選挙制度を利用する独裁者
武内 選挙はエリートの取り込みにも役立ちそうですよね。中国の村落選挙でも、特に共産党員ではないエリートが選挙に勝ったら正当性や権威が与えられると同時に箔がつくわけです。中国では、1980年代からの改革・開放政策によって農村の工業化が進んだので、それで財を成した人が私財をなげうって公共財を提供するような篤志家となる場合が結構あります。そういう人に村長になってもらうときに、村民委員会の選挙をやることで正当性が与えられます。誰が勝つかはあらかじめ決まっていますが、選挙をする意義はあるわけです。
おもしろいのは、ほかの研究者のインタビューを見ていると、村の篤志家のような人たちは村長を何期も務めるつもりはなくて、1期か2期やって別の人に代わってもらうというのがベストなようです。本業で忙しいわけですから、みんなから選ばれたということで箔がつけば目的が達せられたことになり、村長の地位にとどまることで自分のビジネスに有利になるとは思っていないんですね。
そのあたり、権威主義体制下におけるエリートの取り込みという意味では、選挙の意義をどのように考えていますか。
東島 カザフスタンとキルギスは典型的で、ロシアにも当てはまるかもしれないのですが、エリートの取り込みに対する選挙制度の効果は大きいと思っています。本のなかではあまり強調しなかったのですが、小選挙区制だと、どうしても選挙キャンペーンで選挙区に顔が利く地元のエリートたちに依存する部分が出てきて、自分たちの能力や資源のおかげで選挙に勝ったという正当性も担保されることで、地方エリートが中央政府から自立的になってしまうわけですね。小選挙区制は与党の獲得した得票率以上の議席占有率を生み出すので、より多くの有力な地方エリートを体制内に取り込むことはできるものの、副作用として自立性の高い強力な統治エリートを生んでしまう。彼(女)らは基本的には独裁者に賛成するものの、要所要所で対抗するということをやるので、独裁者自身の自前の権力基盤が強くなると小選挙区制から比例代表制に変える傾向があります。比例代表制では与党が圧勝できる確率は下がりますが、候補者は全て独裁者が決めることになるので、エリートの自立性を奪い、独裁者に従属させるような装置として機能するからです。ロシアもカザフスタンも、独裁者の求心力が高まったときに小選挙区制ベースの混合制度から比例代表制に選挙制度を変えました。
逆も起こり得ます。たとえばカザフスタンにおいて、2022年1月の大規模騒乱やロシアのウクライナ侵攻に伴う経済的打撃はトカエフ大統領の権力基盤を揺るがしかねませんでした。そうしたなか、政治改革に果敢に取り組むというアピールをしながら、昨年、2004年の議会選挙まで採用していた小選挙区制と比例代表制の混合制度に戻しました。結果的に、今年3月の議会選挙で与党が「圧勝」するうえで小選挙区制は大きな議席プレミアムをもたらしました。
武内 権威主義体制下での選挙は、誰が勝つかを決めることが目的ではなくて政権党が圧勝することが目的で、小選挙区制のほうが圧勝しやすいけれども、真にエリートを政権側に取り込むには比例代表制のほうが有効だと。ただ、比例代表制で圧勝するのは難しいので、それが独裁者にとってのジレンマになるわけですね。
選挙を行う選挙権威主義とそれ以外の権威主義を比べてみると、選挙は経済成長に影響したりするのでしょうか。
東島 選挙権威主義を経済パフォーマンスの面から比較するのは、まだあまり先行研究がありませんし、おもしろそうだなと思っています。ただ、政府統計が操作されているリスクのある権威主義体制の文脈で経済パフォーマンスをどのように測るかというところが結構難しいですよね。
ほかの研究者の分析を見ると、たとえば公衆衛生に関わる公共財をどのように分配しているのかという分析で、社会福祉の面で選挙権威主義はパフォーマンスがいいという研究があります。選挙があると、人々の支持を集めなければいけないというインセンティブがそれなりにあるため、民主主義と似たようなパフォーマンスを取るところも出てくるのかもしれません。
武内 選挙によって情報の風通しがよくなるとすれば、選挙権威主義のほうが公共財の分配も効率的になりますよね。
東島 確かに、ターゲットを絞ってできるので、効率的にはなります。ただ、選挙権威主義体制では選挙のときに社会支出を上げて、それ以外のときには軍事支出を上げる傾向があるという分析もあります。選挙のときには国民のほうを向いて分配に注力するけれども、選挙がないときにはみんなが気がつかないところでエリートに資するような軍事支出を増やしているということです。安易な経済分配は債務超過にもつながるため、長期的に見ると経済成長に効果的ではないともいえるので、結局は選挙のことしか考えていないということになりますよね。これは民主主義でもある程度似たような面があるかもしれません。
武内 以前日本比較政治学会の議論の席で、龍谷大学の濱中新吾先生が「民主主義下の選挙と権威主義下の選挙はジャイアントパンダとレッサーパンダぐらい違う」と言っていましたが、言い得て妙だと思います。そもそも同じ「パンダ」の名を冠していても、ジャイアントパンダとレッサーパンダは違う系統の動物なんです。同様に、民主主義下の選挙と権威主義下の選挙も、同じ「選挙」であっても目的が全然違うわけです。授業でこのたとえをよく使うのですが、パンダの話しか覚えていない学生がいるのは困ります(笑)。
ただ、似て非なるものだとはいえ、選挙の機能性が劣るわけではないので、権威主義政治における選挙の役割を考察することは比較権威主義研究において今後ますます大事になってくると思います。
東島 権威主義の選挙では必ず圧勝する必要があるわけですが、民主主義の選挙では勝つ必要はあっても辛勝でもいいわけです。これは大きな違いです。そうした違いを背景にして生まれる選挙不正行使のロジックはやはり全然違うと思います。経済的恩恵を受け取る代わりに投票でそれに応えるというクライエンテリズム(恩顧主義)が幅を利かすという点では共通するところもありますが、負けそうになったら不正をし、負けても選挙結果を認めない可能性が高い権威主義の選挙と、負けそうになっても大規模な不正はせず、負けたら選挙結果を認める民主主義の選挙は、はっきり別物として見なければいけないと思います。
武内 SMUのキーリー・マクネミーさんと共著で日本の自由民主党とメキシコの制度的革命党(PRI)の20世紀における一党支配を比較した論文を書いているところなのですが、PRIの選挙不正は自民党の比ではなく、日本が戦後一貫して「民主主義国」に分類されてきたのに対して、メキシコは1980年代まで「権威主義国」に分類されていたのは宜なるかなと思います。
グローバル・サウス諸国との付き合い方
武内 政治学では、「比較権威主義」というテーマはデータが取りにくいこともあって過小評価されてきました。でも、今でも権威主義のもとで暮らしている人のほうが民主主義のもとで暮らしている人より多いわけです。過去を振り返れば、民主主義のほうがはるかに歴史が浅いですから、人類はずっと権威主義のもとで生きてきたといってもいいでしょう。
今年のG7広島サミットでも話題になったグローバル・サウスの国々はほとんどが権威主義です。これから日本がグローバル・サウスの国々と関わっていくうえで、どのようなことに留意する必要があるでしょうか。
東島 中央アジアの国は全て権威主義ですが、外交をする際、権威主義・民主主義という政治体制の違いはあまり意識していないと思います。単純に政治体制だけで考えれば、中央アジアの国はおしなべて同じ体制の中国やロシアの側に立って米国に敵対するはずだということになりますが、現実はもっと複雑で、単純に政治体制で割り切れるような国際関係ではないと思います。
米国と中国の対立が深まり、「民主主義対権威主義」という言説が既成事実化していった場合、政治体制の違いが理念的対立をつくり出すということもひょっとしたらあり得るのかもしれません。シンガポール国立大学の益田肇先生が、近著『人びとのなかの冷戦世界:想像が現実となるとき』(岩波書店、2021年)のなかで、冷戦の対立も構築され想像されたものだという興味深い議論を展開していますが、同じようなことが起こる可能性はあります。
ただ、それでも「民主主義対権威主義」は「資本主義対共産主義」のような経済システムまでを内包したものではあり得ませんし、今の状況はもっとルーズというか、グローバル・サウスに属する国々がそのときどきの利害でそれぞれどっちにつくかを決めているような感じを受けます。中央アジア以外の国も同じように、「民主主義対権威主義」という政治体制の対立軸ではなく、イデオロギーよりも現実的な利害関係で動くのではないかという気がします。
武内 バイデン政権は「民主主義対権威主義」という対立軸を盛んに煽っていますが、政治体制の違いはあまり強調しないほうがいいと思います。むしろ米国は、様々な国際問題解決のために権威主義の国にどう働きかけるべきかということに注力すべきでしょう。コロナ禍で顕在化した公衆衛生の問題のほか、貧困、気候変動、テロなど中国やグローバル・サウスの国々の協力が必要な問題は多々あります。権威主義の国が民主化するのを待っている余裕はないはずです。
ところで、昨今民主主義の権威主義化がよく話題になりますが、特にトランプ政権が誕生してからの米国の民主主義についてはどう見ていますか。
東島 もちろん議事堂の占拠事件などを見ると民主主義が弱まってきている面があるとは思うのですが、一方でトランプ氏が大統領のときでも、制度が歯止めになって政権の行動をある程度制限できたという面もたくさんあったと思うんですよね。やはり米国は憲法のもとで、トランプ氏みたいな人が出てくることも見越して強固な制度づくりをしてきたわけです。トランプ政権の4年間で米国民主主義の正当性が国際的にも国内的にも大きく傷つけられたことは確かですし、それを取り戻すことは一朝一夕ではいかないと思います。ただ、制度によるブレーキが利いているという意味では、権威主義化が一気に進んでしまったトルコやハンガリー、ベネズエラとは違うといえるのではないでしょうか。
一方、制度をなかなか変えることができないと、代議制民主主義への不信がさらに高まってしまうという負のスパイラルに陥る可能性もあるとは思います。それでも、憲法がブレーキとして機能している米国の民主主義は、憲法を簡単に変えて求心力を高められる権威主義体制とはやはり別物だと思います。米国は影響力が大きいのであのような事件が起きたこと自体問題ですが、トランプ大統領のような極端なケースが出てきても、憲法によってある程度抑制が利いたのかなと思います。
そもそもトランプ氏は2016年の大統領選挙で、予備選挙という党の公認する候補を選出する制度を通して台頭してきました。やはり予備選挙では極端な考え方を持った人のほうが選ばれやすいのでしょうか。
民主主義と権威主義の将来
武内 米国の大統領選挙は二大政党制のもとでの「定数1の選挙」なので、政治経済学の中位投票者定理によれば、本選挙では極端な立ち位置を取る候補者は出てこないはずです。でも、予備選挙は投票率が低く、極端な人ほど投票所に足を運ぶ傾向があるので、各党候補者の立ち位置が左右両極に寄ってしまうことがあります。
以前の選挙では、予備選挙での立ち位置にかかわらず、本選挙では真ん中のほうに寄ってくるというパターンだったのですが、トランプ氏はそうではありませんでした。近年の大統領選挙では、トランプ氏だけでなく、2016年と20年の民主党予備選挙で候補者指名まであと一歩に迫ったバーニー・サンダース氏のように、「ぶれない候補者」が評価される傾向にあるようです。
なぜそうなってきたのかは今後きちんと検証していかなくてはいけませんが、私はソーシャルメディアの台頭が影響しているのではないかと考えています。
米国の大統領選挙では、有権者は「全国区の顔」を探そうとします。これまではテレビが全国区のイメージを構築するのに役立ってきました。でも、今の時代、特に都市部に住む若い人たちはテレビを全く見ない人が多くなっています。かくいう私も若いわけではありませんが(笑)、テレビはもっぱらスポーツ観戦のためで、ニュースはほとんど見ません。私は新聞の電子版とラジオでニュースを取っていますが、ソーシャルメディアでしか情報を取らない人が米国では過半数を占めます。ソーシャルメディアを通して全国区になるには極端な立ち位置を取ったほうが有利です。結果として、国民は穏健な候補者を選びたいのに、極端な考え方を持った候補者が台頭してくるということではないでしょうか。
ジョー・バイデン大統領は長く政治の世界にいるので穏健派でも「全国区」ですが、これからの時代まともな考えを持っている人が大統領候補になるのは難しいのではないかと危惧しています。技術革新による政治メディアの急激な変化に、選挙をはじめとする民主主義の制度が追いついていないというのが現状だと思います。
東島さんが本で議論している「民主主義を装う権威主義」の国では、独裁者がソーシャルメディアをうまく活用しているように見えます。新しいメディアと政治の関係は独裁者に有利に働いているのでしょうか。これから民主主義が権威主義化しないためにはどうしたらいいのでしょうか。
東島 権威主義体制だとメディアが独裁者の道具として占有されてしまう傾向はどうしても強くなってしまうわけで、ソーシャルメディアも例外ではないと思います。独裁選挙で圧勝するということが、経済分配などある種の独裁者の「パフォーマンス」によって支えられているのであれば、独裁者の「パフォーマンス」が落ちたときに選挙は独裁者を放逐する制度として機能する可能性も残されているわけですが、ソーシャルメディアを通じた偽情報の組織的拡散や検閲、体制による旺盛かつ巧妙なプロパガンダの展開は、そうした独裁者の「パフォーマンス」を市民が適切に評価することを難しくするでしょう。自分の取り巻きや政権に近いビジネスエリートたちだけを向いて政治を行っている独裁者やポピュリスト政治家たちが、カリスマがあり、頼り甲斐のある「救世主」としてメディアに演出されて、所得の低い人々から熱心に支持されたりすることが往々にして起こるのも、体制によるそうした情報操作の寄与するところが大きいのではないでしょうか。
そのようにして、ソーシャルメディアをはじめとした新しいメディア・ツールは、『民主主義を装う権威主義』で論じた、独裁者たちが直面する「選挙のジレンマ」を緩和するための便利な道具として使われることになります。メディアを介した市民と政治指導者の関係は、現代の独裁体制の強靭さを支えるだけでなく、トランプ氏の台頭などを見ても明らかなとおり民主主義を切り崩す際にも頻繁に利用されます。その意味で、政治体制の区別を超えた普遍的な問題であり、新しいメディア技術を政治家が選挙での支持獲得のために都合よく使わないようにするためにいかなる仕組みや制度をデザインするべきかは、世界の政治体制の将来に関わる重要な 問題だと考えています。
(終)
東島 雅昌 著
『民主主義を装う権威主義:世界化する選挙独裁とその論理』(千倉書房、2023年)画像左
『The Dictator’s Dilemma at the Ballot Box: Electoral Manipulation, Economic Maneuvering, and Political Order in Autocracies』(University of Michigan Press, 2022)画像右
たけうち ひろき:1973年東京生まれ。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)博士課程修了、博士(政治学)。UCLA政治学部講師、スタンフォード大学公共政策プログラム講師などを経て、2014年より現職。SMUタワーセンター政治学研究所サン・アンド・スター日本・東アジアプログラム部長を兼務。専門は中国政治、日本政治、東アジアの国際関係及び政治経済学。著書に『党国体制の現在:変容する社会と中国共産党の適応』(共編著)、『Tax Reform in Rural China: Revenue, Resistance, and Authoritarian Rule』など。
ひがしじま まさあき:1982年沖縄生まれ。ミシガン州立大学政治学部博士課程修了、博士(政治学)。早稲田大学高等研究所助教、東北大学大学院准教授などを経て、2023年より現職。専門は比較政治経済学、権威主義体制、体制変動論、中央アジア政治。著書に、『The Dictator’s Dilemma at the Ballot Box: Electoral Manipulation, Economic Maneuvering, and Political Order in Autocracies』、邦語版:『民主主義を装う権威主義:世界化する選挙独裁とその論理』。