鼓直先生の謦咳に接する
──いまガルシア=マルケスの『百年の孤独』の文庫版が新たに発売されて外国文学としては異例のベストセラーになっています。翻訳された鼓直さんは、神戸市外国語大学で助教授をされていました。木村さんとは師弟関係にあったわけですが、鼓さんはどんな方でしたか?
木村 たしか、ぼくらが2年生の時に神戸外大に赴任してこられたんです。4、5年で関東の大学に戻られるとのことだったんですが、授業は本当に素晴らしくて、講読のときは、生徒はみんな先生の名訳に聞きほれていました。授業が終わると、どうしたらあんなすばらしい訳ができるんだろうと、クラスメートとよく話し合ったものです。
ぼくはその後助手として大学に残って、2年ばかり鼓先生の謦咳に接することができたのは幸運としか言いようがありません。先生はやがて関東の大学に移られるんですが、関東に出張するたびによくお邪魔させていただきましたし、本についての話を通してラテンアメリカ文学の現状を教えていただいたりと得難い知識を身につけることができました。
その頃にガルシア=マルケスの『百年の孤独』の翻訳が出版されたのですが、これが名訳だというので大評判になり、スペイン語文学の訳書の信頼度、評価もこの一冊の翻訳で高まったと言っても過言ではありません。
マルケスの物語作りの秘密
──今回久しぶりに鼓さんが訳した『百年の孤独』を読みましたが、やはりおもしろいですね。幻惑的で荒唐無稽な話なのに、妙にリアリティがあって、読み進めてクラクラするのが心地良い。
木村 本当に物語の作りが上手いですね。『百年の孤独』は、マルケスが小さい頃におばあさんが語ってくれたように物語を書くことがきっかけになっています。「マジックリアリズム」と言わたりする奇想天外なエピソードは、ケルト系の血を引いているおばあさんによる影響が強いとされています。ケルト系の伝統は、ヨーロッパ文学、あるいはその亜流と言えるような地域の文学に本当に強い影響を与えていますね。
──日本で言えば縄文的と言うか、ヒトが動物に近い頃の感覚が散りばめられている印象を受けます。
木村 わかりますね。そういう非常に「生のもの」がね、洗練されたり構築されたり工作されたりしないで、そのままドンと出てくるような圧迫感がある。マルケスはそのパワーが凄まじいものがあります。
物語はリョサのほうが話をつくるのはうまいのだけど、残るものがないんですよ。ぼくはリョサの大作『緑の家』を翻訳したけど、仕事を終えても何かが残った気がしないんですよ。
──出汁が効いていない感じですか?
木村 そうそう。物足りなさを感じるんですね。マルケスの短編のほうが遥かに残るものがあります。短編集『エレンディラ』はあんな無茶苦茶な話ばかりなのに、独特な読後感がある。
──『エレンディラ』は良いですよね。大好きな短編集です。
木村 奇想天外で荒唐無稽な話ばかりだけど、コロンビアでは現実に似たようなことがあったんでしょうね。マルケスの良さやパワーの源は、ヘンに紳士ぶったり大作家のように振る舞わないところですよね。「こんな少女に売春させて許されるのか」といった倫理的で、説教染みたことは言わない。
──翻訳者によって作品の印象がずいぶん変わるものだと思います。木村さん版の『百年の孤独』を読んでみたい気もしますが…。
木村 いや、いや、鼓先生の翻訳の向こうを張るなんて、「おい、百年早いぞ」と叱られそうで、できませんね。
『百年の孤独』は人類史の縮図
──これから『百年の孤独』を読まれる読者に脱落しないための助言をいただけますか。
木村 律儀に一言半句を逃すまいとせずに、飛ばし読みすればいいんですよ。少しスピード感を持ってお読みになったら、意外にはかどると思いますよ。そしてまた前に戻って再読したらいい。
話の内容について触れれば、『百年の孤独』はマコンドという架空の街の誕生から、消滅までの過程を描いていますが、これは人類史の縮図であると見ることができるということです。ブエンディア一族の人たちに目を向けると、同じ名前が繰り返し出てきますが、それ自体が反復であり、円環になっています。ホセ・アルカディオ・セグンドとアウレリャノ・セグンドをのぞいて、一族の内でアウレリャノを名乗る者は内向的だけど頭がいいのに対して、ホセ・アルカディオの名前が付いた者は衝動的で度胸はいいが、悲劇の影がつきまとっています。名前とともにその性格と運命も反復される構造になっています。
女性たちは嫁いできた者たちを含めると複雑になりますが、ウルスラの名前が付いた者は近親相姦の呪縛にかかっている。このあたりを意識しながら読み進めると、だいぶすっきりされるのではないかと思いますね。
マルケスの途上国の作家としての視点
──今「グローバルサウス」という言葉が流行っていますが、マルケスはまさにそうした地域を代表する作家とも言えますね。
木村 今、昔出版したガルシア=マルケスの『物語の作り方:ガルシア=マルケスのシナリオ教室』という本の改訳をしていて、来年には出ると思います。この本などはガルシア=マルケスの途上国の作家としての視点がうかがえておもしろいかもしれませんね。
彼は小説家として一本立ちできるようになるまでは、新聞記者をやったり、雑誌に記事を書いたりして何とか生計を立てていました。それが『百年の孤独』で大ブレークして世界的な作家になり、その後も『族長の秋』、『コレラの時代の愛』といった傑作を書き続けたんですね。
そうした小説家としての活動とは別に、キューバのハバナとメキシコを拠点にして映画産業で食っていける人材を養成するための教育機関「国際映画・テレビ学校(EICTV)」の設立にも関わっています。マルケスはカストロと親しかったですからね。この本で彼は、若者たちと一緒に30分のテレビドラマを制作するために、シナリオを書くにはどうすればいいかについて徹底的に討論しているんですね。この議論からはマルケスがどういうふうに発想して、あの奇想天外な物語を紡いでいったのかが見えてきます。かなりいい加減なシナリオの作り方をしているのだけど、それがまたすごくおもしろい。
それから、将来的には若者たちが映画やテレビ産業でお金を稼げばいいと本気で考えているところも興味深いんです。現在、中南米諸国は第一次産業に乗り出していける状態にはありませんからね。中南米は、結局は先進国の下請けみたいな役割を強いられている。そこをどういうかたちで突破するかが、発展途上国のこれからの責務でしょうし、ガルシア=マルケスはその一助になればと考えて、シナリオ教室や映画学校をつくり、自らも援助を惜しまなかったんです。
『物語の作り方:ガルシア=マルケスのシナリオ教室』は20年ぐらい前にもぼくが訳して出したんですが、今回改めて翻訳してみてマルケスがさらに好きになりました。我々がイメージとして持っている大作家の雰囲気とはずいぶん違うマルケス像が見えてくるに違いありません。