『公研』2024年9月号「めいん・すとりいと」
日本銀行による最初の利上げのきっかけは春闘での賃上げが高い伸びになったことだった。興味深いのは両者のタイミングだ。連合が集計結果を公表したのが3月15日、日銀が利上げを決めたのはその4日後だ。
利上げとなれば住宅ローン金利に影響する。苦労して勝ち取った賃上げの一部が間髪入れずの利上げで帳消しになったという不満が労組から聞こえてくるのも納得できる。労組の欲張りで賃上げが行き過ぎ、懲らしめなければいけない。そう考えた中央銀行が鉄槌を下すように利上げをする。これであれば労組も文句を言えまい。
しかし実際はそうではない。日銀は賃金の上昇率が低すぎると考えていた。そう考えるのであれば、本来は、金利を下げるなどして、賃金の押し上げを図るべきだった。しかし日銀はそれをやらなかった。
その代わりに何をしたのか。実は日銀は何もしなかった。理由はある程度、察しがつく。10年間にわたった異次元緩和は効果が限定的で副作用も大きかった。そもそも金融緩和をしようにも有効な手段がない。そうした状況の下で日銀は何もしないことを選択した。
日銀の戦略は何だったのか。何もせず、ひたすら僥倖の訪れを待つーーこれだ。僥倖を待つ戦略はこれまでのところ成功したようにみえる。しかしそもそも僥倖を待つ戦略とはどう理解すればよいのか。米国の例が参考になる。89年12月のことだ。FOMC(連邦公開市場委員会)の議題は、当時進んでいた高インフレ(消費者物価上昇率で約5%)の克服のために利上げをすべきか否かだった。
ひとりの参加者が発言した。「何もせず待てばよい」と。どういうことか。利上げをすれば失業が増える。そのコストを誰も払いたくない。だったら何もせずに待てばよい。待っているうちに不況が来る。そうすればいやでもインフレ率は下がる。利上げで余分なコストを払うことなくディスインフレを実現できる。
この考え方はディスインフレの機会主義的アプローチとよばれ、注目を集めた。賢い方法のように見える。しかし反対論者は次のように主張した。Fed(連邦準備制度)議長が5%は高すぎる、本音は2%まで持っていきたい、しかし失業のコストを払うのは嫌なので機会主義的に行動すると決めた、ということだとしよう。これに対して、仮に議長が本音では5%のインフレでちょうどよいと考えている場合も「行動」は何もしないだ。どちらの議長も何もしないという点で同じということは、市場は、何もしないというFedの「行動」から議長の本音を知る術がないということだ。仮に議長が前者だったとしても後者と疑われてしまうリスクが生まれる。つまり、Fedへの信認が揺らいでしまう。
話を日銀に戻そう。何もしないで僥倖を待つことを選択した日銀は機会主義だったとみることができる。そうだとすると日銀への信認が損なわれることはなかったのだろうか。
じっと待つだけで何もしない。そして僥倖がくると即座にそれに便乗して利上げをする。この「行動」だけを観察していた異星人(日本語も英語も理解できない)がいたとして、「日銀は賃金を上げたがっている」と推理することは決してない。むしろ賃金の上昇を嫌がり、それを阻止しようとしていると推測するだろう。
中央銀行の「行動」と言葉は、通常、同じ方向を向く。それによって言葉の重みが増す。これに対して、今の日銀は、やっていることと言っていることが違うという意味で、非常に特殊な状況にある。中央銀行のコミュニケーションは常に大事だが、その重要性はいつにも増して高まっている。東京大学教授