『公研』2021年10月号「めいん・すとりいと」
2021年9月末、ドイツ総選挙。一部投票用紙の未達などの混乱はあったものの、ほぼつつがなく終了した。結果を受け、すでに平穏に連立政権交渉に入っている。その民主的な平々凡々がいかに大事なものか。香港やアフガニスタンを見るまでもなく、アメリカ大統領選挙後に現職大統領が促した暴力的な議事堂占拠などを思い起こすとき、そう感じる。
メルケル氏が担った16年の治世は、評価の分かれるところだ。経済成長や失業率では良好だった一方、格差が広がった。原発をやめる方向に踏み出した一方、脱炭素化への足取りは重かった。輸出で稼ぐドイツを後押しした一方、中国べったりの状態がながらく続いた。もともと、後出しじゃんけんのように、最後に正論を持ち出すタイプで、何かを自ら主導したことはそう多くないが、顕著な例外が難民危機での対応だった。2015年の夏に「ドイツにはできる」と彼女が門戸を事実上広げた結果、100万人もの難民が押し寄せた。そのコストは、極右勢力・ドイツのための選択肢(AfD)の台頭だった。
しかし、ドイツの政党デモクラシーは生き残った。メルケル曰く、「デモクラシーのために日々何度でも努力しなければならない」──。評価はいろいろだが、彼女が対話を重んじ、暴力を控え、自由、法治、そして民主の側に立ってきたのは否定しがたい。その姿勢が当たり前ではなくなった時代にあって、ドイツのデモクラシーは、メルケルの遺産のうえに続いていく。
実際のところ、選挙結果を見る限り、それは良い方向に更新されていくように映る。最も伸びたのは、雇用や賃金を重んじ、経済の安定の延長上で社会や環境といった進歩的な価値観を打ち出した社会民主党(SPD)だった(得票率25.7%、議席数206)。一時支持率でトップを走った緑の党はやや失速したが、14.8%、118議席を得た。SPDの勝因は、ショルツ首相候補の際立った安定性に加えて、労働者の支持を取り戻し、若者をも惹きつけたところにある。なお、市場の自律性を重んじる自民党(FDP)も票を伸ばし、11.5%、92議席を獲得した。10月初頭段階では、この三党の「信号機連立(赤緑黄)」が有力視されている。選挙時・後の世論調査を見ると、キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)の政権維持、とりわけラシェット首相候補に対して、世論は否定的だったと言える。同盟は戦後最低水準の24.1%にまで得票率が落ち込んだ。また、AfDは10%ほどで伸び悩んだ一方、ドイツの政治風景になじんでしまった。
問題は、ドイツの安定の裏側にある。アメリカがふらふらし、中露などの権威主義が興隆する中、ドイツとEUが世界の自由や民主を担う一極をなすべきなのだが、選挙戦のさなかのドイツは、地球環境などの争点を除けば、いつも通り内向きだった。その力に対して、意志が追い付いていないのは、戦間期のアメリカに比類する。それでは困るのだ。
もし「信号機連合」となって、緑のベアボック党首が外相職を得れば、中露などの権威主義への対抗をよりあらわにするだろう。FDPも中国に批判的であり、新政権は中露に厳しくなる可能性はある。しかし、SPDは前政権の一部だったのであり、FDPとともに産業界の意向を無視するわけにもいかない。おそらく変化は微妙かつ漸進的なものとなろう。
デモクラシーの危機と権威主義の勃興。メルケル政権は後者に対処しきれなかった。ドイツの新政権が、メルケルの肯定的な遺産に依拠しつつ、どう世界の問題に取り組んでいくのか。熱く厳しい視線がそこに注がれている。 北海道大学教授