぞみに乗って品川駅に着くまでの2時間15分で31首を作ったことがありました。「時速15首」というタイトルでも良かったかな(笑)。

──奥様が亡くなって13年が経ちました。受け止め方は変わってきましたか?

永田 『歌に私は泣くだらう 妻・河野裕子 闘病の十年』は、あれを書かないとちょっと自分がもたなかった。闘病中、彼女は精神的にとても不安定になって周囲の人間、特に家族に対して攻撃的になっていたときがありました。なんであんなにひどいことになったんだろうという思いが強くありました。書きながらその理由について何とか自分を納得させようとしていました。けれども、書き終えても本当に納得していたわけではなかったんです。

 最初、河野は他の人は生活しているのに、なんで自分だけ病気になるのだろうと感じていて、世間や家族からも置いてけぼりにされているような気持ちだったのではないかと思っていました。

 けれども、それもちょっと違う。これまたようわからんけど、やっぱり僕と一緒に居たかったのだと思うんですよ。うぬぼれや惚気かもわからんけど、永田との時間を絶たれることがすごく大きかったんじゃないかな。

 4年くらい前に

 訊くことはつひになかつたほんたうに俺でよかったのかと訊けなかつたのだ

という歌を作りました。河野の僕への愛情の深さを疑ったことはなかったけど、後に残された僕はそんな疑問を持つようになりました。彼女が遺した日記と手紙300通が実家の押し入れから見つかって、それを読み始めたのはそんなことを考えるようになった頃でした。

 『あの胸が岬のように遠かった 河野裕子との青春』は、彼女の日記をもとに我々が出会ってから結婚するまでの日々を綴っています。「あの胸が岬のように遠かった 畜生、いつまで俺の少年」という私の若い頃の歌からタイトルを取っています。故人の日記まで出すことには、いろいろな批判があることはわかっていました。ただ河野は絶対に怒らないだろうと、それには自信がありました。もちろん書く限りは全部書かないと、まずいだろうと考えました。

──河野さんは永田さんに読んでもらおうと思って日記を遺しておいたのでしょうか?

永田 それはないと思う。日記を書いていたことも、その存在も知らなかった。ただ、河野は書かないといられない人だったんですよね。あの日記を見つけた僕の人生と、見つけなかった僕の人生とでは、全然違ったものになったでしょう。あの日記を知らないままに僕が死んだら、やっぱり寂しい話やな。

 僕は、本当に一生懸命に人を愛することができる人に愛されていたんだっていうことを僕自身が知らずに人生を過ごしてきて、河野裕子を死なせてしまった。それはすごく大きい。ただ、彼女にとって最後まで永田和宏がいた。そして私には河野裕子がいた。私の人生のいちばんの意味は、河野裕子に会って、彼女に愛された、それに尽きるのではないかとも思います。

──ありがとうございました。

聞き手:本誌 橋本淳一

 

 

ご経歴
ながた かずひろ:1947年滋賀県生まれ。71年京都大学理学部卒業後、森永乳業に入社。76年に森永乳業を退職し京都大学結核胸部疾患研究所(現:医生物学研究所)研修員。84年アメリカ国立がん研究所客員助教授。86年京都大学結核胸部疾患研究所教授、88年同大学胸部疾患研究所教授、98年同大学再生医科学研究所教授などを経て2020年よりJT生命誌研究館館長。専門は細胞生物学。京大名誉教授。京都産業大名誉教授。歌人として宮中歌会始詠進歌選者、朝日歌壇選者を務める。「塔」短歌会前主宰。読売文学賞、 迢空賞などを受賞。09年紫綬褒章受章。『メビウスの地平』『饗庭』などの多くの歌集がある。著作に『生命の内と外』『タンパク質の一生』『歌に私は泣くだらう』『あの胸が岬のように遠かった』など多数。

 

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