『公研』2017年6月「めいん・すとりいと」
学歴社会のなかで競争を勝ち抜いたものが中央省庁に入る。優秀な官僚たちが政策を綿密に作り上げて実施する。世界の政治学者はこの国を突出した「行政国家」と捉え、巷では「官高政低」ということばが流布した。
こうした日本のすがたはずいぶん変わったように思われる。相次ぐ不祥事、官僚バッシング、「脱官僚主導」という政治キャンペーン。この20年で政と官の関係は劇的に変化した。
政官関係と呼ぶべきものが現れたのは150年前、明治維新のときである。もっとも、内閣制度(1885)や各省機構、法令書式、官僚養成課程(1886)が整備されるまでは、政治家は自ら属僚を率いて様々な現場をわたり歩いた。それはきわめて属人的であった。
大学が整備され、学士たちが省庁に入ってくると、その構造は劇的に変化した。法学教育を受けた彼らは、調整能力のみで生きてきた藩閥官僚と鋭く対立した。イギリス流の議院内閣制を理想的な政治形態と捉え、自らの専門性を政党政治の確立のために捧げた。かくして、大正デモクラシーのなか、官僚の協力のもとで政党政治が生まれた(1918、1924)。
昭和に入ると両者の融合が進む。次官や局長が郷里から出馬し、政党政治家に転じた。官僚は昭和の二大政党に系列化され、政権交代のたびに大量の官僚が更迭された。その反省もあってか、官僚は政党から徐々に離れていった。
太平洋戦争に敗れると政治家が追放される一方で、官僚は生き残った(1946)。彼らは戦後政治のなかで実力を発揮し、「行政国家」を再構築した。自民党の有力者たちは私的な勉強会を開いては優秀な官僚を帷幄に抱え込み、そのアイディアを活用した。
権力は批判の対象となる。90年代の不況は官僚バッシングを呼びおこし、それは「行政国家」批判から「脱官僚主導・政治主導」キャンペーン(2009)につながった。
そして今、ふたたび政官関係のありようが注目されている。内閣人事局の創設(2014)によって官僚の人事権を握った官邸が自らの意思を各省に押しつけているのではないか、各省は「官邸最高レベル」の意向に阿っているのではないかという疑問、いや、批判がメディアを席巻している。
官僚は専門性に基づいて情報を収集・分析して政策を提案する。その際、官僚は提案を実現するために様々な可能性を想定し、対策を練る。政治家はそれを受けて、多様な利害関係を考量しながら判断を下す。この構造は、割拠主義を克服すべく官邸機能を強化してきた、20年にわたる統治構造改革の成果に外ならない。
官邸が官僚の人事権を握ると党派的な人事が横行するのではないかという懸念はあった。それを避けるために様々な評価制度が導入されている。もちろん、人事に絶対中立はありえないが、官邸は常に国民の目に晒されている。政権が過度に恣意的な人事を行えば、それは自らの首を絞めることになる。短期的には政権を不安定にし、長期的には行政を弱らしめるからだ。
今年度、国家公務員総合職試験の志願者数は47年ぶりの低水準となった。受験者数は昨年より上向いたというが、民間企業の長時間労働見直しなどもあり、公務員人気の長期低落は否めない。優秀な若者が民間に進むことは歓迎される。しかし、政策の基幹を担う官僚の専門性が揺らげば、政官関係はもちろん、国政の行方さえ危うい。
明治から150年、日本政治は政治家と官僚の協働関係、緊張関係のもとで発展してきた。何が政官関係を危うくするのか、何が官の不人気を招くのか。目下展開される「騒動」で、その答えがより明瞭になってきたように思われる。慶應義塾大学教授