堀越 英美 『公研』2020年1月「めいん・すとりいと」

 自閉症スペクトラムの次女が小学校の特別支援学級に通っている関係で、区の支援学級連合運動会を参観する機会があった。ダンスにかけっこと、運動会の種目は一般的なものばかりだが、子供たちの障害のあり方はそれぞれだ。運動機能に支障のない子供もいれば、まっすぐ走れない子供もいる。じっとしていられない子供、同じ場所でくるくる回り続けている子供、そして次女のように、周囲に合わせ遅れて振付をまねるのに精いっぱいの子供……。怒られこそしないが、好きな音楽に合わせて自由に踊っているときのような笑顔はない。障害を持った子供たちのおかげで、みんなで同じ動きをする運動会というイベントの「変」さに、改めて気づかされた。

 運動会で苦労しているのは、障害のない子供たちも同様らしい。運動会の練習から帰ってきた長女が、行進で足並みをそろえないと先生に怒鳴られるのが軍隊みたいでいやだとこぼしたことがある。彼らは彼らで、「みんな同じ」をより厳密に求められているのだ。  日本の運動会の歴史をたぐれば、明治半ばに「従順ノ習慣」「相助ノ情」「威儀」を養成するべく兵式体操を広めようとした初代文部大臣森有礼が、そのお披露目の場として運動会の開催を全国の小学校に奨励したことに始まる。行進が軍隊式なのも、教師が勉学以上に厳しく指導するのも、「〝従順ノ習慣〟を養成したことをお披露目する場」であることを思えば、当然なのだった。

 対照的に思い起こされるのが、『窓ぎわのトットちゃん』(黒柳徹子)に登場するトモエ学園の運動会だ。自由すぎて小学校を退学になったトットちゃんを受け入れたトモエ学園は、何もかもが型破り。運動会も例外じゃない。鯉のぼりの中をくぐりぬけたり、細かい階段を昇降するリレーといったユニークな競技で、常に一等をかっさらうのは障害のある高橋君だ。オリジナル競技はどれも、一番背が低く手足の短い高橋君がその特性を活かせるように校長が考案したものだった。ここで得た自信を武器に、大人になった高橋君は会社員として活躍する。

 トモエ学園の教育は、子供を矯正して型にはめるのではなく、子供のデコボコを尊重し、そのまま伸ばすというもの。発達障害という概念もない時代に、多動気味で規律を乱すトットちゃんが萎縮することなく才能を開花することができたのも、運動が苦手で実験ばかりしていた「泰ちゃん」がのちにフェルミ国立加速器研究所の副所長になったのも、この学校の教育があればこそだ。近年、自閉症やADHD(注意欠陥・多動性障害)などを障害として分断するのではなく、技術と文化の発展に貢献する多様性の一部として包摂していこうとする「ニューロダイバーシティ(脳の多様性)」という考え方が広まりつつあるが、まさにトモエ学園はその先駆けといえる。

 もちろん一般の小学校だって、「個性の尊重」ぐらいは謳う。それが多様性につながらないのは、「みんなで我慢」「嫌なことでもがんばろう」という〝従順ノ習慣〟を仕込むことに熱心すぎるせいだ。動きをそろえるように怒鳴られてばかりいる子供たちは、型にはまれない支援級の子供たちをずるいと感じるようになる。形だけのインクルーシブ教育とは裏腹に、両者の溝は深まる一方だ。ダイバーシティというと、少数派への特別な配慮がまず想起されるが、それだけでなく「自分は自分のままでいい」と構成員一人ひとりが思えることが重要なのではないだろうか。作家

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