『公研』2025年11月号「めいん・すとりいと」
先日、国公立大学法学部連絡会議に参加してきた。これは全国の国公立大学の法学部長が集まり(コロナ禍以降はオンライン開催)、毎年、特定のテーマについて話し合いを行うものである。友人の法学部長経験者はこれを「地上で最も無意味な会議」と呼んでおり、私もその点は同感なのだが、今回は一点のみ感じるところがあった。
今回の統一議題のひとつに、障害者差別禁止法に規定された障害のある学生への「合理的配慮」の問題があったが、どこの大学でも大なり小なり、その対応に苦慮しているのが印象に残ったのだった。
この件、私の勤務校でも様々な問題を抱えており、現在進行形で学内体制の改善に努めているところだが、この「合理的配慮」の要請は、実のところ「学問の自由」やそこから導出される「教授の自由」との間に鋭く繊細な緊張関係を孕むものであることが良く理解されていないのではないかという懸念を強く持っている。
視聴覚や四肢、内臓器官に起因する器質・機能的な障害(インペアメント)に関しては、やるべきことが明確で対応しやすいのに対し、精神疾患(特に発達障害)に起因する社会的障害(ディスアビリティ)に関しては、合理的配慮の依頼内容が不定型であるのみならず、講義やゼミの開講様態(中身)にまで直接容喙して来るものさえ存在し、対応に苦慮することが少なくない。
加えて依頼される配慮の内容が、客観的な成績評価(単位認定)の観点から、果たして他の学生との間で「公平性(フェアネス)」を担保し得るものなのか難しい状況さえ発生している。
具体的な事例を挙げることができれば、もっとクリアに問題状況を理解してもらえるであろうところ、個別ケースに関わる当事者のプライバシー(情報)保護の問題もあり、それができないのは申し訳ないところだが、法哲学者として見る限り、ここには積極的差別是正措置=AA(あるいはポジティブ・アクション)にまつわる様々な論点がそのまま露出しているようにも見える。
先述の会議以外で聞いた他大の事例では、この種の問題を一手に扱うダイバーシティ推進部局が障害当事者学生本人の意思を超えた過剰な配慮要求を行い(過度なパターナリズム、あるいは越権代理)、混乱を来しているケースもあるという。こうなってしまうと、もはや「多様性」の推進者は、現場を無視してイデオロギーを振りかざす「政治将校」のごとく振る舞っているようにさえ見えてしまうのである。
この問題に関して所管の文部科学省は、いつも通り、誠実な回答からひたすら逃げ回り、まったく何の役にも立たないという平常運転を遂行しているが、伝統的な憲法価値(学問の自由)やAAにまつわる問題など、近代的価値に基づく基本的諸論点(諸原則)をないがしろにしたまま、「よかれ」と思って行われる「配慮」が深刻な問題状況を惹起していることは、もっと自覚されてしかるべきであるように思われる。
第二次トランプ政権成立以降、「反DEI」の嵐が吹き荒れているが、それには理由があるのであって、どうあってもなされるべき「配慮」も含む全てが押し流されてしまわないようにするためにも、今こそ立ち止まって「多様性」への健全な懐疑精神を持つべきではないだろうか。
東京都立大学法学部教授
