『公研』2023年7月号「私の生き方」

 

元プロ野球選手、野球指導者 佐藤 義則

 

 

 

出身は北海道奥尻島

──1954年のお生まれです。ご出身の北海道奥尻島はどんなところですか。

佐藤 小さい島で、何もない静かなところですよ。一時期は観光客を呼び込もうとPRしていて、夏場になるとそれなりに賑わっていたこともあったけど、それもなかなか上手くいかなかった。

 札幌あたりに比べると、そんなに雪は降らないほうだけど、降るときはどっさり積もることもある。

 実家は漁師をやっていて、春から冬までは主にイカ釣りをしていて、冬になるとマス漁を中心にいろいろなものをやっていました。実際に爺さんに聞いたことはなかったけど、一族は秋田のほうからやって来たらしいです。後になってちょっと調べる機会があって、初めて知ったんだけどね。

──丈夫な身体や運動能力はご両親のどちらに似ていると思いますか。

佐藤 運動をやっていた姿を見たこともないから、学校で足が速かったとか、そういう話も聞いたこともないからわからないですね。ただ親父は戦争に行っていたときに「手榴弾を遠くまで投げられた」と言っていたけどね(笑)。身体も丈夫だったし、運動能力は親父に似たんじゃないかと思う。

──お母様はどんな方でしたか?

佐藤 親父は夕方には漁に出て朝に帰ってきて、昼は寝ている生活をしているから、普段は朝飯を食べるときくらいしか顔を合わせる機会がなかった感じでした。

 お袋とは、家の仕事もやっていたから常に一緒にいる時間は長かった。高校に進学するときに島を離れて、函館で下宿生活を始めてからは、いろいろと心配もしてくれました。田舎の人だからね。

 両親からはあれこれと言われたことは、ほとんどなかったね。僕も自分勝手にしていたわけではないけど、やりたいことは好きにやらせてくれた感じでした。

──お手伝いはどんなことをされていたのですか。

佐藤 釣ってきたイカをさばいて、それを広げて干してスルメにする作業です。今みたいに生では売らないからね。多いときは1000匹くらい釣れるので、毎朝、家族総出でやっていました。それが終わってから学校に行くのが日課でした。

──それはたいへんですね。

佐藤 同級生も漁師の家が多かったから、同じように手伝いをしているのを見ていて、そういうものだと思っていたね。土曜日や夏休みなんかで、学校が休みのときには漁にも出たりしていました。船の操縦はできないけど、舵を取るくらいのことはやったことがあります。

 自分で釣ったイカは小遣いになったんだけど、家の近所では買うものがなかったこともあって、中学までお金を遣ったことがなかったんです。

 

「センターからちょっと投げてみろ」

──野球を始めたきっかけは?

佐藤 野球が上手だった兄貴とキャッチボールから始めたのがきっかけでした。子どもの数も多い時代だし、みんなで遊ぶとなれば野球やソフトボールでしたね。だから、野球が好きで夢中になったというよりも、他にすることがないからやっていただけなんですよ。

 他の子たちよりも投げるのも打つのも上手かったと思うけど、当時はみんなで楽しんで遊ぶという感じでした。今のリトルリーグみたいに、小学校から野球の練習に明け暮れていたわけじゃない。それから剣道もやっていて、学校同士の大会に出たりもしました。

 本格的に野球を始めたのは、中学校で野球部に入ってからですね。これも兄貴が先に野球部に入っていたのを、追いかけるようにして入ったんです。

──北海道は冬になると寒くて家に籠もりがちになるイメージがあります。

佐藤 冬は冬なりに楽しみがあったね。山に行ってスキーをしたりね。だから、南の人たちが思うよりは、冬でもけっこう遊んでいたりする。雪が降るのは当たり前のことだから、それで家に籠もりがちになることはなかったね。

──当時、憧れたプロ野球選手はいましたか。

佐藤 特にいなかったね。友だちとグラウンドで野球をするのは好きだったけど、東京オリンピックが始まるまではテレビもなかったし、野球を観る機会もそんなになかった。北海道だから巨人戦しか映らなかったけど、目標にした選手はいなかったな。

──中学校の野球部ではやはり最初からピッチャーだったのですか?

佐藤 1、2年のときは内野手をやって、3年になってからピッチャーになりました。最初の2年間は野手をやらせて、ピッチャーは3年生のなかから選ぶのが監督の方針でした。

 島にも中学校の野球大会があって、勝ち進むと奥尻島の対岸の街も含めた檜山大会に進むことができる。そこでも勝つと、今度は函館で渡島大会があって、最後は札幌で行われる大会に行けるんです。

 3年生のときには同級生たちに上手い選手がいて、函館の大会まで進むことができて、そこで優勝して札幌での大会に出ることになった。奥尻に比べたら函館は本当に大きい街で、オレらの時代には修学旅行で行くようなところでした。札幌にいたっては、未知の国に行くようなものだね。大会に出られるだけで舞い上がっていたから、どんなふうに負けたのかも覚えていないくらいです。

 函館での決勝戦には函館有斗高校の上野美記夫監督が見にきていました。上野さんはチームで4番を打っていた同級生に興味を持ったんですね。それで島までテストをしにやってきた。このときに僕も、「センターからちょっと投げてみろ」と言われたんですよ。それでセンターから思い切り投げると、バックネットにボールが突き刺さりました。その返球を見た上野さんが家まで来て、「函館有斗で預からせてくれませんか」と申し出てくれました。

 自分は中学を出たら親の船に乗って漁に出るものだと考えていたから、高校に行くつもりはなかったんですよ。兄貴は漁が好きじゃなかったし、網元だった親の跡を継ぐのは自分かなと思っていたからね。けれども、特待生として学費の全額免除で誘ってくれたので、函館有斗高校に進むことになった。生活費の面倒も見るという話もあったらしかったのだけど、自分で工面することになりました。うちの爺さんが「飯くらいは自分で払え!」とうるさく言ったらしい。後で聞いたら、あまり優遇されることで、上級生からやっかみを受けてイジメられることを心配していたみたい。

 

甲子園をあと一歩のところで逃す

──15歳で親元から離れて奥尻島から函館で暮らすとなると、環境の違いに戸惑うこともあったのではないですか?

佐藤 函館有斗は函館大学付属の高校で、大学で事務員をされている方の一軒家に野球部の4名が下宿していました。下宿は山の上のほうの田舎にあって、そこから40分以上かけて歩いて学校に通っていました。

 3年間、野球部の練習と学校の授業に明け暮れる毎日を送っていたから、街に行って遊んだ記憶もない。だから島からいきなり大きな街に出て来ても、面食らうようなことはなかった。

──函館有斗高校は当時から強かったのですか?

佐藤 いや、強くなかったね。まだ一度も甲子園に出ていなかったし、常連校になったのは自分たちが卒業した後のことです。甲子園に出場しても一回戦を勝つのがやっとだったし、とても名門と言えるような野球部ではなかったね。

──自分の実力には自信はありました?  

佐藤 自信は別になかったね。それに函館から出て試合をしたことがほとんどなかったので、実力がどの程度なのか自分でもよくわかっていなかった。たまに大谷室蘭高校なんかが練習試合に来てくれることもあったけど、それくらいだったからね。

 高校時代も最初はサードやショートを守っていたけど、2年生の秋からはピッチャーとしてエースを任されるようになりました。函館にも2校くらいライバルがいて、そこにもよいピッチャーはいました。ただ、自分が投げればたいてい抑えられていましたね。

 3年生の春季北海道大会の決勝戦では、苫小牧工業と対戦して70の完封で勝利したんです。函館有斗が全道の大会で優勝したのは、初めてのことでした。

──やはりすごいですね。才能の片鱗が見えてきている。

佐藤 ただ一番大事だった3年生の夏の大会では、南北海道大会の決勝戦で春は勝利した苫小牧工業に20で敗れて、甲子園には行けなかった。試合が始まってすぐに、1番バッターがデットボールを受けて骨折してしまった。2年生だけどショートを守るチームの要だったから、最初から厳しい状況に追い込まれてしまった。ヒットは3本しか打たれていなかったけど、3塁打を打たれて、そのランナーをスクイズで返された。

 相手投手の工藤敏博さんはシュートピッチャーで、それを打てなかった。甲子園に行くためにずっと頑張っていたわけだから、あと一歩でそれを逃したのは本当に悔しかった。いま思い出しても悔しい。

 結局、全国大会で投げる機会は一度もなかったから、自分の実力をはかることがないままに高校時代を終えることになった。ただ、日本大学の北海道担当のおじいさんスカウトが関心を持ってくれて「大学セレクションを受けてほしい」と声が掛かった。その頃もう就職先も決まっていたから進学するつもりはなかったんだけど、東京まで行って選考会で投げてきた。

 北海道から出たことがなかったから東京に行きたいというのもあったけど、選考にやってくる選手たちを見てみたいという気持ちがありました。甲子園に出た選手もたくさん呼ばれていましたから、自分の実力がどのくらいのものか知りたかったんです。

 セレクションではすごく調子がよかったこともあって、スカウトから「ぜひ来てほしい」と熱心に口説かれるようになったんですね。学費もすべて免除してくれるということでしたから、やれるところまで挑戦しようと決めました。

 

拓銀に内定をもらっていた

──ちなみに就職先はどこに決まっていたのですか?

佐藤 北海道拓殖銀行でした。

──ご両親としては手堅い銀行のほうが安心されたかもしれないですね。

佐藤 末っ子だったこともあって、そのあたりは自由にさせてもらっていました。確かに銀行は手堅いけど、拓銀は1997年に破綻したからね。就職していたら、働き盛りに路頭に迷っていたかもしれない。本当に先のことはわからないよ(笑)。

──東京での暮らしが始まります。楽しかったですか?

佐藤 いや楽しかったね。1年のときは当番制で寮の仕事をやらなければならないので忙しいけど、2年生になってくると外に遊びに出る余裕も出てくる。お酒も飲むようになっていたから、練習が休みの前の日なんかには新宿によく繰り出しました。野球部の寮は世田谷にあったから、飲みに行くのは新宿でしたね。

──大学でも活躍されてプロを意識されたのは?

佐藤 3年の終わりですね。2年生で日米大学対抗、3年生のときにアジア大会の日本代表に選ばれたんです。4年生の秋には78奪三振の東都大学リーグのシーズン最多記録も達成しました。よその大学でドラフトされたピッチャーを見ていて、自分も頑張ればプロになれると実感するようになったね。

──同世代で野球をされていた人で有名な選手は?

佐藤 オレらの世代で一番騒がれていたのは、法政にいた一つ下の江川卓だろうね。ただ法政とは練習試合でよく対戦していたけど、江川と一緒に投げる機会は一度もなかった。

──佐藤さんのなかではライバル意識はありましたか。

佐藤 ないです。後輩だし、リーグも違ったからね。

 

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