『公研』2024年1月号「めいん・すとりいと」
昨年10月に『立法者・性・文明──境界の法哲学』(白水社)という本を出した。約20年前、いわゆる性同一性障害特例法(以下「特例法」)の立法運動に関わった経験から出発し、近年にいたるまでの研究を一冊の本にまとめたものだ。最近、この本の内容に関連する大きな出来事があった。先日、最高裁大法廷が出した特例法に関する違憲判決である。
特例法では、①18歳以上であること、②現に婚姻をしていないこと、③現に未成年の子がいないこと、④生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること、⑤その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること(後述の5号要件)──以上、五つの要件を「戸籍上の性別変更」に際し、課している。
今回の判決では、このうち④の「生殖不能要件」が憲法13条によって保障されるべき人格的生存権、つまり「自己の意思に反して身体への侵襲を受けない自由」を侵している点で違憲無効であると判示されたのである。判決は15人の裁判官の全員一致で出され、うち3人は⑤の「外観要件(5号要件)」もまた違憲にすべきだとする「反対意見」を付している。なぜなら、この要件もまた侵襲を伴う手術などの処置を前提としているからだ。
先述の通り、その立法運動に関わり、また、自民党政調の「性的マイノリティに関する特命委員会」で特例法改正に関する意見聴取をされていたこともあって、この判決に接した私は人並み以上に驚いたのだった(なんとなれば、当該委員会の席上、私は上記要件のいずれについても改正に賛同しない旨、申し述べてもいたからだ)。そのようなわけで、判決本体(法廷意見)に対しても思うところはあるのだが、整序された考えを披瀝するには紙幅が限られているので、今回は先述の反対意見の一つを読んで違和感を覚えた、或る事柄についてのみ触れることにしたい。
草野耕一判事は、その反対意見の中で5号要件が〈合憲〉とされる社会は「静謐な社会」と言えるが、それは当該要件の「非該当者の自由ないし利益の恒常的な抑圧によって贖われたもの」であること。そして、5号要件が〈違憲〉とされる社会は「いささか喧しい社会」かもしれないが、その「喧しさ」は「5号要件非該当者とそれ以外の国民双方の自由と利益を十分尊重した上で、国民が享受し得る福利を最大化しようとする努力とその成果と捉え得るものである」と述べている。「静謐」と「喧しさ」──実質的な法解釈とは関係のないレトリックではあるが、私はその中に法壇の上からする「道徳的な高み」を感知し、違和感を覚えたのだった。
トランプ当選から時を経ずして刊行されたリベラル側の反省の書『リベラル再生宣言』(マーク・リラ著、早川書房)の中でも書かれている通り、米国のリベラルは自らが理想とする社会改革を推し進めるため裁判所に依存し過ぎた。このようなかたちで司法の力を梃子としてきたリベラル文化左派への反動として米国で「何が生み出されたのか」は贅言を尽くすまでもないだろう。裁判を通じた一刀両断的な社会文化的意味秩序の改訂は、その「敗者」に対する道徳的烙印効果を持ってきたようにも思われるのである。
ことトランスジェンダーをめぐる日本国内での議論は、最近生じたKADOKAWAから刊行されるはずだった関連書籍が「大衆的検閲」(桐野夏生)とでも呼ぶべきものによって発売中止に追い込まれた事件とそれをめぐる「喧しさ」を見ている限りでは、「いささか」という形容を遙かに超えた状況に立ち至っているのではないだろうか。
米国は愚かしくも厭わしい「文化戦争(cultural war)」によって決定的に社会が分断されるに至ったが、わが国がその轍を踏むのを回避するために何をなすべきか、今こそ真剣に考えなければならない。人口に膾炙した箴言にある通り「君は戦争に興味が無くとも、戦争の方では君に興味を持っている」のだから。
東京都立大学教授