治る病気となった精神疾患

 林 うつ病の医療化を筆頭に、精神疾患へのネガティブなイメージは大きく変わったのではないでしょうか。昔、精神疾患は周りからのとてつもない偏見に晒されていました。統合失調症は「精神分裂病」、認知症は「痴呆症」という差別的な病名で呼ばれていました。しかし、それらが改められたのはご存じの通りです。こうやって、おかしなものとされていた時代から、病気や疾患として確立することで、ようやく精神疾患が学問の遡上に乗り、疾患に客観的・定量的に向き合い、エビデンスに基づいた生物学的治療を行うことが可能となりました。そう考えると2000年前後の時代は大きな変革期だったのだなと。ちょうどその時期、私は研修医をしていたのですが、大変革の時代にいるなと現場で感じていました。

 北中 ある時を境に精神疾患が治る病気になっていきましたよね。

 林 新しい時代でしたね。この背景には、精神疾患の治療薬が誕生し始めていたことが大きく関係していると思います。強迫神経症の例を挙げると、どれだけ長期間にわたって行動認知療法をしても改善しなかった症状が、SSRIの服薬を始めたらパッと治ったという人が出てきました。薬で治るということは、ある種、生物学的な病気であることの証左になります。

 北中 そうですね。アメリカで抗うつ剤が治療の主流となる以前は、精神分析的な志向性をもった精神療法が主な治療法とされていました。しかし、抗うつ剤の登場で精神分析は下火となります。

 精神分析の牙城として名高いアメリカのチェスナット・ロッジ病院で長年治療を受けていたうつ病の患者が、プロザックを飲んだら一気に治ったと主張し、病院相手に訴訟を起こし勝訴するというケースがありました。この勝訴によって精神科治療が見直され、結果的には精神分析的な精神療法が保険の適応外となったり、薬を処方しないと保険が下りないという事例も出てきました。精神疾患への治療方法が、薬などのバイオロジカルな手法に転換した時期でした。

 林 ただ、先ほど先生もおっしゃっていたように、薬物療法で解決する場合と、そうでない場合があるという事実に直面することになりますよね。

 北中 薬が効く症例と効かない症例が徐々に浮き彫りになっていきます。2000年代の抗うつ薬に対する熱狂的な崇拝に対して、2010年代の『ニューヨークタイムズ』でも、「なぜ我々は砂糖剤のようなものにあそこまで熱狂していたのだろうか」といった論争が起きています。

 抗うつ薬がバシッと効く人は、実は3割ほどだと言われています。実際に、抗うつ薬の服薬によってかえってうつ病が慢性化や遷延化することが徐々に判明していったのです。ここから抗うつ薬への崇拝的信仰は終結を迎え、治療には薬だけではなく、環境などの多面的なアプローチが必要だという流れが生まれます。

 

薬物療法が効かない人たち

 林 そうですね。おそらく、私も含めて精神医学に携わる先生たちの中には、薬などの生物学的なものでほとんどのものが解決できると考えていた時期があったのではないでしょうか。しかし、生物学的精神医学が発展するにつれて、それだけでは解決できない問題もあることが明確になっていきました。

 薬物療法が効かない人たちというのは、先ほど出てきた、昔でいう神経症と言われていた人たちが多いようです。繰り返しになりますが、操作的診断基準であるDSM-Ⅲを用いた場合、昔だったらうつ病と診断されない人も診断されるようになったのです。これによって薬を飲んでも良くならないうつ病の人が生まれてしまうのは当然のことと言えます。

 さらにやっかいなのが、そのような人をマスコミが「新型うつ病」と名付けて報道したことです。現代型うつ病とも言われています。この弊害はかなり大きいです。

 北中 おっしゃる通りですね。

 林 私は従来型のうつ病と、「新型うつ病」のようなものは、区別したほうが良いと考えています。もちろん、中にはどちらの要素も混在した方がいらっしゃいますが、基本的には、両者は別物です。従来型というのは、神経伝達物質が原因の一つである生物学的なうつ病、いわゆる内因性うつ病と言われているものです。

 なぜ、これらの区別が重要なのかというと、本当の内因性うつ病と新型うつ病を一緒くたにしてしまうと現場が混乱し、結果的に適切な治療を提供できず、治るものも治らなくなってしまうように思うからです。そもそも新型うつ病という言葉自体正しくありませんし、医学的に認められた診断名でもないです。内因性うつ病とそうでないうつ病の状態像は、治療法がまったく異なりますから。この曖昧にされがちな両者の違いは、専門家はもちろんですが、一般の方も含めて知っておくべきことだと強く思います。

 北中 うつ病が身近な疾患になった今こそ、そこのリテラシーが必要ですね。

 林 うつ病がより広義なものになったことによる弊害は他にもあります。もちろんハラスメントやストレスがうつ病の要因となることは疑いようもありませんが、うつ病の範囲が広がり、社会全体への大きな負担となっています。

 北中 企業でもうつ病は非常に問題になっていますよね。

  休職者の数もどんどん増えています。病気の人が休暇・休養を取得することは当然の権利ですし、そうであるべきなのですが、この問題をどう扱っていいのかわからず困っている企業も多いのではないでしょうか。

 

アイデンティティとしてのうつ病

 北中 林先生からうつ病が身近になったことへの弊害というお話がありましたが、ここでうつ医療化の功罪を、改めて整理してみようと思います。

 まず、誰にでもなり得る病気であるという認識が広まったことは良いことです。それまでうつ病は、意志の弱さや遺伝的要因といったことが想定されがちでしたが、脳神経科学的な要因があるという考え方が出てきて、過剰なストレスや睡眠不足がうつ病の背景にあるということが一般的に知られるようになります。それが、行政による労働改革に繋がり、例えば職場でのストレスチェックが半ば義務化となりました。あとは、気遣いしすぎると気疲れするように、それが重なり、感情を無視して働き続けることは負担になりケアが必要であるという、いわゆる「感情労働」のもたらす弊害に、労働者や企業側が気づけたことも非常に良いことだと思います。

 一方で、功罪の罪のほうは、林先生がおっしゃるように、何でもかんでもうつ病だとされてしまって、自らうつ病の診断を求めて病院にやってくる人たちが増えたことですね。

 林 2000年代に一気に増えましたね。アイデンティティとしてのうつ病と言いますか……。先ほど出てきた新型うつ病の方に多いような印象があります。

 北中 たしかに当時は、そういう風潮がありました。なんだか気分が憂鬱だし、朝のニュースでうつ病の自己診断チェックがやっていて当てはまったから、自分はうつ病だと思い込むといった状況が生まれました。そして、抗うつ薬を求めて病院に来る方も増えたのです。

 当初医師たちは、そういった人たちにも、いわゆる内因性うつ病と同じように、薬と休養による治療をしていました。しかし、従来型のうつ病でない人にそのような治療をしても効果は出ません。

 その時期にインタビューをした人の中には、服薬量がどんどん増え、うつ症状もどんどん悪化し、廃人状態になり、離婚をして生活保護を受けることになってしまった方がいました。その方は入院で薬を抜いたことでようやく回復されます。そして、正常な状態に戻ると「自分は本当にうつ病だったのか」と疑問を持つのです。

 林 うつ病と診断されている方の中には、明らかにそうではない人もいますよね。境界的な方はいますが。

 北中 メディアもそのような方々を新型うつ病と称し、無責任に報道していました。それに対してうつ病学会が反論の声明を出したことがあります。実は、このいわゆる「新型うつ病」の急増と似たようなことが、20世紀初めの日本では起きています。

 かつての日本には夏目漱石もなったとされる神経衰弱という病がありました。これは不安・抑うつ、疲労感など、うつ病に似た症状を持つ精神疾患です。この病が出始めた時は、近代化の最前線にいるエリートが罹る「過労の病」とされていましたが、それがやがて庶民も罹る病として一般化する中で、スティグマ化されていき、「人格の病」とも言われるようになりました。私はこれに関する論文を書いたのですが、精神科医の先生方もそれを読んでくださいました。そして、当時、うつ病学会から、神経衰弱のときと同じようなスティグマ化が新型うつ病でも起こり始めている、神経衰弱の轍を踏んではならないと、安易に医学的概念でもない「新型うつ病」を用いないよう呼びかける声明を出してくださったのです。

 

自己との対峙を避ける社会傾向

 林 最近よく聞くHSP(Highly Sensitive Person:感受性が強すぎるという心理学の定義)も、新型うつ病と同じ類で、医学的な疾患ではありません。

 北中 そうですね。HSPも医学的概念ではないですが、まるでそのように捉えられているところに危うさを感じます。そういったカテゴリーで自分を捉えることが救いになればいいのですが、アイデンティティ化することで、かえって不幸になっているのではと心配になります。

 林 それらに縋って、本来自分が向き合わなくてはならない問題に蓋をするのも良くない場合があります。

 やはり精神症状に対する過度の医療化もそうですが、自分と対峙することが難しい世の中になっているように感じます。例えば、人に気を遣いすぎることが原因でうつ病になってしまった方がいるとします。そのような生き方は人として正しい側面もあるかもしれませんが、そこには自分の心と他者や秩序に対するバランスの悪さという矛盾もはらんでいますよね。その矛盾に対して、「ここは無理があったからこう改善していこう」と、自分でしっかりと対峙することで、長期的に見れば生きやすくなるかもしれません。

 しかし、対峙を避けて、新型うつ病やHSPだからという思考で終始すると、成長のチャンスを逃すこともあり得ます。もちろん、常に対峙すべき、常に成長すべきという考え方も危険ですので、そのバランスも大切です。

 北中 ただ、今の社会では、「うつ病のようなので休みたい」と言う人に対して、「それは本当にうつ病なの?」と容易に問えないような難しい状況がありますよね。

 林 それは強く感じています。明確に薬物療法を中心とした医療が必要な方がいる中で、ごく少数ですがうつ病を言い訳として使っている人もいると思います。しかし、その方に対して「多分それはうつ病ではなくて、自分の生き方やこれまでの人生の矛盾としっかり対峙し、自分が乗り越えなければ前に進めないよ」と思っていてもなかなか言えることではないです。その言葉で状況が悪化したらこちらの過失にもなり得ます。そういう周りからの指摘が困難な空気が蔓延し、社会全体がどんどんと自己との対峙から逆の方向に流れて行ってしまうような気がします。

 北中 そうですね……。ただ、自己との対峙ってなかなか難しいことですよね。実は以前も、精神療法が奨励されたものの、失敗したという歴史があるんです。1950年代末に第一世代の抗うつ薬が登場した時にも、「うつ病は薬を飲めば治る」という楽観論が一時期言われました。しかし、60年代半ばになると、プロザックの流行時と同じように抗うつ薬によって症状が長引くことが問題となり、それまでは下火となっていた精神療法的な介入が試みられるようになります。精神療法とは、専門家とクライエントが対話し、自己の問題に直面化することで、根底にある(とされる)原因を解明し、解決策を見つけ出す方法です。まさに、林先生のおっしゃる自己との対峙ですね。

 しかし、うつ状態にある人にとって、自己と対峙する精神療法は非常にしんどいものがあります。問題の原因と直面できないから、うつ状態に陥っている場合もあるわけですし。また、そもそもうつ状態にある人に自己と対峙する力は残っていません。よって、それによってかえって悪化してしまう人も少なからずいました。そういった治療の失敗から、日本では過剰に洞察を求めるタイプの精神療法は、むしろうつ病には禁忌であるとまで言われるようになっていったんです。笠原嘉(精神科医)らが、「いくら精神療法的なアプローチすることが魅力的に見えたとしても、あえてそうしないことこそが逆説的ではあるが、精神療法的である」といったことを、当時論じています。

 また、ドイツの精神病理学者であるエルンスト・クレッチマーは、心理的に介入するよりも、心身全体の回復を待つことの重要さを説いています。彼は「うつ状態は水の量が一気に減った川のようなものである。川の水が普通に流れている時には見えなかったような川底の凸凹した岩や穴(つまり性格の癖やコンプレックス)が露呈した状態がうつ病なのだ」と論じています。

 これを引いて、うつ病の専門家で長年うつ病の自助グループに関わっていらした近藤喬一先生は、「精神科医からすると穴を埋めて、岩を削りスムーズな流れをつくりたくなるが、それは心の外科手術であるから一介の臨床医が試みて良いことではない」とおっしゃっていました。つまり、エネルギーさえ戻れば川は普通に流れるのだし、元気な時は穴があっても水は流れていたのだから、穴をどうにかしようとしなくても、とにかく回復を待つべきなのだと。いわゆる内因性うつ病だと確かにそうなのだろうなと思います。

 林 そうですね。まずは逃げてエネルギーを蓄えてくださいと。逃げるが勝ちともいいますから。ただ、しつこいようですが、逃げる期間が終わったら自分としっかり対峙したほうが良い効果がある方もいますね。

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