考古学者 春成 秀爾 『公研』2017年3月号「私の生き方」

すし詰めの南薩線の汽車

──1942年神戸市のお生まれですね。
春成 当時は武庫郡だった御影町に2歳までいましたが、米軍の空襲から逃れるために鹿児島に疎開しました。数年前に御影を訪ね、何か見覚えのある場所はないかと歩いてみましたが、見出すことはできませんでした。ですから神戸時代の記憶はないのです。母の郷里が鹿児島市だったので、まず鹿児島に疎開しましたが、ここでもB29の空襲を受けました。近所はほとんど燃えてしまいましたが、上荒田の実家だけは焼け残った。祖母は「ここに残る」と覚悟を決めて留まりましたが、私たちは父の実家のあった加世田町(現・南さつま市)に疎開先を変えることになりました。

 鹿児島から薩摩半島を南下する南薩線の汽車に乗って鹿児島から加世田へと移動する場面が、正確に覚えている最初の記憶です。車内はすし詰めで、窓には窓枠があるだけでガラスはない。私は途中でおしっこをしたくなった。それで僕を胴上げするように担ぎ上げてもらって窓から外に降りて、伊作駅のプラットホームでおしっこをしたのを覚えています。2歳半のときです。

 こうして加世田に疎開しましたが、ここでも空襲を受けました。家の近くに小さな川があり、そこで母が洗濯するのについていったときのことです。爆音がして、アメリカ軍の戦闘機が飛んで来た。母はとっさに私を家陰に連れていきタライをかぶせて上空から見えなくしました。1945年7月のことです。加世田は、近くに知覧・万世の特攻隊の基地があるところですから、安全とは言えない場所でした。まだ小さいですから恐怖は感じていないけど、その時のことは鮮明に覚えているんですよ。

 父は兵庫師範学校で地学を教えていましたが、戦時中は大隅半島の基地で通信兵をしていました。8月に戦争に負けて、9月になってから父が還ってきました。僕は家の道路脇で一人土をいじくって遊んでいたんです。そのときに声をかけられました。僕ははじめて父を認めました。父は乾パン(ビスケット)を持って帰ったので、甘味などまったくないそれを食べました。しかし、今思うと、どうして父は自分のことをわかったんだろう。2歳になるかならない時に別れたというのに。

 父は加世田にほんの少しの間いただけで、また神戸に帰っていきました。その後、私たち母子は1955年3月まで十年間、加世田に住みました。

──加世田時代の思い出をお聞かせいただけますか。
春成 まず、食べる物がなかったことです。敗戦後しばらくの間はほんとうに貧しい食生活でした。庭に植えたカボチャの実がなるのを待てず、イガイガの葉や茎、花まで食べる。黄色い花は卵の黄身だといって。小麦を粉にするときにできる皮の屑をフスマといいますが、それを食べるんです。しかし、カサカサで口にいれても喉を通りません。おなかを膨らませるだけで、人の栄養になるわけがありません。ほんとうに辛かったですね。我が家の食料事情がよくなったのは、私が小学校にはいったのち、本家から山の一部をもらって開墾、石コロだらけの畑で母がサツマ芋を作るようになってからです。

 母はそれまで鍬をもったことがなかったんですよ。小学校の高学年になってからは、ときどき母についていきました。何かの役に立ったという記憶はありませんが。小学校から帰ると、ふかした芋をザルにいれてあって、これを昼食べるようにと置手紙があったことをよく憶えています。私は母とサツマ芋に対する感謝の気持ちはつよいですね。

長ちゃんの家のクロと。1953年4月。

 次に思い出すのは、祖母にいじめられたことですね(笑)。可愛がってもらった記憶がまったくない。春成の家は元は士族で家老を務めたこともあり、祖母は気位が高かった。春成姓も、戦国時代に伊集院にあった春山城の城主だったことからとった、と江戸時代の文書に書いてあります。しかし、士族だといって偉そうな顔をしていても時代が変わると農業を始めることになる。祖母は夫を亡くし、長男も亡くしていましたので、父には地元に残って欲しかったんでしょう。けれども、父は中学生のときに桜島の噴火を経験して地質学の勉強をしたいという気持ちをもっていました。祖母は父が東京へ行くことに猛反対だったようですが、父は自分が受け継ぐ土地も財産も何もいらないから勉強させてくれと言って、加世田の家を捨てる覚悟で東京へ出たわけです。

 川辺中学から東京高等師範学校に進み、卒業後は藤岡や姫路で中学校の先生をして、やがて兵庫師範学校の先生になる。それで私は御影で生まれることになったわけです。

 それが戦争で非常事態だからといって、加世田に私たち母子5人が引っ越してきて、戦後に妹が生まれて6人になった。私たちは歓迎されざる家族だったのです。祖母には父の嫁として考えていた相手がいた。亡くなった長男の未亡人を父に嫁がせようとしていたんですね。当時はよくあった話です。けれども、父は教養のある人を嫁にしたかった。母は女子師範を出て、学校の先生をしていました。母の弟は、中島河太郎といってのちに日本推理作家協会理事長を務めた推理小説の評論家です。祖母は商家の出でした。江戸時代の身分で言えば「士農工商」の一番下にあたるわけです。祖父は奄美郡長まで務めましたが、出は神奈川県の百姓でした。明治時代になってから百年近く経つというのに、祖母は元士族というプライドだけで生きていて、最後まで母の出にこだわった。バカじゃないの? と言いたいけれども、どうしようもない話ですよ。

「士族の子が落ちているものを拾うとは」

──お祖母様はどんないじめかたをしたのでしょうか。
春成 私たちは本家の一部を切り離して造った小さな家で暮らしていました。本家の庭にボンタンの木があった。しかし、本家では実がいっぱいなっていても、それを採りません。当時4歳の僕は、枝から実をちぎることを遠慮して、下に落ちていた実を拾ったんです。それを祖母は遠くからじっと見ているのね。そして、僕には言わないで母に言うわけです。「士族の子が落ちているものを拾うとは何事だ」と。普通のおばあさんだったら、孫たちがいれば木になっている実をあげると思いますよね。私は人を憎むということを祖母から教えられました。
 祖母は、息子の父も嫁も孫たちも可愛くなく冷たかった。性格がひねくれてしまっていて孫たちは誰も近寄らず、血のつながりがあるとはまったく思ってもみませんでした。楽しい思い出がなにもないのは悲しいことです。でも、いまは自分の幼児体験を研究に活かそうと思っているのですよ。
 1991年に春成家の墓を一つにまとめて改装墓を作る前に、30基ほどの墓を発掘調査しましたが、その時に祖母の墓も掘ったんですよ。期待に反して(笑)、骨はごく一部残っていただけで、ドクロは残っていませんでした。祖母は生きていたら、「私の墓を暴くとは何事だ。無礼者は許さん、成敗してくれる」と言ったかもしれませんね。

──少年時代に夢中になったことは?
春成 山川惣治さん、小松崎茂さんなどの少年雑誌の絵物語の熱烈なファンでした。小学校3年から5年生の頃に、山川さんは「海のサブー」「少年王者」「荒野の少年」、小松崎さんは「宇宙王子」「空中の魔人」などを連載していました。冒険もの、SF的な科学もの、西部劇などですね。ゴリラやゾウ、ウマ、飛行機や軍艦、自動車などを細密に描いてあるんです。山川さんは紙芝居の出身で、半分は絵で半分は文章というスタイルを確立して、それを少年雑誌は継承したわけです。山川さんも小松崎さんも多作で、月に6本から8本くらい連載していたと思います。僕はそのすべてを読みたい。でも、全部を入手することはできませんから、友だちをたくさんつくって借りに行く。見せてくれるならどこまでも訪ねて行きました。

 大人になってから、二人とも知り合いになりました。私の家には二人の作品を飾ってありますよ。私は土器でも銅鐸でも細かい図を描くことにこだわっているのですが、それは山川さんと小松崎さんからうけた影響が大きいですね。

グラウンドから出てきた人骨

──考古学への関心の芽生えは?
春成 小学校5年生の時にグラウンドを作っていた際に壷に入った人骨が出てきました。その話を聞いて友だちと見に行ったんですね。ところが、休みの日で作業小屋にはカギが掛かっています。僕たちはどうしても人骨を見たいから、建物の壁と屋根の三角形の隙間から中に侵入したんです。大きな壷がありました。ところが、ドクロが丸ごとはいっていると期待していたのに、骨のカケラだけで、がっかりしましたね。古墳時代の初め頃のもので、再埋葬した人骨だったのでしょうね。

 その後、トロッコの線路を敷いて土取り工事をしていた時に弥生時代の終わり頃の土器が2個出て来たんです。どうしてもそれが欲しいので、「欲しい」と交渉してもらうことになった。一つは完全品で、もう一つは壊れていました。友だちとじゃんけんしたところ、僕は負けてしまって壊れたほうをもらうことになった。でも、完全品のほうもどうしても欲しいから、収集していた江戸時代の寛永通宝で買い取って自分のものにしました(笑)。この土器は明石に引っ越すことになった時に、鹿児島県立博物館に寄贈しましたので、今でも保管されているはずです。
──育った加世田を離れて明石に引っ越しするのは寂しくなかったですか。

春成 その時は、不思議なことに寂しいとは思わなかった。気になっていたのは、可愛がっていた犬のクロです。僕はよその家のクロとひどく仲が良かったんです。駅まで見送りにきて、僕が去ったあと、僕の家の床下に三日間いたそうです。それから、低学年の時に席が同じで親切にしてもらった女の子と別れることになったのも、本当に悲しかったことです。恥ずかしくて別れのあいさつを言えず、今なお悔やんでいることです。再会したのは20代後半になってからのことで、彼女は二児のやさしい母になっていましたね。

 加世田から鹿児島へ、そして明石に向かいました。加世田から汽車が出発した時に母が泣いていたんです。僕は子どもだから、また帰れるくらいに思っていたんですよ。でも、1955年という時代は、それは永遠の別れのようなものでした。加世田と明石は二度と帰ることができないくらいの遠い距離だったのです。それをわかっていなかったんですよ。僕は母を見て初めて別れの涙が出ました。

 今でも加世田時代の友だちと交流があります。突然電話が掛かって来て近況報告などをしてくるんです。当時は就職や進学で中学卒業時に加世田を離れる人が多かったから、僕も中学を卒業するまで友だちといっしょに加世田で過ごしたかった。進学予定だった中学の校歌まで覚えていたというのに。私が故郷や人を想う気持ちが強いのは、多感な時期に故郷を離れたせいだと思っています。一度誘われて、加世田中学校の還暦記念の同窓会に出席したところ、驚いたことに同窓会の名簿に僕の名前が載っているのですよ。1日も行っていないのに。

 

明石の海岸で化石採集に夢中に

──新天地の明石での暮らしはいかがでしたか?
すぐに馴染めましたか。
春成 明石に引っ越して、すぐに化石の採集に夢中になりました。明石の海岸には、象や鹿の化石を採集できるところがあるんです。

 中学の入学式の前に父に連れられて、地元の収集家であった桜井松次郎さんの家を訪ねました。桜井さんはその4年前に亡くなっていましたが、象の頭骨の化石を棚に並べていました。黒褐色の光沢をもち、ずっしりと重く、すぐに欲しくなりました。象は現在の日本には住んでいないのに、その化石は付近の海底から引き上げられたり、高さ十数メートルの断崖に埋まっていて、それを収集できるわけですから熱中しましたね。こういうことは本を読んで知っても、実物に触れる機会がないと興味は持続しません。

 私は、中学時代から収集した化石に「いつ、どこで」採集したかを墨で書いておきました。その記録がないと資料にならないからです。父は地学の先生でしたから、小学生のときに鉱山や海岸に連れて行ってもらったときに、そうするものだと教わったのですね。

 中学・高校生時代に強い影響を受けたのは、直良信夫先生です。直良さんは大分県臼杵の出身、東京から姫路、明石に転住してきた人でした。のちに早稲田大学の先生になりましたが、明石に住んでいた大正末年から昭和初年までの若いころは病気療養中の浪人でした。大学で考古学や古生物学を正規に学んだのではないアマチュアの研究者で、自分で遺物や化石を採集し遺跡を発掘し、あるいは所蔵者を訪ねて研究論文をまとめて発表していた人です。直良さんのような研究スタイルであれば、少年にも真似ができます。私は直良さんの後を追いかけていったようなものです。付近の海岸で動物化石を収集し、直良さんが調査報告した遺跡を訪ねて遺物を採集し、『日本哺乳動物史』『日本旧石器時代の研究』などの著作を読んで研究意欲をかきたてたものです。

 中学・高校時代を通じて集めた動物化石は、後に古生物学の長谷川善和さんに乞われて、国立科学博物館に寄贈しました。私のコレクションのなかの逸品は、シカマシフゾウという大型の鹿の角化石で、鹿児島大学の大塚裕之さんに研究してもらいましたが、象の臼歯化石などの研究はまだです。そこで、十年前に他の人が集めた標本もすべて総合して、「明石海岸の哺乳類化石の産状」という題で論文を書きました。これが私の中学時代の卒業論文です(笑)。

──当初は考古学よりも古生物に関心が高かったのですね。
春成 化石は収集するだけでは研究になりません。古生物学の専門家の指導をうけないと単なるコレクターであって、少しも面白くなりません。考古学の勉強は、中学2年生頃から始めました。直良さんの『近畿古代文化叢考』を読んでいるうちに縄文土器や石器の魅力にひかれ、今度は舞子にある大歳山遺跡などに通うようになります。そこで、より知識や専門家の教示を得やすかった考古学のほうに転向していったんです。中学3年生の時に、考古学研究会の会員になりました。

──ずいぶん早いですね。
春成 未だに最年少記録は破られていないと思いますよ。会員になると年4回の会誌が送られて来て、そこで最新の研究報告と他の雑誌の情報を得ることができます。

 考古学の世界では、姫路に住んでいた銀行員の今里幾次さんと交流がありました。仕事の合間を縫って資料の収集と研究をして、すばらしい業績をのこした方です。少々の大学の先生では勝てない、というより大学の先生と変わるところがないレベルの高さです。とにかく徹底的にやるんですね。姫路の自宅も何回か訪ねて行きました。私は『考古学雑誌』や『人類学雑誌』のバックナンバーを読みたかったんです。今里さんはみな揃えてもっていましたからね。私に「必要な文献はすべて手元に置いておきなさい」とアドバイスしてくれました。私にはわかりきっていたことですけどね(笑)。19歳の時に、私が明石で採集した縄文土器と彼が姫路で発掘した縄文土器を貸し借りしたこともあります。学術的に非常に貴重なものでしたが、まだこれからの少年によく貸してくれたなぁと今でも思います。私は同時期の両方を比較して、明石の土器の占める位置を知りたかったのですよ。

──考古学では民間の愛好者が果たした役割は大きいのですね。
春成 考古学の底辺は民間の研究者が形成しているんですね。アマチュアの人は、ときとしてはプロ以上に熱心ですよ。自分の関心だけでどこまでも突き進みますからね。

1962年2月19日の思い出

──将来のことを考え始める時期です。進学先はどのように決めたのですか。
春成 理想は戦前から日本で唯一考古学の専攻がある京都大学でしたが、小学生の頃から自分の好きなことしかやってきませんでしたから、学校の成績は悪かった。それから行きたかったのは、当時、無土器文化(旧石器時代)の研究を先頭に立って推進していた杉原荘介、芹沢長介という二枚看板の先生がおられた明治大学です。でも、東京に出て私立の大学に通う余裕は我が家にはありません。結局、京都大学ほど難しくなく授業料が安い国公立ということで、岡山大学の法文学部に進み、日本史を専攻することになりました。

──この時期に佐原真さん(元国立歴史民俗博物館館長)と知り合ったそうですね。
春成 京都の某私立大学の試験が早く終わったので京都大学の考古学教室を訪ねました。明石で採集した縄文土器と京都大学がもっている岡山県の貝塚出土土器をどうしても比較したかったんです。その想いを助手の横山浩一さんに話すとすぐに陳列館で見せてもらうことができました。一通り観察したあと、大学院生のいる部屋を通りかかったとき、新聞の写真で知っていた佐原さんがそこにいたんです。私が「明石で旧石器や縄文土器を採集しています」と言うと、佐原さんは「自分で判断するのはよくない。専門家が観たら単なる石コロかもしれない」と忠告されました。でも、私は専門誌の『石器時代』などを読んでいたので、旧石器だと確信していました。私は佐原さんが書いた代表的な論文は読んでいましたから、土器や銅鐸に詳しく、旧石器の研究はしていないことを知っていました。その分野では佐原さん以上の知識をもっていたと思いますよ(笑)。佐原さんが29歳、私は19歳のときです。のちに佐原さんにそのことを話すと、佐原さんは、「そのとき私はあなたに親切でしたか」と真剣な顔をして聞かれました。佐原さんはそういう人でした。

 隣室に小林行雄先生が小さな机の前にすわっておられたので、初めてお話しすることができました。小林先生が神戸に住んでおられた少年時代に採集した篠原遺跡の縄文土器を一見したいとお願いしたところ、一生懸命探していただきました。尊敬する偉大な先生でしたが、京大ではよい待遇をうけていないように見受けられ、寂しい思いをしましたね。

 1962年2月19日の忘れられない思い出です。私は日記を付けているから、何十年前の出来事も正確にわかるんですよ。

瓦礫か宝物かは本人の問題意識で決まる

──驚異の受験生でしたね(笑)。岡山大学時代に最初に参加した発掘調査は?
春成 香川県の喜兵衛島に古墳と製塩遺跡があって、古墳調査の手伝いに行きました。6世紀の遺跡です。自分が関心をもっている時代の遺跡ではありませんでした。ただただ暑くて、早く今日一日が終わらないかなあ、の毎日でした。私がこの遺跡について論文を書いたのは、それから46年後、2008年のことでした。参加した経験が活きたのです。結局、瓦礫か宝物かは本人の問題意識と研究が決めるんですね。もっとも最近は、瓦の研究にも手を出していますがね。

──そういうものなんですね。その後に進まれた九州大学の大学院はすぐに辞めていますね。
春成 学部4年生の時に岡山大学に考古学の専攻ができました。私は日本史専攻で卒業し、さらに考古学を学ぶために九州大学の大学院に進みました。けれども、6月末には退学することになります。岡山大学にできた考古学専攻に助手として採用するから「来てくれ」というわけです。九大の先生は、「この子はこれから育てようと思っているので」と反対でした。でも、私の父は戦後十年間の一人暮らしの無理がたたり、病気になって私が大学1年生の時に亡くなっていました。私が大学、大学院に進むことができたのは、父の退職金のお陰です。いわば、父の死と引き換えに私は勉強をつづけることができたのです。だから、給料をもらえるのならば就職したほうがいいと考えた。考古学を専攻したのは2カ月半ですから、私の学生時代は極端に短いんです。今はそんな経歴で助手に採用されるなんてあり得ませんね。

──給料をもらって大好きな考古学に没頭できる環境が得られたわけですから、ラッキーでしたね。
春成 本職ともなると、そうも言えませんね。私の人生を今になって振り返ってみると、岡山大学の助手、講師時代は辛いことが多かったですよ。発掘、発掘と授業に追われて、岡山時代に書いた論文は少なく、悔いがのこっています。国立歴史民俗博物館を定年退職してからは、その時間を取り戻そうとしているところがありますね。

 私の先生は、私が発掘品を洗ったり、図面を整理していたり、部屋の掃除をしていると機嫌がよい。しかし、助手と言っても教養部で授業をもっていました。明日、授業があるので、午後その準備をしていると、雷が落ちてきます。「研究室の仕事を最優先せよ」と言って叱られる。私が好きなことだけをやっているように見えるのですね。

 発掘する人、論文を書く人というように役割が決まっていて、私は自分が発掘して得た材料を使って論文を書くことはありませんでした。しかし、先生以外の人間も生きていかなければならない。いつまでもお手伝いさん扱いして使うことは、その人の生きる権利を奪っていることになりかねません。最近では、「パワ・ハラ」とか「アカ・ハラ(アカデミック・ハラスメント)」という言葉ができていますが……。「ふるさとは遠きにありて思うもの」と言うけど、偉い先生も遠くから仰ぎ見ているほうがよいことがあるんですよ。

箸墓古墳から出た吉備起源の真っ赤な埴輪

──学者の世界も厳しいですね。1967年に発表された論文「埴輪の起源」で一躍脚光を浴びることになります。

総社市宮山墳墓群出土の特殊器台(高さ94・2センチメートル)。

 1963年に岡山県総社市の宮山遺跡の発掘調査が行われました。私が大学2年生だったときのことです。調査が終わってから葺石の図を描く手伝いをしただけですが、宮山遺跡からは、壷を載せる台つまり器台が出土しました。それが特殊な形状なものだから「特殊器台」「特殊壷」と呼んでいます。宮山からの出土品も使って1967年に先生と二人で書いたのが「埴輪の起源」です。今年は2017年ですから、ちょうど50年経ちます。

 「埴輪の起源」はこの分野の研究者から古典扱いされるようになりましたが、私はそれで終わりたくない。資料は飛躍的に増えました。あの時に書いたことが50年後にどうなっているのかが、最近書いた論文です。しかし、1篇では終わりませんので、最終的には1冊の著書にまとめたいと思っています。

 50年前には、特殊器台から最古の埴輪にいたるまでの変遷を四つの型式にまとめました。いま取り組んでいるのは、遊び心も入れてその×10倍の40型式を設定する作業です。40型式あると弥生時代の終わりから古墳時代初めの細かな歴史の動きを追いかけることができます。

 宮山のすぐ後に奈良の箸墓古墳が築かれています。卑弥呼さんの墓の最有力候補ですが、この古墳から宮山に後続する型式の特殊器台と最古の埴輪が見つかっています。なぜ、吉備出自の土器が全長約280メートル、最古最大の前方後円墳にあるのか? 葬儀も終わった墓に、吉備起源の真っ赤な特殊器台と埴輪がシンボルとして残されている。大和にある墓だから、そこには大和のシンボルをおくはずですが、なぜ?

 それは埋葬されている人が吉備の出身だったからではないのか、というのが私の仮説です。箸墓の特殊器台は、胎土から判断すると吉備で作ったものではなく、吉備の人が大和に移動して作ったのでしょう。邪馬台国や卑弥呼の議論は長く続いていますが、九州説対近畿説が中心で、その途中に吉備が存在することをみんなは無視しています。しかし、このようなことを論じるにも、材料をきちんと揃えなければならない。私は中途半端な問題提起ではなくて、資料を徹底的に集めて、この研究を無視してはこの議論はできないというものをまとめたい、と思っているのですよ。

──四つにまとめていた特殊器台・埴輪の型式を40にまで増やすというのは意欲的ですね。
春成 奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長を務めていた難波洋三さんと話した時に彼が言っていたのだけど、「自分が研究した後には、ペンペン草も生えてこないように徹底的な研究をしたい」と。いや、私も同じことを言っているのですよ、と話して、2人で笑ったことがあります。つまり100の資料があるならば、100すべての実物を調査し分析して考えをまとめるということです。私も一部の資料だけを扱って恣意的な解釈はしたくありません。そういうことで、資料が500点を超えるような研究対象については、私はあまり手をださないことにしています。

 難波さんは銅鐸の型式、変遷、産地などの研究をしていますが、私は銅鐸に描いてある絵、土器や木製品に描いてある絵を研究対象にしています。銅鐸はこれまでに約600点見つかっていますが、1点1点拓本をとり図を描いていくと途方もない時間がかかります。1点描くのに1、2日ではすまない。それから、どこでも超のつく貴重品扱いをしているので、調査させてもらう手続きも大変です。簡単に「どうぞどうぞ」とはならないのです。

弥生人が銅鐸の絵に込めた想い

──気の遠くなるような作業ですね。弥生人は銅鐸の絵にどんな想いを込めたのでしょうか?
春成 モチーフとしては、鹿と鳥と人がもっとも多いです。それ以外も描いていますが、それらは端役であって、主役はこの三者です。この中で人の絵は祖先を象徴しているのでしょう。鹿は一番の特徴と言えば、オスには生える角です。ニホンジカの角は毎年、春に生え始めて、秋には立派に成長して次の年の2月頃にポロっと落ちる。そして、またすぐ生えてくるというサイクルをもっています。一年単位で生え変わる。これは稲の成長と同じですね。春に蒔いて、秋に稔って収穫する。弥生時代の人たちは、鹿の角と稲の成長を重ねて考えた。そうすると、角は稲のシンボルです。ところが、銅鐸に鹿の絵を描く時はわざと角を描かずに鹿の身体だけを描いている。鹿の身体が土地で角が稲というわけでしょう。これが、土地の精霊としての鹿を描く理由だと思います。

 最後の鳥ですが、銅鐸に描いている鳥がサギであるのかツルであるのかという議論は長く行われてきました。描いてある絵と実際のサギ、ツルを比較したいと思って、私は上野動物園にも行ったんですよ。でも、判断できなかった。ツルについては神話が残っています。ツルが稲の穂をくわえて飛んできて、村人の前に落とす。それを拾って、蒔いたところお米ができたという話です。そこで、ツルは穂落とし神であって、銅鐸に描いてある鳥はツルだと私は思いました。

 ところが、くちばしに魚をくわえている鳥の絵があります。そこで、ツルは草食で魚を食べないけれども、サギは雑食で魚を食べる。その説が出されたので、私は白旗を挙げて降参しました。

 これで解決したと思ったのですが、今度は鳥の専門家が私たちの議論に加わってきた。彼女が言うには、絵のなかにはどう見てもツルがいる。銅鐸にはツルもサギも描いている、と両者に花を添えてくれるような説を出してくれました。ところが、さらに第三の説、コウノトリ説がでてきました。大阪の弥生時代の水田の跡を発掘したところ、鳥の足跡が見つかりました。そこに石膏を流し込んで跡型をとっていたので、鳥の専門家に見せたところ、指の開き方からコウノトリだと言うんです。今の日本ではコウノトリはあまり見ることができないので、私たちはコウノトリを除外して考えていたんですね。コウノトリ説の人は、サギでもツルでもなく、絶対にコウノトリだけだと主張しましたが、私はツルもサギもコウノトリもあるかもしれないくらいに最近は思っています。いずれもからね。サギは水田で見かけるといつも真っ白ですっくと立って神々しい姿をしています。それが水田にいると守り神のように見えますのでね。

 鹿と鳥は土地と稲を象徴的にあらわし、そこに自分たちの祖先もいる。銅鐸は稲の祭りで鳴らして、金属の音と、金属の光で稲作の神つまり稲と土地の神と祖先神を招くのです。しかし、実際に銅鐸を鳴らしても神が近寄って来るわけではないから、鳥や鹿、そして祖先に扮した人が祭りの場に登場するのでしょうね。銅鐸はこういうものだと考えています。

──縄文人が農作物を栽培していたという説もありますね。

大英博物館での銅板の調査終了後に。(2014年4月)。


春成 考古学では物的な証拠がなければそうとは言えないし、小さなことでも証拠があれば議論になります。米や豆のような主食になるようなものはないんですよ。エゴマや紫蘇を栽培していたという説もあります。でも、これではお腹が膨らまない。縄文人は種を蒔かずとも芽が出てきて大きくなるくらいはわかったでしょう。

 一時期、稲のプラントオパールが注目されたこともありました。これはイネ科植物の葉や茎に含まれる植物ケイ酸体の化石です。ガラス質で火を受けても残っている。それが地層や土器のなかに含まれていると言います。それを調べていくと稲作の起源が縄文中期、前期とどんどん遡って、一万年前に近づいていきます。そこまでいくと「本当か?」「どういう道具を使って稲を作る?」という疑問がわいてきます。道具は出てこないのに、稲のプラントオパールだけは遡っていく。結局、新しい時代のものが上から浸透していったんじゃないか? と最近は多くの人が懐疑的になっていますね……。

 確実なのは、土器についている稲籾の圧痕ですね。それをよると、稲作の起源は、弥生時代が始まる直前、縄文時代晩期の後半で、今から3000年前よりのちのことのようです。

抜歯の風習から見えた弥生人の差別意識

──縄文時代から弥生時代へと移行するにあたって、社会はどのように変わったとお考えですか。
春成 稲作を始める頃の日本列島には当然、縄文人の子孫つまり在来人がいます。そこに稲作技術をもった「渡来人」あるいは二世三世になってくると外来人と言ったほうがよくなりますが、彼らがやって来ます。私の長い間の関心は、在来人は外来人をスムーズに受け入れたのか? 在来人が渡来人を集落に招き入れたのだろうか? あるいは渡来人が在来人の集落に入れて欲しいと頼み込んだのだろうか? といったことでした。

 山口県の土井ヶ浜遺跡という弥生時代の墓地からは300体あまりの人骨が発掘されています。頭骨や四肢骨を調べてみると、高顔高身長の人ばかりで、みな混血しているようです。低顔低身長の在来人の人骨は、土井ヶ浜では1体だけです。文化的に見ても、渡来系の文化がそのまま入っているという状況ではない。縄文文化と混じり合って弥生文化を生成しているのですね。渡来人だけで作った集落はまだ見つかっていないのです。

 ところが、発掘された人骨をみると抜歯の仕方に違いがあります。それが1973年に私が書いた「抜歯の意義」です。それから、40年以上抜歯の研究を続けています。人骨を一体一体調査すると、面つきは同じなのに抜いている歯が違う二つのグループにわけることができる。上顎の犬歯を2本あるいは1本抜いているグループと、上顎の側切歯を抜いているグループです。側切歯を抜くのは大陸系の風習で、中国に起源があります。上顎の犬歯を抜くのは、在来系で縄文人に起源があります。しかし、二つのグループの顔つきは同じ渡来系です。

 墓に注目すると、手厚く埋葬されているのは、在来系の抜歯をしたグループです。アクセサリーを身につけ、石棺に埋葬されているのはたいてい女性です。渡来系の人たちの墓は簡素で、アクセサリーをもっていない。

 それをどう解釈するか? この社会では女性が上位にいる母系的な社会構成だったのではないか。そして、在来人が社会の上位にいて、渡来系の人たちはその下位に置かれていた。渡来系の人たちは、同じ場所に留まっていたわけではなく、列島各地に散らばり、混血も進んで新しい世代も生まれていった。しかし、口を開けると、「あなたの母方の祖先は他所から来た人」とわかるように、抜歯で区別していたように思うのです。それは区別ではなく、差別です。抜歯の機能は、「区別する」から「差別する」に変わったかもしれない、と私はいま考えつつあるところです。

──弥生時代から差別は存在していたと。
春成 ええ、人の集団を二つにわけること、区別することは差別に結びつきます。差別の意識があれば、それは行動につながる。それが抜歯の風習、埋葬の仕方に見てとれるわけです。日本列島では、他所から来た人たちを差別する観念が弥生時代に存在した可能性があります。

 従来この渡来人と在来人の出会いについて、教科書的には、朝鮮半島から新しい稲作の技術を身につけた人たちがやってきて、縄文人が稲作を始めて、狩猟採集の時代から農耕の時代に移りました。めでたし、めでたし…。というような太平極楽のイメージで語られることが多かった。けれども、渡来系の人たちは他所から新しい優れた技術をもちこんだ人たちとして尊敬されていたかどうか、これから検討すべきことです。技術はいただく、しかし社会の上位におかないということだったかもしれません。その土地の人たちの対抗意識が、当時あったかもしれない、と思いますね。

 今日の日本をみても、ヘイト・スピーチに代表されるように民族差別が存在します。「朝鮮人は帰れ」と言うけど、強制的に連行されてきた人たちも多いわけですよ。その歴史を無視してか知らずにか、そういうことを平気で言う。でも、古い時代にも似たようなことはいっぱいあったかもしれない。アメリカの新しい大統領はメキシコとの国境に壁を建設すると主張していますが、私には弥生時代と現代がオーバーラップしているように感じるところがありますね。人間は弥生時代の頃からどれだけ進歩しているのでしょうか。

資料は山のようにある

──抜歯の型式から差別の実態を考えるという発想は興味深いです。
春成 私が抱いたような疑問を日本の考古学では検証する努力を十分にはらってきていないんですよ。縄文から弥生への移行は、在来人が渡来系あるいは外来系の人と喧嘩もせずに受け入れて仲良くやってきたかのように語られますが、それは証明できているわけではありません。研究者ならば、こういうところにも新しい課題を見つけ出して追究すべきだと思います。しかし、こういう研究は資料にもとづいて具体的に問題を提起しないと、通説に簡単に流されてしまいます。新しい発見のような外的な刺激があって初めて気づくというのであれば、少し情けない。資料は山のようにあるのですから、新しい課題を自ら引き出して追究しようという気迫が必要だと思います。

──何事も徹底して調査したいというお話でしたが、天皇陵をはじめ発掘されていない遺跡は数多くあります。手付かずでいる状態に欲求不満を感じることはないのですか。
春成 今時の発掘調査は容易じゃないですよ。全長30メートルの古墳であっても、たいへんです。たとえば、全長280メートルある箸墓古墳を周辺部も含めて掘るとなると100年の大計をもって臨まなければいけません。ちょっと掘るだけでは済みません。やるとすれば、無期限で取り組まなければならない。その覚悟があるのか。予算が切れたから中止というような、そんな中途半端な事業はあり得ません。しかし、今の日本ではそんな体制はつくれないでしょう。

 だから、私は天皇陵の発掘が実現する可能性については悲観的ですね。今の日本では到底望めませんから、私はあまり考えたくありません。

北アメリカの先住民の銅板の全てを図に描く

図に描かれたハイダ族の銅板。

──弥生時代の細かな情報はどんどん蓄積されているわけですから、先生の頭のなかではその時代の人たちの暮らしが映画のように動きをもって再生されているのでしょうか?
春成 それはないです。僕は部分しかやってきていないんですよ。ある特定の部分に強い関心をもってやってきたけれども、全体像を描こうとしてこなかった。だから家内にはいつもバカにされていますよ。「旧石器、縄文、弥生、古墳と全部やっているけどあなたは通史を書いていない」って。でも、それを書くためには個別にあれもこれもやらないといけない。この部分は誰それの考えで埋めようということが僕はできないのです。いつかは通史を書きたいという思いはあります。だけど、それは実現しないでしょうね。

 僕がいままとめようと準備しているのは、海外では中国東北部・朝鮮半島の青銅器、ヨーロッパ・ロシアの旧石器時代の女性小像で、それから北アメリカ北西海岸の先住民の銅板を調べています。

 近々出版される著書は、『始原のヴィーナス─旧石器時代の女性象徴─』で、世界の女性小像を98%まで図示して、それに考察をつけています。北アメリカの銅板は、先住民たちにとって富と威信の至高の象徴とされ、その研究は100年以上の歴史がありますが、銅板そのものを対象にした研究はないんです。約400点のこっている銅板のうち200点余りの実測図を作成しました。オタワにあるカナダ人類博物館にも通いましたが、そこの人類部長が私に質問するのです。「どういう国家プロジェクトですか?」と。「いや、一人でやっているのですよ」と答えると、怪訝な顔をしていました。でも僕の仕事を認めてくれて、事前に見たい銅板をリストアップしてメールで送ると、5分後には担当の女性から快諾の返事があり、調査に行くと全部机の上に出してくれています。モスト・ウェルカム、熱烈歓迎ですよ。ニューヨークの自然史博物館では、「朝、開館前に来てください」と言われ、展示ケース内に頑丈な金具で留めてあるハイダ族の銅板を取り外してもらって図を描きました。日本でいうと国宝級の銅板です。

 僕は300点以上を図にして、民族ごとに分けて年代順に並べて、その意義を考えたいんです。2カ月間アメリカとカナダを周遊すれば、あと数十点描けると思っているので、今年の秋に行けないかなあと思っているのですがね。こんなことは欧米の誰もやりません。しかし、せっかくの苦労もまとめて発表しないと意味がありません。ワシントン大学かブリティッシュコロンビア大学あたりの出版部から発表するのが理想ですが。あちこちでうけた厚意には結果でこたえなければならない、そう思っています。

少年時代に還る

──200歳くらい寿命が必要ですね。
春成 「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言いますが、僕は欲が深いので十兎を得たいのですよ。いろいろな研究者の過去の論文を読むと、「あのころが一番良かった」とピークがわかってしまう。50歳を過ぎた頃から、調査に出かけなくなり、アイデアも枯れて新鮮味に乏しいことを繰り返し書く人がいます。僕はそうはなりたくない。新しいテーマに取り組み、確かなことを書くことに専念したいんです。オリジナリティの高い研究をつづけることが研究者のあるべき姿だと思っていますから。

 定年でやめてからは、研究費はありませんし、仕事をしても私のような基礎的な研究をしているかぎりお金が戻ってくることはありません。甲斐性がないと言えば、それだけのことですが。調査に出かけるにも著書を出すにもお金が必要で、成果を出そうとすればするほど出費がかさむことになる。でも、そんなことは言っておれません。やり残した仕事はきちんとやっておきたい。中・高校生の頃は勝手に興味をもってやっていただけであって、誰かに強制されたわけではありません。シャーロック・ホームズは、面白い事件に遭遇してそれを解決するのが報酬と言っていましたが、いまの僕は同じ気持ちですね。「仕事が報酬だ」と。そういう意味では、僕はまた少年時代に還ったのかもしれません。
──ありがとうございました。

ご経歴
はるなり ひでじ:1942年神戸市生まれ。岡山大学法文学部卒、九州大学大学院文学研究科(考古学専攻)中途退学。岡山大学助手・講師、文化庁文化財調査官、国立歴史民俗博物館考古研究部助教授、同教授、同考古研究部長などを歴任。文学博士。国立歴史民俗博物館および総合研究大学院大学名誉教授。著書に『弥生時代の始まり』『縄文社会論究』『考古学者はどう生きたか─考古学と社会』など。
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