過剰な政治批判が、逆説的に既存の体制を強化する
中北 加えて、政治参加も政治改革で見過ごされてきた論点です。例えば、個人献金をはじめ政治献金をどうやって増やしていくかという問題があります。パーティー券を買うことは献金の一種ですが、今回のような事件が起きると、献金も政治資金パーティーも廃止してしまえという議論が出てきます。
この前、ある新聞はボランティアだけを認めたほうがいいと書きましたが、旧統一教会は信者にボランティアをさせることで政治家に食い込んでいったわけです。では、ボランティアも禁止すればいいとなると、政党交付金に依存する「国営」のカルテル政党に純化してしまいます。新党がつくれなくなり、既存政党しか存在できなくなる。市民の政治参加の機会が減り、民主主義は空洞化してしまいます。現にカルテル政党化は、ポピュリズムの台頭という反動を生み出しているといわれています。
党内のシステムとして派閥をどう位置づけるかという論点も重要ですが、そもそも政党が国家と市民社会の間でどのような役割を果たすべきかという論点も含め、トータルに議論し直さなければいけないと思います。今回のパーティー券問題で、従来の政治改革で見過ごされてきた論点を考え直す契機になればいいですね。
政治参加に関連して、政治改革で見過ごされてきた論点には、女性議員をどのように増やすかという問題があります。1980年代半ばには男女雇用機会均等法が成立し、その後も男女共同参画社会基本法が制定されるなどの動きがありました。しかし、政治改革でクォータ制の導入が議論されることはほとんどありませんでした。ようやく2018年に候補者男女均等法(政治分野における男女共同参画の推進に関する法律)が制定されましたが、女性に関わる政治参加についても改めて議論していく必要があります。
河野 そこには皮肉な逆説もあるように思います。政治腐敗に対する道義的非難のようなものは時期を問わずずっと存在するのだとは思いますが、旧統一教会問題含め、特にここ10年ぐらいはそれが強すぎるのではないかと思うところがあります。フィルターバブル(インターネットで利用者が好ましいと思う情報ばかりが選択的に表示されること)やエコーチェンバー(SNSで価値観の似た者同士が交流し合うことで特定の意見が増幅されること)などの問題もあるとは思いますが、「政治に関わるものは汚い」というイメージを多くの有権者が共有しているという背景が重要なのではないか。
もちろんそこには、ある意味では健全な批判精神の発露も見られるわけですが、先生が今おっしゃったことに絡めると、過剰な道義的非難が、逆説的に既存の構造を強化する側面もあるということですよね。
中北 まさにそう思います。
河野 献金もダメ、宗教関係もダメとなったら、おっしゃる通り既存の政党以外の新たな動きは難しくなります。道義的非難が逆説的に既存政党の力を強めることになりかねない。特に最近は、そうした道義的な非難の刃が持っている二面性みたいなものを意識する機会が増えてきています。SNSなどの抽象的な世論を見ると、政治や宗教も含め人が集団で何か行動を起こすことに対する漠然とした不信感、嫌悪感のようなものを感じることがよくあります。それは結果として、デモクラシーの首を絞めることになるのではないか。
中北 宗教バッシングもすさまじく、創価学会と旧統一教会を同一視するような議論が散見されます。創価学会にも少なからぬ問題があるかもしれませんが、カルト宗教とは一線を画していることは事実です。健全な宗教もあれば、そうではない宗教もある。いろいろな宗教があるにもかかわらず、宗教イコール悪とみなす風潮が今の日本には根強く存在します。
しかし、多くの日本人が神社やお寺にお参りし、お賽銭をして、おみくじも引きますよね。世界に目を向ければ、キリスト教、イスラム教など多様な宗教があります。宗教に拠り所を求めている方、救われている方が数多くいます。そうした宗教の役割を正当に評価せず、宗教団体は人々を騙しているかのような決めつけが横行しています。
より広く言えば、宗教団体のみならず、おおよそ団体に対する懐疑的な見方が現在の支配的な空気です。団体は結託して悪だくみをし、政党や政治家と共謀して既得権を享受しているかのような見方です。こうした見方がポピュリズムの温床になるわけです。
政治に引き付けて考えると、民主主義とは多数者による支配です。選挙でもそうですが、一人では無力です。市区町村議会選挙では百票、都道府県議会選挙では千票、衆議院選挙では一万票あれば、結果を左右できます。ですから、政治的な影響力を持ちたいのであれば、どんどん集団をつくっていくべきなのです。そうではなく、集団を批判する意見がネットで支配的なのは、河野さんもおっしゃるように決して健全ではないと思います。
創価学会は、宗教の政治参加の成功例
河野 昨年は、3月に幸福の科学の大川隆法氏が亡くなり、11月には創価学会の池田大作氏が亡くなるなど、何かと宗教絡みの話題が多い年だったなと思います。創価学会の歴史を振り返ると、戦後日本において宗教団体がいかに政治と関わっていくかという点では、明らかに一つの成功例だと私は評価しています。国政進出当時は、知識人からも相当強い批判があったわけですが。
中北 そう。ファシズムだとかですね。
河野 もちろん当初の創価学会がかなり戦闘的だったことは確かで、「折伏大行進」とか過激な勧誘活動を実際に目撃していたような状況では、無理からぬものがあったとは思います。ただ、議会制の中に入っていく過程で、インナーサークルの外側にどうやって声を届けるかということをきちんと学習していったように思います。公明党が、池田大作亡き後どうなっていくかはまだ見通せませんが、宗教団体と政治との関わりを考える上で一つの成功例だということは間違いないと思います。
特に一昨年から昨年にかけて、かなり極端な形での政教分離論のようなものが語られることが多くありましたが、その議論が果たしてデモクラシーを豊かにする議論なのかということもすごく考えさせられました。
中北 創価学会が成功例だということは、私も同感です。創価学会は戦時中に弾圧され、戦争の焼け跡から出てきた宗教ですよね。組織としては戦前から存在するけれども、大きく成長したのは戦後です。終戦直後、日本国憲法ができるなど日本が急激に変化する中で再建され、労働組合からも取り残された低所得者層を組織化し、民主主義のプロセスに結び付けていくために公明党を結成しました。言論出版妨害事件などの問題を起こしましたが、徐々に学習し、中道という立場から大衆を政治につなげ、平和や福祉を訴えていくことで戦後民主主義を安定させる役割を果たしました。全体としてはプラスの役割が大きかったといえるのではないでしょうか。
ところが、創価学会がバックにある公明党はけしからんとか、そんな公明党と組んでいる自民党は創価学会に支配されているとか、単純すぎる批判が目に付く印象です。しかし、衆議院東京28区での候補者擁立をめぐって選挙協力をいったん解消するなど、両党は常にぶつかり合い、緊張感のある関係を続けています。安倍政権下の集団的自衛権の行使容認をめぐっても、公明党の要求に従って「武力行使の新三要件」がつくられ、一定の歯止めがかかったことは事実として認めるべきです。
コーポレーションとアソシエーション
河野 学生からよく聞く話ですが、例えば選挙の前に創価学会員の友だちから投票を頼まれたということを、否定的な経験として語る人が多いんですよね。まあわからなくもないのですが、せっかく政治学を学んでいるのだし、それもまた大事なことではないかとはどうしても言いたくなってしまう(笑)。頼まれたからといって絶対に投票しなければいけないわけでもないので、頼まれること自体は別にいいじゃないかと学生に言うのですが、あまりピンときていないみたいです。
中北 アメリカ大統領選でも、支持者がボランティアで戸別訪問して投票をお願いしたりしていますよね。もちろん大学生も参加していて、それは素晴らしいこととして報じられるのに、日本でやられるとなぜか嫌なのです。
日本の無党派幻想というか、党派性を持つことがよくないという風潮が、政党政治の根を浅くしてしまっていると感じます。本来は大学のキャンパスでも、各政党がユース(青年組織)をつくっていくべきです。アメリカの大学では、大統領選のときなどに学生がみんなで集って普通に議論しています。政党デモクラシーである以上、党派性を前提として議論することが本筋だと思うのですけどね。
河野 本当にその通りですね。おそらく日本では、相手と党派が違うとなると抜き差しならない感じになってしまうのでしょうね。仲良く喧嘩できないというか。政党制って、基本的には制度化された争いのはずなのですが。
中北 一種のスポーツのようなものですね。お互い真剣なのだけど、きちんとルールがあって、スポーツマンシップに則って戦う。ただ、政治の話題になると喧嘩になってしまうのでしょう。
河野 そして、喧嘩になるのが嫌なんでしょうね。
中北 論破して言い負かすばかりだと、ディスカッションをして互いに思考を高め合うという契機が失われてしまう。
河野 そこには集団性についての訓練という課題が隠れているのかもしれません。私は柳田國男の『明治大正史─世相篇』を折に触れて読み返すのですが、柳田は終盤にかけて盛んに集団や群れの話をします。柳田の関心を私なりに言い換えてみるとこうなります。
江戸時代には藩という形で集団性が組織されていたわけですが、藩が解体された後に、それまでの藩のようなコーポレーション的な集団ではなく、新しくアソシエーション的な集団をいかにつくるかというのが、明治大正の日本人たちの課題でした。柳田は明治大正の日本人にとっての宿題をそう整理しつつ、実際の日本人のパフォーマンスにはとても辛い評点をつけています。明治大正の日本人はよく「会」をつくるのだが、しかしその「会」はすぐ形骸化したりつぶれたりするのだと。日本人は集団主義などと言われるけれども、柳田に言わせるとむしろ逆で、日本人はアソシエーションをつくる能力が低いのではないかということを言い続けるんですね。
他方、日本人は集団主義的という言い方になぜ一定のリアリティがあったかというと、戦後日本で藩に代わるものとして、会社というコーポレーション的なものがまさに日本人を包摂していたからだと思うのです。藩に代わって会社が機能したからこそ、やはり改めてアソシエーションをつくる能力を問わなくてもいい時代が続いてしまったんだと思います。
ただ、現代ではもはや会社の包摂性にそこまで信頼は置けません。特に若い世代にとっては、会社に丸抱えされていた昔の集団主義的な日本には現実感がない。それは、集団に対する嫌悪感や危機感のようなものと結びつくところでもあると思うのですが、ではそうした集団性や団体性をただ嫌悪していればいいのかというと、そうではないですよね。人は一人では弱いもので、いかに「群れ」や「仲間」をつくるのかというのはとても大事なことだと思うのです。その意味で、柳田の議論や問題意識は、例えば「会社」のプレゼンスが大きかった戦後日本よりは、現代のほうがリアリティがあるのかもしれません。
中北 高度成長期以降、市民政治が台頭し、市民が自立した個として確立した上でアソシエーションをつくるというイメージで、様々な実践が行われました。例えば、都市部では、自民党の基盤である商店主など地域の名望家とは違い、新しく流入してきたサラリーマン層を基盤に代理人運動やネットワーク運動が展開されました。しかし、その主たる担い手が「全日制市民」の主婦層だったこともあり、21世紀に入って共働きが増えると、勢いを失ってしまいました。
その結果、自民党を支持する諸団体や、創価学会をはじめとする宗教団体、労働組合など旧来型の集団が政治的な影響力を維持し、今日に至ります。それに対して、市民派は個の自律性を強調するがゆえに新自由主義と重なり合う部分がありました。市場メカニズムを重視する新自由主義が台頭する中で「社会の個人化」が進み、徐々に組織が壊れてきたというのが、ここ20年ぐらいの流れです。
結局、地域に根を張る自民党と最強の宗教団体である創価学会を支持母体とする公明党が連立を組んで政権運営を行う一方、個人化した無党派層が、数は増えているとはいえ、投票所に行かず、政治的影響力を持ち得ていないというのが現状でしょう。自立した個人がアソシエーションをつくることに失敗した結果、自公が支持基盤を縮小させつつも相対的な優位を維持しているのだと思います。
「社会党的なるもの」の可能性
河野 中北先生といえば自民党の研究者であり、併せて共産党についても研究されているというのが最近の読者の方が抱いているイメージではないかと思うのですが、最初のご研究は社会党でしたよね。単純な政党史だけではなく、労働組合や経営者団体、さらには知識人といったアクター、そうしたアクター間の力関係を規定する経済環境や国際政治状況にも目配りをされた優れたご研究でした。しかも単なる状況の記述にとどまらず、「生産性の政治」の政治構想というか、あくまで開かれた国際経済を志向する中で、いかに労使協調を進めながら政治に関与していくかという構想にコミットする形で議論を進められていたのが、とても印象的だったことを記憶しています。
先生がそこで描かれた戦後日本の「社会党の夢」というか「社会党的なるもの」が持つ今現在の可能性については、どのようにお考えでしょうか。
中北 非常に難しい問いですが、現状はかなり厳しいでしょう。労働組合のリーダーの人材が弱ってきているのです。やはり組織は人が大切です。労働組合も研修プログラムなどを導入して人材を育てようとはしていますが、連合会長のなり手がいなくて、産別のトップでもない芳野友子さんが担ぎ出されたのが象徴的です。立憲民主党と国民民主党の分裂などを背景に、連合本部への求心力が弱まっているのも深刻な問題です。
それでも、労働組合が果たす役割は小さくないと思います。やはり人間一人ひとりは弱い存在なので、組織をつくり固まることによって経営者との対等性を確保するというのが、労働組合の基本的なミッションです。しかし、労働組合だけではなく、創価学会や自民党の支持団体も含め、あらゆる団体が弱ってきているのが現状です。労働組合もその傾向からは逃れられないということだと思います。
一方で、労働組合に関して言えば、若い人が新入社員という形で定期的に入ってくるので、まだ希望の芽はあります。労働組合は一人ではなかなかできないことをするきっかけづくりの場にもなっていて、例えばボランティア活動に参加するとか、気が進まずに動員された選挙運動が案外楽しかったとか、新たな体験につながる機会にもなっています。
そういう意味でも労働組合の果たす役割は大きいと思う反面、労働組合に立脚する社会民主主義政党は、日本を含め世界的にも苦境に陥っているのが現状です。欧米では福祉排外主義の右派ポピュリズム政党が台頭してきています。かつては社会民主主義政党が労働組合を基盤として格差を是正する役割を果たしてきたのですが、様々な理由から、現在それが十分に機能していません。
河野 私はゼミで学生に戦後の映画を観てきてもらうことがあるのですが、当たり前だと思っていたことが学生にとってはそうではないことがたくさんあって、こちらが勉強させられることも多いのです。
この前、倍賞千恵子さん主演の『下町の太陽』という映画を観てきてもらったんですよ。映画の中では、昼休みになると女工さんたちが集まって、工場の敷地内で卓球などレクリエーションを始めます。その場面について、学生から「あれ、何なんですか」と聞かれて、逆にこっちが驚いてしまって。今の若い人からすると、職場の休み時間にみんなで集まってスポーツをしている光景が、異様に見えるんですよね。
労働組合には若い人が入るので希望があるという反面、その若い人には、普段から集団行動をして、その延長線上でデモに行ったり春闘に行ったりという昔のような身体感覚がもうないのではないでしょうか。そうした身体感覚を支えていた職場の構造や環境自体が、すでに失われてしまっています。
中北 時代の流れですね。1980年代に日本型多元主義が日本の集団主義を称揚した際には、家族、地域、職場の三つがその中核とされました。かつての職場は共同体で、生活の場も社宅でした。私の父親は企業のサラリーマンで、石油化学コンビナートができた際に大分に転勤し、家族で移り住みました。小さい頃は、明野という多くの社宅が集まる地区で育ちました。家族間の行き来もあったし、物を分け合ったり、夏にはお祭りをしたり、自家用車の車検中には同乗させてもらったり、会社主催の家族運動会があったり、社員の子ども向けの工場見学会を行ったり、本当に共同体でした。父親は労働組合の活動で選挙もやって、組織内候補を応援していましたね。そうした職場の共同性が労働組合の根っこにある強さでしたが、今は弱まってしまいました。
単身者が増えて、家族という集団も弱くなっています。地域のつながりも然りです。社会から共同体が失われる大きな流れは避けられないかもしれませんが、孤独死をはじめ、その弊害も現れています。それは政治にも当てはまるのではないかと思いますね。
それにしても、今の若い人の感覚だと、職場で卓球をすることが不思議なのですか。
河野 そうなんですよね。私自身にしても、一般企業に就職したことがないのでリアルにそうした風景を知っているわけではないですし、私の同世代が職場で卓球していた世代かと言われると、そんなこともないのですが。
中北 そうですか、その世代ではないんですね。僕は以前、大阪の公立大学に勤めていたとき、若手の教員同士で学生も交えて卓球をやっていました。それをきっかけに結婚した今や著名な研究者もいますよ(笑)。
河野 そうなんですか(笑)。
中北 東京の私立大学に移った後も、何人かで遠くまでランチに行ったりしてね(笑)。当時はそういう形である種の共同体がまだあったけど、2000年代ぐらいになくなりましたね。全体としてそういう慣習が消えたのか、自分が多忙化したのかはわからないですが。裏金が日本社会から消えた時期と一致しているかもしれないですね。
河野 コンプライアンス、ハラスメントを気にするようになった時期と軌を一にしているでしょうね。おそらくコロナがとどめを刺したのではないかと。
中北 ハラスメント問題の盛り上がり、人との接触の減少という二つが軌を一にしている可能性は無きにしも非ずでしょうね。