『公研』2021年10月号「めいん・すとりいと」

小川さやか

 私は、文化人類学の調査のために20年以上前からタンザニアに通い、調査期間中は自身で借りるか、調査助手の家族と一緒に長屋で暮らしていた。辺鄙な場所の電気のない土壁の長屋から都心近くの電気の通ったコンクリート建ての長屋まで暮らしたが、ムワンザ市のニャマノロ地区で調査助手の家族と暮らした長屋は、ひどい状態だった。6世帯で共有のトイレのドアは朽ち果て、玄関口の階段は崩れ落ち、雨漏りもひどかった。しかし住民たちが何度訴えても、他県在住の大家は「そのうち見に行く」と言うばかりで、結局、年間の家賃を前払いした最初に会ったきり、一度も姿を見せなかった。

 大雨の日、家中のバケツや鍋を集めてしのいでいると、向かいの部屋の住民ジュマが「俺が修理してあげる」と訪ねてきた。彼はどこからか建材を集めてきて、長屋中のトタン屋根を修理し、ついでに共有トイレのドアや階段も直してくれた。ジュマは当時、自転車の修理工をしていたが、昔は大工の棟梁をしていたそうだ。彼は、筋骨隆々のいかつい体型で強面だったが、重い荷物を運んでくれたり、子どもたちの玩具を手づくりしてくれたりする親切な人で、長屋の住民からは「力持ち」という愛称で呼ばれて慕われていた。

 ある日の夕方、付近の長屋に強盗が入ったという知らせを隣人から聞いた。その日の夜、警官たちがやってきて各部屋のドアを乱暴に叩き、強盗を探して回っていた。向かいのジュマが扉を開けると、警官は突然にジュマの腕をねじりあげてそのまま連行しようとした。騒ぎを聞きつけた長屋の住民たちは部屋から出てきて、ジュマを連れていくのはおかしいと口々に叫び始めた。結局、ひとりの女性が、強盗が起きた時刻にジュマに木炭の袋を運んでもらっていたと証言し、警官は帰っていった。

 後にその時に証言をした隣家の女性から、ジュマには、若い頃に妻の浮気相手に障害を負わせた罪で刑務所に収監された過去があることを聞いた。私が驚いていると、彼女は「長屋の住民たちは噂話が好きだから、過去の犯罪を隠して暮らすことは難しい。警官たちは誰かからジュマが刑務所にいたことを聞きつけたに違いない」と語った。

 私が「ジュマにアリバイがあって良かったね」と言うと、「あんなの嘘よ」と彼女は涼しい顔をして説明した。「私たちはジュマの過去の事件を知っているけれど、ジュマが強盗をしないことも知っている。今日ではなかっただけで、私はいつも3カ月分の木炭の代金を彼に渡して運んでもらっている。二軒隣の住民は漁師で、ジュマに留守を任せている。その部屋にはテレビも冷蔵庫もある。彼が泥棒ならば、見知らぬ長屋に忍び込まなくてもチャンスはいくらでもあるじゃない」と。

 私が「嘘の証言なんかして大丈夫か」と心配すると、彼女は「警官らはもう二度と来ないわよ」とけらけらと笑った。彼女は、警官は多くの住民がジュマをかばった時点で彼が強盗犯ではないと理解し、彼女の証言は立ち去る口実に過ぎなかったと言い、次のように続けた。「長屋にはいろんな人が越してくる。私たちは隣人を選べないのよ。だから私たちは鍋を貸したり、ちょっとした頼みごとをしたり、裏切られても平気なことから始めて、少しずつ信頼できる範囲を広げながら関係を築いていくしかない。警官は、悪い側面を探し、人を疑うプロだけれど、私たちは良いところを探し、どこまで人を信頼できるかを見極めるプロなのよ。その私たちが彼じゃないって言っているのだから、こんな確かなことはないわ」──。

 見知らぬ他者を善き隣人にするのも住民たちの知恵なのかもしれない。立命館大学教授

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