『公研』2026年4月号 第675回 「私の生き方」
しおた ちはる:1972年大阪府生まれ。京都精華大学洋画科卒。ベルリン在住。糸を用いた大規模インスタレーションで国際的に高い評価を受け、生と死、記憶、不在と存在をテーマに作品を制作。2008年芸術選奨文部科学大臣新人賞、25年同大臣賞受賞。15年第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館代表作家。主な個展に森美術館、グラン・パレ、K21、グロピウス・バウ、大阪中之島美術館など。
精神世界を求めた子ども時代
──1972年大阪府岸和田市のお生まれです。塩田さんの中でいちばん古い記憶を教えてください。
塩田 小学校の初日の出来事です。それが夢なのか現実なのか今もよくわからないのですが、初日なのに転校生が来ていて、同じクラスに私にそっくりな子がいるとみんなが話していたことがありました。私もその子のことがすごく気になって見てみたら、確かに私に似ていて、それが今でも続く大親友になりました。ベルリンでの私の結婚式にも来てくれて、今も連絡を取り合っています。なぜかその時の教室の様子だけがすごく鮮明に残っています。記憶の中の記憶のような感じですね。
──小さい頃はどこで過ごすことが多かったですか?
塩田 実家の私の部屋の窓を開けると、目の前には大きな池が広がっていて、まるで湖のような水平線が見えるんです。その池を見ながら育ちました。池の周りでは、若い人からお年寄りまで、いつもみんなジョギングなどをしている。それを横目で見ながら、詩を書いたりしていました。小学生の頃です。
実家は魚や果物の木箱を作る工場を経営していました。工場が家のすぐそばにあったので、その音を聞きながら育ちました。高度経済成長期のど真ん中でしたから、両親は本当に忙しくて、朝から晩まで働きっぱなし。なので、二人の兄に育ててもらったような感覚があります。
夏休みの間は、私もよく工場を手伝わされました。朝8時に従業員の人たちが来て、夕方6時まで働いて、機械みたいに帰っていく。その姿を見ているうちに、だんだんとそういう世界が嫌になってくるんですよね。物質的な世界よりも、もっと精神世界のほうへ行きたいと考えるようになりました。死とか、自分とは何だろうとか、そういうことに興味を持ち始めていました。
──子ども時代から死に関心を持たれていた。何か原体験があったのでしょうか。
塩田 両親は高知の出身で、夏休みのお盆の時期になると、毎年みんなで高知に帰っていました。忙しい家族の唯一の楽しみです。両親の実家が土佐清水市の足摺岬のほうなので、車を大阪南港からフェリーにのせて行きます。一晩船に乗って朝になったら高知に着く。毎回、まるで異国に来たような気持ちになるんです。父親も急に土佐弁になったりして、すごく嬉しそうでした。
高知に帰ったらまずお墓参りに行きます。土葬文化がまだ残っている地域でした。土葬ってどうしても怖いじゃないですか。土の中から祖母の吐息が聞こえてくるような気がして。祖母が眠っている上に草が生えていると、まるで祖母の栄養を吸って草が生きているように感じる。その草を抜くことが、すごく怖かったのを覚えています。未だにこの時の手の感触は忘れることができません。
しかも、記憶なのか夢なのか曖昧ですが、お墓参りのときに兄と一緒に火の玉が飛ぶところを見たんです。死への興味は、今後の制作にも繋がってくるような、ぼんやりながらも強い記憶です。

美術で生きていくと決めた12歳
──学校の授業にはおもしろさを感じていましたか?
塩田 小学校の時は何も考えていなかったですね。中学校の授業はあまりおもしろくなかったです。とにかく絵を描くのが大好きな子どもでした。小さい頃って、人より上手くできることがあると嬉しいじゃないですか。先生にも褒められるし、授業で描いた絵が必ず廊下に貼り出されたりして。だから、どんどん描くのが好きになっていきました。
近くに絵画教室ができて通い始めたら、もっともっと好きになって。12歳の時には、絵描きになりたい、美術で生きていくと決めていました。それ以外のものになりたいと思ったことはありませんでした。
──12歳でそこまで強く決めることが驚きです。
塩田 ただただ描いていて楽しかったんです。スケッチブックがどんどん溜まっていくのも好きでした。紙と鉛筆を渡したらずっと描いてるいる子ども時代でした。
──子どもの頃はどんな絵に惹かれていましたか?
塩田 私があまりにも絵ばかり描いているから、ある日母親が大阪でやっていたゴッホ展に連れて行ってくれたんです。母はすごく忙しい人だったので、とても珍しいことでした。ゴッホが特別好きというわけではなくて、たまたま連れて行ってもらえたのがゴッホ展でした。
そこで見た《疲れ果てて:永遠の門にて(At Eternity’s Gate)》という作品がすごく気にいったのを覚えています。タイトルの文章もすごく綺麗ですよね。椅子に腰かけて頭を抱えている老人の絵です。その心情と絵とタイトルに強く惹かれました。カタログも買ってもらって、後で見ながら、すごくいいな、いいな、なんて思ったりして。小さい頃から楽しく綺麗な絵よりも、どこか内面を表すような暗い絵に惹かれていたのかもしれません。
絵が描けない苦悩
──1991年、京都精華大学美術学部洋画科に進学されます。絵描きへの夢を着実に追われています。
塩田 そうですね。でも、大学1年生の時に絵が描けなくなってしまったんです。何を描いても人のものまねにしか思えなくなってしまって。描くこと自体は楽しかったのですが、もっと自分らしい絵が描けないのかとすごく苦しんでいました。
そんな時に、交換留学をする機会がありました。サンフランシスコとキャンベラのどちらかを選べたのですが、大自然のほうがいいなと思って、キャンベラのオーストラリア国立大学スクール・オブ・アートを選びました。そこで何か見つかればいいなと思っていたんです。
でも、結局留学先も絵画科だったので、みんなが絵を描いているのに、自分は描けなくて本当に苦しかった。こんなにも絵を描くのが好きなのに。自分とは何だろうとか、作品をつくることとは何だろうというところで、動けなくなってしまっていたんです。
そんな時にある夢を見ます。自分がキャンバスの中に入って、どう動けばこの絵が良くなるのかを、ずっと考えている夢でした。絵の中に入るということは、平面の中に入るということです。なので、だんだん息が苦しくなって呼吸ができなくなってくる。そんな夢です。
その何日か後に、エナメル塗料のペンキを買ってきて、それを頭から被るパフォーマンス作品をつくりました。《絵になること(Becoming Paint)》です。そうすることで、初めて自分の作品ができた気がした。自分と作品の繋がりがより強く感じられたのです。
──大胆な作品です。エナメル塗料が、その後も半年近く皮膚に残り続けたと聞きました。その残り方まで、どこか作品の延長のようにも感じます。その皮膚を見て何か感じたことはありましたか?
塩田 ただバカなことしたなぁって(笑)。後のことを本当に何も考えていなかったんです。そこまで毒性があるとも思っていなかった。ドロッとした強いエナメル塗料で、被った直後から皮膚が焼けていくような感覚がありました。塗料が付いた髪の毛も切らないといけなかったです。
でも、もしかしたら何かが皮膚に残ったのかもしれないですね。泥水を浴び続ける《バスルーム》(1999年)という作品や、ドレスに泥をつけ、それをシャワーで洗い流す《皮膚からの記憶》(2001年)という作品にも、そうした感覚は繋がっている気がします。皮膚に刻まれた記憶というか、洗っても拭い去れない記憶のようなもの。
──今も絵からは距離を置いているのですか?
塩田 それから10年くらいは絵が描けなくて、パフォーマンスやインスタレーション作品をつくっていましたが、今はもう絵も描いているんですよ。小さい作品ですけど、糸だけで編み込んだ絵などです。
──何かきっかけがあったのでしょうか?
塩田 私はこれまでに2回がんになっているんです。1回目は2015年で、卵巣がんでした。その出来事がすごくショックで、その時に10年ぶりにドローイングが描けるようになりました。それまでは、テクニックだけで描いていたというか、描けたら楽しいと思って描いていたんです。でも、その時に初めて目をつぶった心の中に描きたいものが出てくるんだってわかったんです。描くっていうのは、目で描くことじゃなくて心で描くことなんだって。そこからまた絵が描けるようになりました。

