『公研』2021年1月号

水島治郎

 2020年1月、賛否両論が渦巻くなかでイギリスのEU離脱が強行され、すでに1年が経過した。その前年末の総選挙でボリス・ジョンソン首相率いる保守党が大勝したことで、ブレグジットの可否をめぐる2016年の国民投票以来の混乱はとりあえず決着し、1月31日の離脱の実現に至ったのである。このことは、21世紀に入るまで順調に進展していたように見えた欧州統合が、加盟国、しかもイギリスという主要国の離脱という、かつてない挫折を味わったことを意味していた。

 しかしこの「未曽有の事態」と思える展開も、少し角度を変え、長い歴史の中でとらえてみると、違った見方もできるのではないか。ここではブレグジットを、ヨーロッパという「ローマ的秩序」からの「三度目の離脱」としてとらえなおしてみたい。

 今を去ること2000年近く前、イタリア半島中部のローマから拡大を続けて地中海世界に覇を唱えたローマ帝国は、北西の辺境のブリテン島にも勢力を伸ばし、紀元43年、属州ブリタニアを設置した。ローマ支配下で建設された植民都市のロンディニウムは、後にロンドンに発展している。しかしローマ支配はブリテン島の南半分にしか及ばず、北方諸民族との間には東西に長い「ハドリアヌスの長城」などが築かれた。またローマ支配地域における社会文化面の「ローマ化」も限定的だった。ローマ中心の秩序からみれば、ブリテン島は文字通り辺境にとどまったのである。

 そして409年、ブリテン島におけるローマ支配はあっけなく終了する。『海のかなたのローマ帝国』を著したローマ史研究者の南川高志は、これを「ブリテン島の人々」による、ローマ統治からの「離脱」と表現している。現代のブレグジットのはるか1600年以上前に、ブリテン島の「離脱」の先行事例が存在していたと言えようか。

 さて西ローマ帝国は、そののち滅亡する。しかしローマを中心とする秩序は、中世のヨーロッパでも持続した。カトリック教会の総本山、ヴァティカンはローマにあり、「ローマ教皇」の座が以後も連綿と受け継がれた。「神聖ローマ帝国」は自らをローマ帝国の継受者として位置づけた。ラテン語は中世ヨーロッパの共通語として政治・文化・学問の共通言語となった。「ローマ」はいわば憧憬の対象として、ヨーロッパの精神的な支柱でもあった。

 しかし近代に入り、各地で主権国家が自立するなかで、イギリスはまたもこのローマ的秩序からの「離脱」を選択する。1534年、ローマ教皇と衝突したヘンリー8世は独自の宗教改革を断行し、ローマ・カトリック教会の支配を脱して国教会を設立した。これによりイギリスは大陸ヨーロッパからの政治的・宗教的な影響を抑制し、大英帝国に至る以後の独自な発展を進めることになる。

 そして第二次世界大戦後、大陸ヨーロッパの諸国は欧州統合に踏み出す。1957年、6カ国によりヨーロッパ経済共同体(EEC)を設立する条約が結ばれたが、その締結地は他ならぬローマであり、この「ローマ条約」が統合の最も重要な起点となった。そしてイギリスは逡巡しつつこの欧州統合に遅れて参加する。しかし共通通貨ユーロは採用せず、統合の深化に組み込まれることを拒んだまま、2020年1月、ブレグジットによってみたび「離脱」を選択する。

 このようにみると、イギリスは409年、1534年、2020年と三度にわたり「ローマ的秩序」からの「離脱」を実行してきたと言える。「ヨーロッパの周辺」にあるブリテン島の人々は、大陸ヨーロッパ主導の秩序に加わりつつ、しかしそこから反発して新たな道を歩んできた。すべての道はローマに通ず、されどローマは一日にして成らず。このブレグジットの時代、ローマにちなむこれらの格言を、新たな思いを込めて噛みしめることができるのではないか。千葉大学教授

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