『公研』2023年8月号「interview」
電気事業に関する制度の弊害が顕著になっている。
その根幹には何があるのか?
また、従事する人たちの思いや声はどのように国政に伝えられるのか?
昨夏に参議院議員に初当選した竹詰仁さんにお話を聞いた。
国民民主党 参議院議員 竹詰 仁
政治に訴えない限り現状を変えることは難しい
──竹詰さんは昨年夏の参議院議員選挙で参議院議員に当選されました。出馬に至った経緯をお聞かせください。
竹詰 私は電力総連の組織内議員です。東京電力労働組合は私の前任にあたる小林正夫さん(3期18年)、その前の長谷川清さん(2期12年)と参議院議員を輩出してきました。今の私の議席は、先輩方が脈々と繋いできたものです。小林正夫さんが75歳になられて引退されるにあたり、東京電力労働組合の中央執行委員長を務めていた私が後を継いで出馬した経緯があります。電力関連産業で働く仲間の代弁者として、政治の世界でしっかりと声を出していきたいと考えています。
私は2000年から東京電力を休職するかたちで、労働組合の専従役員を続けてきました。組合の大きな役割は、会社と賃金や労働条件などを交渉することにあります。この労使交渉によって状況が改善されることもたくさんあります。しかし、電力業界の場合は今のシステム改革に象徴されるように、大枠が国のエネルギー政策によって決められていることが多くて、そのなかで物事を変えられないところがあるのです。もしも、その枠組みを飛び越えて実現させたいことがあれば、やはり政治の世界に訴えない限りは現状を変えることは難しいわけです。
私は、連合(日本労働組合総連合会)という労働組合の総本山に7年半勤めていました。労働者・生活者の立場からすると、税や社会保障は自分たちの暮らしに直結する一丁目一番地です。それをいったい誰が決めているのかと言えば、政治であり行政ですよね。労働運動として声を上げて頑張るにしても、そこには限界があります。やはり政治に訴えていかない限りは、枠を越えた変革を実現することはできません。私は政治家を志していたわけではありませんでしたが、この役割は誰かがやるべきで、今回はそれが自分に回ってきたということだと考えています。
──竹詰さんのこれまでの歩みを振り返っていきます。なぜ電力会社を志望されたのですか?
竹詰 電力の仕事は地味ではありますが、誰もが電気に携わって生活しています。社会、経済を支えているインフラですから、誰一人、電気と無関係でいるというわけにはいきません。そういう誰にでも関わる仕事に従事することは、私のなかでは魅力的に思えて東京電力に入社しました。
入社後は東京西支店板橋支社、東京東支店などで勤務してから、1997年から2001年に本店の企画部調査課に配属されます。
──当時の企画部調査課の印象は?
竹詰 企画部は長期的な視点で電気事業を考える部門です。大所高所から先々のことを考えることが求められますから、みな本当によく勉強していると思いました。その一方で、現場感覚とはちょっと離れすぎているのではないかなとも感じていました。どの会社でも企画部にはそういう傾向はあるのでしょうが、正直に言えばそんなふうに思っていました。
「君みたいな元気なやつが組合をやってこい」
──組合の仕事に関わることになったきっかけは? 適性を判断した人事ということでしょうか。
竹詰 当時の上司から、「君みたいな元気なやつが組合をやってこい」と言われて送り出されたんですよ。学生時代からずっと卓球をやっていて、体育会系でしたからね。その上司は、電力自由化の波が起きつつあることを組合の側にも意識してもらいたい、といった狙いを持っていました。当時は、経済産業省や資源エネルギー庁が推し進めようとしていた電力自由化、規制緩和という波が来ていました。いわゆる発送配電分離の議論が始まった頃の時代でした。
これを東京電力が業界の先頭にたって、自由化は拙速にやるべきではない、発送配電の分離は必要ないと、議論を押し返していたんです。しかし、その波が来てしまっていることは、私たちもよく感じていました。本当にこれが到来すれば、電力業界あるいは会社自体がガラリと変わることになる。そうなれば、そこで働く人たちのマインドや働き方も変わることになる。当時の上司が私に託したのは、そうした大きな変化がやってくる可能性があることを組合側にも意識してもらうことにもありました。働く私たちもアンテナを高くして時代の変化を知り、変わらなければならないところがあるわけです。
連合の立場で向き合った東日本大震災
──組合側に回って感じたことは?
竹詰 組合には情報がすぐには伝わらないことを痛感しました。自由化への危機感が共有されているわけではないんですね。働いている人たちは大所高所の話を聞いたからといって、そんなに簡単には動きません。「自由化の波が迫っている」と聞かされても、夢物語のように感じられてしまうわけです。ある意味ではそれは当然だと思います。組合は現場で働いている人たちが抱えている問題に日々向き合うことで精一杯ですからね。
組合では多くの社員の相談を受けますが、職場の人間関係や家族や金銭の問題で悩み、メンタルを悪化させてしまう人もいます。それらの問題を解決するために、時には人事異動をお願いするなどの対応をとることもあります。それで状況が改善して元気に職場復帰する方もいれば、最悪の事態になることを止められなかったケースもありました。
問題を知ってしまった以上は、自分がやらなければならないという思いで組合での仕事をしているうちに、ずいぶんと長く続けることになりました。最初は組合専従を長く務めるとは思っていませんでしたが、22年にわたって組合の仕事に携わることになりました。その間に東日本大震災が発生し、それが一つの契機となって電力の自由化、発送配電の分離が一気に進んだのはご存じの通りです。
──東日本大震災発生時はどんなことをされていましたか?
竹詰 連合本部にいました。当時は民主党政権でしたから、連合的には与党の側にいたことになります。連合と民主党は密接な関係にありましたからね。それまでの連合は、原子力については曖昧な態度をとっていました。将来的には原子力に依存しない社会をめざすが、現状では頼らざるを得ないといった感じですね。けれども民主党が政権をとり、原子力抜きに日本のエネルギーを賄うことはできない、と共有しつつあって、政権を支える立場としてのエネルギー政策に変えなければならないという雰囲気が醸成されていました。連合のエネルギー政策も前向きなトーンに変えつつあったんですよ。ところが、福島の事故が起きてしまったので、「やっぱり原子力はダメだ」と逆戻りしてしまうところを私は目の当たりにしてきたんですね。
連合という立場で福島の事故に向き合うことになりましたが、東電の現場の社員たちは本当に大変だったと思います。現場であの事故に対応した人たちだけが大変だったわけではなくて、その後に各役所に派遣された人、避難所の対応をした人、寄せられる電話を取っていた人、すべてひっくるめて、私なんかとは比較できないような苦労をされたのだと思います。
安定供給への使命感は全国で共通している
──参議院議員としての竹詰さんにお話を伺っていきます。議員になって日々の仕事は変わりましたか?
竹詰 自分としては、大きくは変わっていないと思っています。今までと同じように、向き合ってきた職場の声を広く知ってもらって課題を少しでも解決する。そこには変化はなくて、ステージを国政に変えるだけだと考えています。今まで考えもつかなかったアイディアが必要なわけではなく、私が今まで見てきたこと、聞いてきたこと、感じていることを政治というステージで発信することを心がけています。
変わった点があるとすれば、東電以外の職場に入る機会が増えたことですね。私は全国比例区なので、選挙戦では北海道から沖縄まで回れるだけ訪ねて、自分のやりたいことを訴えて自分を覚えてもらえるよう歩いたんです。電力会社、そのグループ会社、関連企業を含めると、電力に携わっている人は全国でかなりの数になるんです。
全国をくまなく回ってあらためて気づいたことは、安定供給に対する思いや使命感は見事なまでに金太郎飴だということです。地域によって意識に差はなくて、電力を支えるために「みんなで頑張ろうぜ」という気持ちは一貫しています。停電するようなことがあれば、1分1秒でも早く駆けつけて復旧させるという使命感が貫かれた集団であることをあらためて感じました。
けれども、その一方で電力の需給が逼迫している事態が実際に起きています。誰もさぼっていないし、意地悪をして電気を出し惜しみしているわけでもない。電気を一生懸命に供給しようとしているにも関わらず、その思いに反して需給は、逼迫してしまっている。
それではなぜこうした事態が起きているのか。それは政策・システム・ルール──ここが悪さをしているからなんです。これを変えない限りは、自分たちだけでこの課題を解決するのは難しい。やはり国で解決する必要があるんです。
──具体的に悪さをしている政策は?
竹詰 端的に言えば、電力自由化の弊害が顕在化しています。電力の場合は、新しい発電所を建設しようとすれば、巨額の資金が必要になります。500億円、1000億円規模の投資を行って、それを10年単位の長いスパンで回収するわけです。けれども、売れるかどうかわからない電気に対してそれだけ巨額の設備投資に踏み切ることは難しいわけです。電力設備はたまに故障してしまうことは避けられませんが、利益の最適化を図るのであればギリギリまで修繕は後回しにする判断がなされることは、当然ですよね。自由化というのはそういう仕組みなんです。
昨年3月22日には電力の需給が非常に逼迫しました。あの時の危機を回避できたのは電力会社の努力に加えて、政府が国民に対して節電を呼びかけたことも大きかったですよね。国民の協力があったために何とか凌いだのだと思うんです。あの日は危機を回避できましたが根本的な問題は解決していませんから、電力の需給逼迫はまた繰り返しますよ。今は余裕がない状況ですから、電力設備が故障して元々あてにしていた100万kW、50万kWが供給されない事態になると、何度でも危機が顕在化する可能性があります。