『公研』2024年8月号「めいん・すとりいと」

 

 昨年八月号の「めいん・すとりいと」欄の「まにあっています」という小文で、ある寺院のある仏像の調査をお願いしたものの、住職からとにかく拒絶され、最後は「まにあっています」と電話を切られてしまった、という顚末を語った。

 わたしが仏像彫刻の歴史の勉強をはじめてから、すでに半世紀になるが、はじめ国立博物館の研究員という身分をえて、のちには国や自治体の文化財審議委員ともなって、仏像の実地の調査の機会を多くつくってきた。所有者や管理者の理解をえるには最適の立場であった。研究対象たる仏像に接近することが多くの場合かなえられた。

 しかしながら、「多くの場合」というのは、研究対象がすでに国宝や重要文化財など、文化財としてゆるぎない価値が共有されている場合の、いわば「選ばれし場合」でもあった。すでに著名な仏像は、所蔵者も管理者も、そしてそれをとりあげる研究者も出版関係者も、展覧会などであれば博物館・美術館も共催者も、その著名な仏像の「あつかい方」や「あつかわれ方」を共有しており、そのうえでそれらの度合いをそれぞれの立場で確かめあっていたのだ。

 問題は無名の仏像である。昨年の「まにあっています」の話題になった仏像もその例だった。わたしがご開帳の際に拝観し、価値を認識し、その寺院や地域の歴史を知るうえでの意義も予想できたので、行政も通して調査をお願いしたのだが、所有者たる寺院の住職から全面的に拒絶されたのだった。その住職だって、観光寺院で著名な仏像を拝観なさったことも、博物館・美術館で仏教美術を鑑賞なさったこともあるかもしれない。しかし、ご自身のお寺の仏像を、著名な仏像と同じにしたくはないのだろう。

 つい最近、『月刊住職』という雑誌で、「文化財に指定されて公開義務の負担に苦慮するお寺の実際検証」という特集が組まれた(二〇二四年八月号。タイトルは目次から)。記事の結びによれば、「取材したどのお寺も工夫しながら公開に応じ、また普段は非公開であってもホームページなどで情報発信しているのが印象的だった。一方で〈文化財〉という見方が、信仰空間への視点を失わせる危惧も感じられた」のだそうだ。仏像の公開に応じている寺院は、それらの文化財としての価値を周囲と共有しているから、そうしておられるのだろう。後段の「危惧」をも克服して、信仰への視点も確保しようと努力しておられるにちがいない。しかし、記事が語るように「公開義務の負担に苦慮」する寺院も多いことを思うと、まだ研究対象となった経験のない仏像をまつっておられる寺院にとっては、仏像が調査され、突然「文化財」となることを恐怖に思うのも想像はつく。

 昨年も書いたことだが、多くの人びとの信仰を受けとめてきた仏像の歴史を現代の研究で明らかにすることは、いま信仰対象として仏像をまつる寺院にとっても意味あることである。研究との出会いによって仏像が「文化財」となることは、決して「信仰空間への視点を失わせること」ではない。仏像を信仰の歴史のなかに、信仰の空間のなかに、位置づけるためにも必要なはずである。それが理解されていないのは残念だ。

 仏像という信仰対象をおびやかしているのは、実はそれらが文化財となることではなくて、国や自治体の文化財行政が、文化財の「公開」や「文化的活用」をいたずらに喧伝し、ことに観光に結びつけていることなのではないかと思う。

 仏像をまつる寺院やその管理者が「公開義務の負担」の影におびえ、仏像のあらたな調査の機会が減少すれば、あらたな文化財としての仏像の登場には期待がもてなくなる。そして仏像にかかわる研究活動の規模もしだいに小さくならざるをえないとすれば、それは既存の著名な仏像から、あらたな価値をみいだす可能性をも奪ってしまう、憂慮すべき事態なのである。

鎌倉国宝館長、半蔵門ミュージアム館長

 

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