ロシアと日本は似ている
水島 海運関係のロシア語には、オランダ語に由来する言葉があるとオランダでは紹介されています。マスト(船の帆柱)、マトロス(水夫)、カピタン(船長)、フラッグシュトック(旗竿)などはいずれもオランダ語ですが、ロシア語でも使われているのですか?
池田 その大半は日常に溶け込んでいる言葉ですね。正直に言えば、私はドイツ語だと誤解していましたが、すべてオランダ語なのですね。他にはルーリ(舵)やルーポル(伝声管、拡声器)などもそうです。
私は、ロシアと日本は似ているといつも言っているんです。両国ともヨーロッパ文明を摂取しながら学んでいった歴史があります。日本もオランダ語やドイツ語を通じて、文明開化の前提をつくりました。お雇い外国人も同じです。ピョートル大帝と幕府・明治政府がやったことは本当によく似ています。
水島 そのあたりは、海上帝国としてのオランダの世界戦略の一環と考えることもできます。我々は「江戸時代は鎖国していた」と教科書では習いましたが、近年、国を閉ざしていたというより、西洋の知識や情報を取り入れていた側面に注目が集まっています。オランダとの交易、文化交流はずっと継続していました。
逆にオランダから見ると、日本は交易相手として非常に好都合な相手でした。日本はスペインやポルトガルと縁を切って、ヨーロッパ諸国ではオランダのみを交易相手にしましたが、ここに至るプロセスに関しては、オランダの外交戦略も大きい。オランダは、ロシアに対しても、日本に対しても、軍事力を前面に出すのではなく、いわゆるソフトパワーを通じて関わっている。
池田 ピョートルの側では、オランダのソフトパワーをむしろ軍事力強化のために使っています。けれども彼は、軍事力だけではなくて、文化や技術面でもヨーロッパ、特にオランダと交流を深めていきたいという気持ちはどこかにあったのだと思います。技術面、それに思想や啓蒙の面でもロシアに対するオランダの影響は大きいわけです。
ただし、技術や文化を社会に導入する際のやり方は、ロシアとオランダとではずいぶん違いがあります。ロシアの場合には上から人を動員します。皇帝の号令で、農民を工場で働かせたり、商人からお金を供出させたりします。ペテルブルクの街をつくるときには、職人も役人もモスクワから強制的に連れてきました。断ることは許されません。こうして最初は何もなかったところに、ペテルブルクという首都ができあがった。「とにかく首都にしたのだから住め!」と命令するわけです。
こうした強権的なやり方は、当時の西ヨーロッパではもうすでに難しかったのではないかと思います。けれども、そういうやり方こそが北方戦争での勝利に貢献したことは間違いない。おそらくここは、ロシアとオランダが似ているようで、大きく違っている点でしょうね。
水島 確かにオランダとは正反対ですね。
池田 ロシアの場合は、社会の側に新しい技術や情報、統治の思想を摂取する基盤が広くあるというより、まずは専制権力である皇帝が上からそれらを導入していきます。ロシア革命以後の社会主義の導入にも同じところがありました。オランダの考え方を学びますが、それを実践する手法はおそらくまったく違うものがあるのだと思います。
これがオランダなどであれば、市議会や商工会議所などが経済社会を支え、市民層が成長し、その力が国の発展を支えています。けれども、ロシアはそうではないんですね。すべて皇帝がコントロールします。ここの違いが大きい。この点ではロシアとオランダは対極にあると言えます。
日本の江戸時代も蘭学が文明開化の前提となっていました。ロシアも日本もまずはオランダから最新の知識を学んでいますが、日本の場合は主君が学ぶというより、各藩の内外に広くインテリがいたわけです。ロシアは専制権力が率先してやるパターンでした。
オランダは商業ネットワークで生きている国
水島 そもそも「ロシア帝国」は、北方戦争の勝利の後に成立したのですか?
池田 そうです。ピョートルが大帝になったのもそのタイミングです。
水島 となると、「ピョートル『大帝』が船大工になった」という逸話は正確ではないことになりますね(笑)。
池田 その頃はまだ「ツァーリ(君主)」ですね。1721年に北方戦争に勝ったことを記念して、元老院が彼に「インペラートル(皇帝)」の称号を贈り、かつピョートルの名に「偉大な」という形容詞も与えます。だから大帝なんです。ロシアではピョートルとエカチェリーナ二世だけが大帝の称号を公式に持っています。
ヨーロッパ側からすれば、インペラートルなんていう立派な称号を使えるのはハプスブルク帝国の皇帝だけですからね。だから、ハプスブルクやフランス、イギリスはなかなかその使用を認めなかった。ロシアは外交文書にインペラートルと書かせるまでに20年ほど粘りました。この点でもオランダはロシアに好意的で、すぐに皇帝の称号を認めてくれたんです。
水島 ロシアとオランダの社会の構造は、対極にあるといったご指摘がありました。しかし、だからこそお互いの交流がうまくいったとも言えるかもしれません。逆にイギリスとオランダは、似たもの同士ゆえの緊張関係があります。両国とも議会が存在して、貴族層や新興勢力など君主に対抗する勢力がしっかりしています。似たもの同士はライバルになるので、全面的に何かを学ぼうという関係にはなりにくい。1688年にイギリスで名誉革命が起きたときには、オランダからオラニエ公ウィレム三世が移っていますから、その時期はさすがに英蘭の戦争はなかった。けれども、17世紀を通じて両国にはいざこざが絶えませんでした。
ロシアとオランダの間にはそうした緊張関係がなかったがゆえに、オランダから見ると、ロシアはすごく素直に自分たちの技術や情報を受け入れてくれている感じがします。
池田 良い話ですね。ヨーロッパ側から見て、ロシアをポジティブなイメージで見る話はあまり聞きませんからね(笑)。オランダとロシアの関係はすごく大事であることがよくわかりました。
水島 オランダと様々な付き合いを深めても、それがロシアにとって致命傷になってしまう心配はなかったのだと思います。
池田 ロシアはイギリスとはパワーゲームをやっていますから、お互いに警戒することになる。先ほどおっしゃったように、オランダは商業ネットワークで生きている国ですよね。だから戦争でどこかの領土を奪ったり、権益を広げたりするのとは違う発想があった。それはロシアにとっても割と付き合いやすかったのではないかな。
水島 オランダの植民地支配は、東インド(インドネシア)は広大な領域になりましたが、16─18世紀に領土拡大を本格的にめざしたわけではありません。そういった点で、直接対決する契機はお互いに少ないと見ていたのでしょうね。
池田 これを機会にぜひロシア=オランダ関係を学んでみたいと思います。
「世界に開かれた窓」と「大きな村」
水島 私はペテルブルクには行ったことがないので、読書を通じて情報を得ただけですが、アムステルダムと多くの点で共通しているように思います。いずれも河川の河口付近に、海に面して建設された港湾都市です。都市の中に運河が張りめぐらされていて、石橋が多い。外国から船乗りがやってきますから、多種多様な人々が行き交う一種のコスモポリタンな空間です。それから出版業もかなり盛んで、外国の本を訳して出版しています。ペテルブルクは、ロシアにとって「世界に開かれた窓」となっています。
池田 ペテルブルクのモデルは、アムステルダムとヴェネツィアだと言われていますが、何と言ってもアムステルダムの影響が強いと思います。ピョートル大帝は、通りではなくて運河で街の中をつなぐという明確なビジョンを持っていました。だから、石橋が多いんです。国際都市として文化的にも開かれていて、そこはアムステルダムの一番良い部分を取り入れようとしていますね。
ピョートルは文明開化と同時に富国強兵にも熱心でしたから、軍事的あるいは領土拡張的な方向でもロシアを発展させました。それでもピョートルの時代は19世紀や20世紀の凄惨な戦争の時代に比べれば、健全な発展だったと思います。ペテルブルクは今でもロシアで一番ヨーロッパ化された街です。モスクワとは対照的です。
水島 モスクワとの比較は興味深いですね。
池田 モスクワは「大きな村」です。ペテルブルクは間違いなく都市です。ロシア文学でもロシア史でもモスクワとペテルブルクの対比は、常に出てくる普遍的なテーマです。ペテルブルクが首都だった帝政期には、ロマノフ朝自身がヨーロッパの文物を取り入れて、ヨーロッパとロシアをつなげたところがある。ピョートルが娘たちを外国の王室に嫁がせた結果、18世紀後半からはロシア君主自身もドイツ系となっていいことになります。
私はロマノフ朝を倒した1917年の2月革命は、一面においてインテリ層がロシアをヨーロッパにしたいと思って引き起こした革命だと考えています。けれどもその願いとは裏腹に、1918年には首都をペテルブルクからモスクワへ移しています。「ヨーロッパへの窓」としてのペテルブルクから、内陸の「大きな村」であるモスクワへ移ったわけです。ロシア革命はヨーロッパからユーラシアへのオリエンテーションへの転換と考えることもできるでしょう。
水島 ヨーロッパ的な新しい側面を持ち合わせていたロマノフ朝から、ロシア革命によって逆に古い世界へと転換していったわけですね。池田さんのご著書『ロシア革命──破局の8か月』(岩波書店、2017年)をたいへん興味深く読ませていただきました。また別のご論文では、ソ連は形式的には共和制だが、現実には一種の帝国だったという表現もされていますね。とてもおもしろい見方だと思いました。
池田 ロシアは常に一極集中で成長してきましたから、新しいものはすべてペテルブルクに集中していました。国会もあるし、重工業は首都に発展しました。当然そこには労働者の数も多いわけです。なので「ヨーロッパへの窓」は革命の都ともなりました。
ロシア革命はヨーロッパの時代からユーラシアの時代への転換だった
水島 ペテルブルクの革命を担った労働者たちは、先進的な印象があります。新しい思想や政治イデオロギーを受け入れる素地がペテルブルクの市民、労働者、あるいは兵士にはあったということでしょうか?
池田 そこはなかなか難しいですね。1917年の革命は、とにかく第一次世界大戦を早く終わらせたいという気持ちが、兵士や労働者たちにはありました。そこに一番寄り添えたのがレーニンだったので、十月革命はうまくいった。けれども、「社会主義とは何か」「共和制とは何か」といったことを労働者がどこまでわかっていたのかと言えば、それはまた別の問題です。それを理解していたのは、むしろ自由主義者たちでした。憲法という言葉一つとっても、労働者のあいだできちんと理解されていたとは考えにくい。
ただし、法律家や大学教授や改革派貴族など、最もヨーロッパ化された自由主義者たちは、極端な変化には反対でした。それで1917年の混乱の中では何もできなくなり、放逐されてしまう。一番ヨーロッパ化された街で革命が起こり、その結果ヨーロッパ的な人たちをすべて追い出すような大きな変動になった。そして、それが終わって首都がモスクワに移って、ヨーロッパの時代からユーラシアの時代になったと言えるのかもしれません。
水島 つまり最もヨーロッパ的な連中がペテルブルクにいて、それをひっくり返すエネルギーを持った連中もペテルブルクにいたと。
池田 そうなんです。最初に皇帝政府を揺るがそうと行動を起こしたのは、自由主義者の国会議員たちでした。第一次世界大戦中に彼らが「もっと自由主義者にも権力を引き渡せ!」と主張して、いろいろな働きかけをしたことで皇帝の権威が揺らいでいきました。そこまでは自由主義勢力がヨーロッパ的立憲主義をめざしていたわけです。ところが、そうすることで権力のバランスが崩れ、非ヨーロッパ的な民衆運動が街頭にバーンと出てくるものですから、そこでもうヨーロッパ的勢力はなす術がなくなってしまった。
ですから私は、ロシア革命はヨーロッパ的な理念や言葉に基づいているが、革命を実現した勢力や実際に起こったことは、近代ヨーロッパ的なものとは反対の方向を向いている出来事だと考えています。
ペテルブルクの街全体を劇場としてとらえる
水島 それから、私が注目したのは、ペテルブルクという都市空間のなかでロシア革命が起きたことです。池田さんの本では革命の舞台となったペテルブルクのネフスキー通りなどの大通りの名前や、民主主義派会議やアナーキストたちの拠点になった建築物などが丁寧に記述されています。アムステルダムという都市空間から、その街の歴史や社会の成り立ちを学ぼうとしている私にとって、すごく共感できるものがありました。大通りや公園、建物などの役割はやはり重要だと思っていますが、池田さんもそこは意識されて書かれたのですか?
池田 意識しました。具体的な場所こそが大事だと思っていて、それを書こうと思っていました。『ロシア革命』は1917年のちょうど100年後に合わせて発表しました。執筆する前に実際にペテルブルクに行ってきたので、鮮明に記憶していました。
水島 ロシア革命から100年のタイミングでペテルブルクを訪れるとは羨ましい。
池田 ペテルブルク自体は西洋的につくられていて、大通りがあって、国会あるいは劇場など様々な場所があります。その一つひとつの場所は、労働者的な空間もあれば、ブルジョワ的な空間もある。そうした特徴を理解していれば、革命当時の実際の動きを具体的に思い浮かべることができます。「あそこは労働者たちの拠点になっているから、デモ隊が離散するときはそこに逃げ込む」とか、逆に普段はブルジョワたちが集っているエリアに労働者たちが入り込んだりすると、非日常的な事態が起きていることがわかります。そう考えるとペテルブルクの街全体を劇場としてとらえることもできる。
水島 アムステルダムにも似ているところがあります。それこそ建物で言えば、コンセルトヘボウ(コンサートホール)やレンブラントの「夜警」などを収蔵しているナショナルミュージアムなどがある市中心部は、同時にアムステルダムの文化の中心です。
他方で、市内の西の地区には庶民的で土着的な雰囲気の強い地域があって、そこはむしろ共産党系が強いのです。市内に断絶があるわけです。実際にオランダの歴史を振り返ると、最終的には失敗に終わりましたが、庶民的な地区で蜂起が起きた例もあります。開明的な地域に住む住民はあまりやりたがらないことが、庶民的な地区では運動として展開されてきました。
アムステルダムは外からはとても進歩的に見えますが、都市の下層にはディープな感情が澱んでいたりします。その二つが歴史の中でいろいろなかたちで表出され、そこにユダヤ人が絡んできます。アムステルダムのユダヤの人たちは、中間層があまりいなかったという特徴があります。よくユダヤ人は金持ちだと言われ、高所得者に占めるユダヤ人の割合は確かに高いですが、同時に、最下層に占める割合も高いんです。そのためエリートもいれば、貧困層に根差した活動家も出てくる。ヨーロッパの他の都市でも同じことが言えますが、都市は相反する二つのエネルギーがないまぜになりながら発展していくところがありますね。
歴史叙述の新しい動き
池田 『隠れ家と広場』もタイトルからして、まさに都市構造をテーマにしていますよね。最近の歴史叙述は、リアルな空間を歴史家自身が歩いてみて、そこから得られた情報が盛り込まれる傾向があります。ここから、ここまではどのくらいの距離があるのか、どういった社会層の人たちが暮らしていたのか。現在でもその名残や雰囲気はある程度は残っていますからね。
水島 それはもう間違いないと思います。
池田 歴史家自身が現在に見たものを過去に落とし込んでいく叙述が近年しばしば見られます。フランスの歴史家イヴァン・ジャブロンカの『私にはいなかった祖父母の歴史』(名古屋大学出版会、2017年)も、アウシュヴィッツで亡くなった自身のおじいさん、おばあさんの足取りを現在のパリの街のなかで探っています。
最近なぜこうしたアプローチが増えているのか少し考えてみたのですが、やはり歴史家はシェーマ(形式、図式)ではない要素も含めて叙述したいからなのだと思うんです。労働運動や◯×主義があって、どこが対立していてどこが戦ったのか、それだけで叙述してしまうとあまりにも図式的になってしまう。
水島 そうなんですよ。よくわかります。
池田 叙述する舞台となる街を直接歩いたり、行かないにしても都市空間のいろいろな場所について自分なりに空想力を働かせたりすることは、有意義だと思うんです。当時そこで生きていた人々の毎日の生活や活動の範囲などを辿ることで見えてくるものがあります。喜びや悲しみも含めて、浮かび上がってくる感情もあるわけです。それが今の歴史学の中で新しい動きとして出ているように思われるんです。もちろん昔の研究も別に図式的に書いていたものばかりだったわけではありませんが。
『隠れ家と広場』は、まさにアムステルダムという街を平坦に描写するのではなく、そこで暮らしていた人たちの生活実感が湧き上がってくるような書き方がなされていますよね。第二次世界大戦中ユダヤ人は隠れ家に潜んでいたことが強調されがちですが、彼らは広場で交流もしていたわけです。他方で、行政官たちや鉄道員たちは非常に冷淡に彼らを移送した。
水島 そうなんです。非常に従順でした。
アンネ・フランクと「広場」
水島 アンネ・フランクは、一般的には2年間隠れ家に閉じ籠って地道に日記を綴っていたことで知られています。日本では、おとなしい、文学少女的なイメージが強いですよね。しかし実際の彼女は、隠れ家に入る前に8年間にわたって市の南部にあるメルウェーデ広場という三角広場の真ん前に住んでいました。その広場を舞台に毎日駆けずり回って友人をつくり、喧嘩をしたり恋をしたりしています。喜びも悲しみも、まさに広場という場で味わっていたのです。
このメルウェーデ広場周辺は、1930年代初頭に新しくできたユダヤ人たちの新築マンション地域でした。当時のアムステルダムは安全だとされていたので、ドイツからたくさんのユダヤ人が渡ってきていました。この三角広場があったおかげで、この空間を通じてユダヤ人の親も子どもも仲間をつくり、そこで様々なネットワークもつくりながら、結果的にそれが後の潜伏活動、あるいはレジスタンスの拠点にもつながっていきます。
そういう意味では「隠れ家」ばかりがアンネ・フランクやユダヤ人の代名詞のように使われるのは一面的だろうと思います。むしろ、彼ら彼女らの広場空間における自己実現、コミュニケーションそのものがユダヤ人たちの生活を規定していました。その後の弾圧から逃避、レジスタンスと様々なパターンがありますが、どのルートを辿ることになっても、やはり広場の記憶が彼らに付いて回りました。
アンネ・フランクの父オットー・フランクは、戦争終結後に失意のまま広場に戻ってきますが、彼はそこで出会った女性と後で再婚することになります。彼女は、アンネ・フランクの一家とは昔からの知り合いだったのです。やはり癒しを与えてくれるのは、広場の仲間たちでした。
もう30年以上前になりますが、私が最初にヨーロッパを訪れたときに広場を見て、日本にはない公共空間としての広場に衝撃を受けたことが、いわば原体験でした。政治学の論文を書いているときはなかなかかたちにできないでいましたが、今回アンネ・フランクに託すかたちで、広場の機能について書いてみたわけです。
やはり、具体的な「場」があることが重要です。そこで人と出会い、喧嘩をして、別れもする。場合によっては裏切りもある。そういった空間があったからこそ、その「次」を語ることができる。アンネ・フランクが2年間隠れ家であれだけ豊かな文章を書くことができたのは、広場という空間で豊かな体験と学びをインプットしてきたことが大きいのではないか、そんなことを考えたのです。
池田 アンネ・フランクの名前はもちろんみんな知っていますが、彼女の家族や友だちにはどういう人がいたのかは、あまり知られていません。オランダの歴史家リアン・フェルフーフェンが執筆して、水島さんが翻訳された『アンネ・フランクはひとりじゃなかった』(みすず書房、2022年)の表紙には、アンネが友だちの女の子たちと一緒にいる写真が使われています。
水島 アンネ、ハンネ、サンネの「仲良し3人組」を含む、アンネの仲間たちです。
池田 当たり前ですが、こんなにお友だちがいた。どんな人だって生活があって、家族がいて、市場で買い物をしているわけですが、そういう側面はなかなか見えてこなかった。今、広場こそがアンネ・フランクの素養となったのではないかとおっしゃいましたが、とても大事なことです。それは公共圏ですよね。要するにパブリックな空間です。
ユダヤ人を見棄てたことなどいろいろな問題はありますが、ヨーロッパにはやはり人々のつながりの土台になる公共圏がある。広場や大通りなどがうまく有機的に結び付いて都市空間を形成しています。
今の日本で都市計画をつくるときも、「広場をつくろう」という話が必ず出てきますが、理念なしに広場をつくっても単に空間ができるだけですよね。そこを行政が仕切って、それで終わりになってしまう。歴史的な経緯の中から労働者、商人、芸術家、ユダヤ人などがそれぞれに生活圏を築いて、それらの人的結合から空間ができてくるところには、非常に強固な公共圏ができます。けれども、それを行政が主導してつくろうとしてもむずかしいところがある。
水島 オランダに限らずヨーロッパの都市の広場は、何か起きたときにも、そこに行けば何らかの情報を得られる場所でもあります。今の日本には、そういう場所が見当たらない。阪神タイガースが優勝すれば、道頓堀に行けばファンが集っていますが(笑)、あそこを公共圏と呼ぶのはちょっと違う気もしますね。
ロシアにはそういった場所はありますか?
公共圏と民主主義を支えるインフラ
池田 歴史上は、ペテルブルクにはヨーロッパ的な価値観を共有する人たちの社交の場やつながりの場はありました。ただしロシアは身分制の名残が今でも色濃く残っていますから、それを超えてつながることは現在でもあまりないのかもしれません。帝政期の場合、与党と野党であっても、貴族や官僚の出身だったら党派を超えてつながっていました。そういう社会層の分断は強いんですよ。ですから、それを飛び越えた公共圏が現れることはあまりなかったし、もしかしたら今日でもそうかもしれない。
水島 「赤の広場」は、何かが起きたら、人々が集う場所ではないのですか?
池田 あれはもうパレードの場ですね。一般民衆が自然発生的に集まってくる場所ではないですね。どちらかと言えば、ロシアは大通りがそういう役割を果たしているかもしれません。あとは並木路ですね。
公共圏と同時に民主主義を支えるインフラも重要です。ペテルブルクの政治学者にハルホルジンという人がいますが、彼は民主主義の舞台となる場所、建物の重要性を指摘しています。典型的には議場です。議場にきちんと電気が通っているのか、あるいは議員の宿舎が整備されているのか、といったインフラが大事だと。電気が切られたら、議会ができません。実際にロシアはよく議会が破壊されていますからね。
私の同僚で古代ギリシャ史を研究されている橋場弦さん(東京大学教授)の『古代ギリシアの民主政』(岩波書店、2022年)を読むと、アテネの民主政がいかに民主主義のインフラを重要視していたのかがよくわかります。地方からきた議員の宿舎をいかに確保するのか、文字を読めない人向けの投票の器具をどうするのかなど、場所や物に細心の配慮がなされていたわけです。ドイツ史でも、先日院生に聞いたら、例えばワイマール共和国時代の議会がどのような建築物であって、その仕組みや構造がどうなっているのかを知ることが概説の導入部になっているということでした。
こうした民主主義のインフラはどこでも同じようにも見えるんですが、それをきちんと整備できるかどうかは場所によって違うでしょう。人々が集まったりアクセスできる空間をつくることは、公共圏を維持する上ではとても大事です。当たり前にも思えますが、今の歴史学できちんと考えるべきポイントになっています。
水島 そうしたインフラは、都市によっても違いがありますから、比較して考えると関心は尽きませんね。池田さんが訳出されたプラトーノフ『幸福なモスクワ』(白水社、2023年)でも、社会主義建設に邁進するモスクワの街の熱気が、さまざまな街路や建物を舞台に、臨場感あふれる筆致で描かれていますね。
池田 ありがとうございます。モスクワという名前をもつヒロインの運命が、都市モスクワと重なるように描かれているのだと思います。