「共かせぎの人生設計」に記された進歩的な子育て観

 神野 嘉子さんの話でいうと、男性と女性の対等性を考えた時に、キャリアへの意識だけでなく経済的な対等性という意識がとても強いです。終戦後の経済的に苦しい時代の経験が背景にあるのだろうと思いますが、嘉子さんは女性たちが自分で経済力を上げて男性と並ぶことによって、ようやく男女関係ない人間というくくりができ上ると考えていたのではないでしょうか。

 大庭 嘉子さんのおっしゃること、個人的には大変共感します。

 私個人としては、かなり若い頃から、経済的に自立することの重要性を考えていましたが、少なくとも当時の日本では主流の考え方ではありませんでした。雇用機会均等法ができてから数年経ち、女性が働く道筋はついていましたが、それでも、女性はいつかは結婚をして、子どもを産み、専業主婦になることがモデルコースと認識されていた時代だったと思います。私の時代ですら、女性の経済的自立が社会の本音の部分ではあまり重要視されていなかったのなら、嘉子さんの時代はもっと軽視されていたはずです。そんな中でも、女性が経済力をつけることの大切さを、とても強い意志で主張されていた嘉子さんは、非常に先見の明がある方だなと思います。

 他方で、専業主婦になった友人からは、「両方ともフルタイムで働いたら子どもはどうするのか」と問いかけられることもありました。女性が家庭を築き、かつ経済的自立をめざすとき、子育てをどうするか、という課題は、共働きしつつ子どもを育てるカップルが増えている今、いっそう避けては通れない課題なのだろうと思います。

 神野 嘉子さんの場合は、いろいろな方の協力のもとで子育てをされていました。子どもが生まれた直後は自身の両親と、終戦後は弟家族と暮らしながら、子育てを手伝ってもらっています。さらに、1952年に名古屋地方裁判所に転勤になったときは、母一人子一人の生活となりますが、お手伝いさんを雇って、家のことは基本的に任せていました。

 大庭 嘉子さんは、当時としてはあまりない家族観、子育て観を持っていましたよね。

 神野 そうですね。1959年に嘉子さんが雑誌『婦人と年少者』に載せた「共かせぎの人生設計」という文章では、「職業をもつ母がその仕事のために子の世話を他人に助けて貰う必要のあるのはいうまでもなく、そのために母親としての愛情に欠けると悩む必要はないと思います」「いつか子供が大きくなったとき、母親が人間として尊敬できるならば、きっと子供はそんな母親の生き方を理解してくれるでしょう」という言葉を残しています。

 大庭 今の日本社会はまだ「母親は子どものそばにずっとついていなくてはいけない」という圧が強い印象があります。女性自身がそうしなくてはいけないと考えている側面もあります。また、子どもを預けて働く女性に対して「子どもがかわいそうだ」という言葉を投げかける人も未だ少なくないようです。

 この母親への圧は嘉子さんが子育てをしていた1950年代もあったのでしょう。それに対して彼女は「それをやっていたら女性は働けない」とおっしゃったのだと思います。この問題はとても難しくて、すべての人にとっての正解はありません。ただ、「母親は子どもの傍にいるべきだ」という考え方に縛られる中では、女性が自身の経済的自立に繋がるようなキャリアを築くことは、物理的に家にいても可能な仕事など、かなり職業を選ばないと難しいだろうなと思います。

 この圧力が根強く残る今の日本社会で、嘉子さんが考えるような選択は中々できません。これからの日本に必要なのは、単なる子育て支援ではなくて、子育てをしながらでもキャリアを途切れさせない仕組みをつくることだと思います。

 神野 おっしゃる通りです。

 一つ付け加えますと、とはいえ嘉子さん自身も、仕事と子育ての両立について、かなり考えが揺れている部分もあったようです。

 「共稼ぎの人生設計」では、おそらく自身がそう生きてきたという自負もあって、先ほど申し上げたようなことを書かれていますが、亡くなる直前の1983年には、「日本の現状で女性の自立と、育児の責任とが両立できなくなったら、私は育児の為には女性は自分の自立を少し先に延ばす他ないと思います。子供にそのつけをまわすわけにはいきません」ともおっしゃっているのです。

 大庭 やはりここが難しいですよね。ただ、これは1983年の話ですよね。そこから40年以上たった今は、嘉子さんが生きた時代の先を行っていなくてはいけないはずです。ここを土台に今の時代に合う女性の働き方、子育ての仕方を考えなくてはいけませんよね。

 神野 おっしゃる通りで、だからこそ「虎に翼」を、三淵嘉子さんの人生通りに描いても、ドラマとしてあまり意味がないだろうと思うのです。やはり今のテーマ、今の観点を入れていかないと、「昔はそうだったんだね」で終わってしまいますから。魅力的なモデルの人生に現代的テーマが入れられることで、今の時代に放送する意味が生まれるのだと思います。

 

女性はいつから「無能力者」だったのか?

 大庭 本日の対談で中世法制史を研究される神野先生に伺いしたいと思っていたのが、時代を超える法の普遍的な要素はどの程度存在するのかという点です。というのも、「虎に翼」でも描かれていますが、戦前の家族法と今の法律は大きく異なります。例をあげると、戦前の家族法では女性は結婚すると無能力者になってしまい、完全に家長の下につき、財産も何も所有することが許されないなどです。そして、この法律の存在には、それを支える法規範が存在すると思います。

 さらにそこからもっと視野を広げると、それを支える日本における家族のあり方という社会規範が存在します。これは時代とともに変化してきたのか、それとも時代を超えて変わらず受け継がれているものなのか。

 今の日本社会を批判する人の一部は、「昔の日本は家制度があることで秩序が維持されていたのに、戦後になってそれが壊されることで、個人主義が広がり多くの国民がわがままになった。だから日本国憲法はよろしくない」という議論を展開します。しかし、私が知っている限りでは、日本においてもある時期までは女性にも財産権がありました。

 例えば、足利義政の御台所であった日野富子は、様々な手段で蓄財し、その銭を応仁の乱の際に様々な大名に貸し付けるなどして莫大な資産を築いています。つまり、日本における女性の地位は一貫してずっと低かったというわけではなく、時代ごとに変化してきたし、また社会階層ごと、地域毎に大きく異なっていたと考えられます。神野先生のご専門の中世だと女性の地位はどのようなものだったのでしょうか。

 神野 鎌倉時代の女性の地位は決して低くありません。御家人の家では、女性も財産相続の対象でしたし、地頭になることもありました。面白い史料としては、「極楽寺殿御消息」という、北条重時の家訓がありまして(重時は六波羅探題などを務めた鎌倉時代の武将で、「六波羅殿御家訓」という家訓も残しています)、「妻子が意見を言う時はよく聞くように」「女性や子供だからと言ってばかにしてはいけない」と書かれています。

 ただし、これには続きがありまして、妻子が道理を言った時には取り入れて「これからもなんでも聞かせてね」と言いなさい、もし少し変なことを言ったような時には「女子どもの言うことだと思いなさい」というような内容なのですが……

 大庭 少しイラっとしますね(笑)。しかし、面白いですね。こうしたかたちであっても女性の意見を一応尊重する、というのは、当時よく見られる例なのですか?

 神野 そうですね。おそらく北条重時の家訓が特殊なのではなくて、当時の武士の家庭として一般的な考え方だったのではないでしょうか。

 この家訓はとても面白くて、読んでいくと鎌倉御家人の意識がよくわかります。「扇は安い物を使え」とか、「旅行に行く時は人夫に重い物を持たせるな」とかですね(笑)。ただ、このような鎌倉時代の武士たちの意識を見ていく限り、女性の地位は低くないし、財産相続の面で女性が大きな発言力を持つ場合もありました。

 大庭 扇子……結構細かいですね(笑)。財産相続で母親が発言力を持っていたということ、そういう法規範が日本において史実として存在したことを、もっと広く知られていいと思います。戦前の家族法で一番驚くべき点は、先ほども言いましたが、女性は財産も持てない法律的には無能力者であると規定されていたことです。しかし、中世法では女性は必ずしもそうした扱いではなかったということですね。

 神野 そうですね。先生にお尋ねいただいた、時代を超えた普遍性という点で言うと、ある程度の小さな規模の「団体(集団)」を意識した社会構成である、という点は言えると思います。

 大庭 個人が社会をつくるのではなく、小さな団体が社会をつくるということですね。

 神野 明治時代にできた、男性の「戸主」といういわば絶対的な存在を中心とする家制度は、江戸時代の旧武士層の家の影響が大きいと思います。一方で、江戸時代の都市でも村落でも、もっと柔軟に集団を構築していて、例えば女性が戸主となることもありました。地域ごとの慣習の影響も強くて、どの地域に住んでいるかで従っている慣習が異なり、現実的な生活も違っていたはずです。なので、明治期以降の家制度を日本の伝統だというのは、やはり少し違っていると思います。

 大庭 史実からすればそうですよね。よって戦前の家族法における家制度やそこでの女性の扱いが、日本社会に一貫して存在した伝統を体現しているとはとても言えないでしょう。しかし、非常に粗雑な議論だと思いますが、日本国憲法によって日本の伝統が壊されたと主張する憲法悪玉論を唱える人もいるんですよね。

 神野 私は三浦周行(京都帝国大学文科大学教授として、近代的な日本史学・法制史学の発展に力を注いだ)という、明治時代の法制史学者の研究もしているのですが、彼が歴史について、「昔からの法があるのだ、慣習があるのだと言って、それらを楯にして対象を攻撃する者がいる。逆に、それらを根拠にして弁護するものもいる。両方とも要領を得なくて、勝手に思い込んだ歴史を都合よく根拠にするのは良くないから、きちんと歴史の研究をしなくてはいけないのだ」と書いています。まさに大庭先生がおっしゃるような憲法悪玉論は、都合よく歴史を楯にしていると思います。

民法改正後も根強く残る社会規範

 大庭 それにしても、これだけ劇的に家族法が変わると、これが人々の意識の部分まで変化をもたらすのには相当な時間がかかりますよね。

 神野 そうですね。尊属殺重罰規定違憲判決という、1973年の重要な判例があります。日本で初めて、最高裁が法令違憲判決を出したものですが、この判決には人々の意識が簡単には変わらないことを表すような背景がありました。

 よく知られた事件ですが、非常に悲劇的な話で、14歳の頃から継続して実の父親から性的関係を強いられ、子どもを出産し、夫婦同然の生活をさせられていたという女性が父親を殺す事件です。当時、刑法二〇〇条では「自己又は配偶者の直系尊属を殺したる者は死刑又は無期懲役に処す」と定められ、普通殺人と区別されていました。刑法の条文の中には、新憲法に合わせて改正されたものも多くあるのですが、刑法二〇〇条はそのまま戦後も残っていました。そのため、普通殺人より重い刑がこの女性に求刑されることとなります。

 最高裁では刑法二〇〇条は違憲と判断されたわけですが、ただ、ここで重要な点は、最高裁の多数意見は、「被害者が尊属である場合に刑を加重することは、尊属への尊重という道義を前提にして不合理とはいえず、しかし、刑罰の加重の程度が極端に大きいことが不合理な差別で、法の下の平等に反している」としていることです。家制度がなくなっても、親というものが尊重されるべき存在で、それが普遍的で道徳的な規範だという意識が根強く残っていたことの表れだと思います。

 1973年の判決ですから、日本国憲法の制定から30年以上経っていますが、人々の──少なくとも最高裁判事たちの──意識が大きく変わるというところまではいっていなかったのだと考えます。法学の観点から個人的に思うことを言うと、憲法訴訟のような社会的に大きなインパクトをあたえる判例がないと、なかなか大きな意識変化は起きないのでは、という気がします。

 大庭 とはいえ、建前が変わるということは重要ですよね。これまでとは違った判例が生まれること自体が、それ以降の裁判に大きな影響を与えますし、社会に与えるインパクトも大きい。

 そうしますと、中世の時代から現在まで俯瞰してみた時に、女性や家族というものに対する建前や規範を変化させた判例、または社会の変化を反映した判例はありますか?

 神野 判例そのものではなくて、最高裁判決なども踏まえての民法改正ということになりますが、今年4月に施行された再婚禁止期間の廃止などは、女性の権利と家族のあり方の変化を反映したものではないでしょうか。

 そもそも、再婚禁止期間とは、民法七三三条一項で定められていた、女性だけ再婚できない期間を指しています。離婚してすぐに再婚し子どもができた場合、子どもの父親が前の夫なのか新しい夫なのかが不明確になってしまうので、そのことを避ける目的で設けられたとされていました。

 そもそものこの民法の規定の問題点は、女性は結婚をしたら子どもを産むということが前提にあった点だと私は思っています。家族のあり方が多様になっている今の時代とは、あまりにも乖離していますよね。この家族観が多様になった今の社会意識が、再婚禁止期間の撤廃に繋がってきたのではないでしょうか。

 婚外子の財産相続分を婚内子と同じにした民法改正も、最高裁判決を受けてのものですが、同様に結婚観や家族観の社会的な変化を受けていますよね。これは、日本社会の変化だけでなく、海外の判例にも影響されているので、国際社会を意識した改正だと思います。

 大庭 男女問わず自由と平等を享受し得るフェアな社会の実現を考える時、二つの観点が大切だと思っているんです。一つは、嘉子さんも大事にされていた経済的自立という観点。男性にとっても女性にとっても、経済的自立は重要だと考えます。もう一つは、社会的規範が、男女の役割分担を強く規定し、それを押しつけるようなものとなっていないことです。憲法では男女平等が定められていますが、社会規範が現実社会での平等の障害となっている場合が多いと思うのです。そして、何がこの規範を変えるのかと言うと、やはり法律の力は大きいですよね。

 神野 先生から、法律と判例が社会規範を変えるというお話がでましたが、私から一つ付け加えるとすると、最高裁判所がもっと社会的にインパクトのある判例を出すべきだと個人的には思っています。

 日本の最高裁判所はおとなしくて、社会の変化をかなり慎重に後追いしている印象で、実際に法令違憲の判決も少ないです。しかし、最高裁判所は、マイノリティに光を当てて、マジョリティの声にもある程度のブレーキをかけ、また逆に自らアクセルを踏みながら社会の変化を推し進める役割を担っても良いと思うのです。

 大庭 やはり最高裁判所は今までの建前を大きく変える判例を出すことに慎重なのですね。

 私個人の関心で言うと、選択的夫婦別姓は一刻も早く導入して欲しいと思っています。夫婦間で同姓を強要されることは不利益でしかないので。しかし、これを言うと「個人のわがままだ」と批判する人がいまだに根強くいますよね。ただ、これは地域や世代によって意識がかなり違うので、導入までもう少しかなという気もします……

 神野 そうですね。地域や世代と言うと、最高裁判所にももっと多様なバックグラウンドを持つ裁判官がいるべきだと考えます。現在の最高裁判所裁判官は、男性が12人で女性が3人という状況です。ここ数年女性が2人の状況が続いていたので、ようやく久しぶりに3人になったのですが、まだまだここは改善すべき余地があると感じています。

 大庭 おっしゃる通りです。

寅子の人生は今の社会を映す鏡

 大庭 この対談をしている今は、ちょうどドラマの折り返し地点ですので、今後の展開がどうなっていくのかはわかりません。しかし、三淵嘉子さんが「戦後の法曹の歴史および女性法曹の歴史そのものだ」という言葉を残したということは、彼女が非常に強い自負心があったことの表れですね。

 ただ、彼女の人生は1984年で幕を閉じています。そこから今年で40年が経っています。それだけの年月が経って、先ほど述べたように日本社会が大きく変化した部分もある。また脚本家の吉田さんが、現代的要素をうまく組み入れる巧みなアレンジをなさっているということもある。とはいえ、昭和の時代を生きた三淵嘉子さんをモデルにした寅子の物語を、まったくの昔話としてかたづけてしまえない。寅子の奮闘に、今の私たちが共感できてしまうこと自体が問題だと言えるかもしれません。彼女の人生が日本社会の現状を映しているというわけです。

 神野 現実問題、いまだに法曹界の女性の割合は3割にも満たないです。裁判官も検察官も弁護士も。法学部の女性比率もまだまだ高くありません。

 大庭 私の大学の法学部も、女子は3割ほどです。

 神野 やはりそうですよね。ロースクール(法科大学院)も同じような状況だと思います。ロースクールも法学部も女性が受からないわけでは当然なくて、そもそも法学を志す女性の比率が低い状況です。なので、三淵嘉子さんのように魅力的な人生を生きた女性法曹がいたということが「虎に翼」で描かれ、それが一つの刺激になればいいなと感じています。

 大庭 そうですね。それを期待したいところです。

(終)

 

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事