「寿司でも行くか」で
『北斗の拳』人気を直感

──そしてついに『北斗の拳』が連載開始。ご感触はいかがでしたか?

 連載が始まる前に、読み切りの『北斗』の掲載が2話ありました。僕は一度連載で失敗していた身であり、編集部からの信頼が薄かったですからね。でも、読み切りは2話とも確かな手応えがありました。そして連載が決定しました。

 僕は『鉄のドンキホーテ』より前に、映画の『マッドマックス2』に触発されて『マッドファイター』という読み切りを描いたこともあり、その作品も人気がありました。『マッドマックス2』のバイオレンスに満ちた終末的な世界観が好きだったので、連載の『北斗』ではそれを前面に押し出すことにしました。ただ、堀江さんには「原くんは絵に時間がかかるから原作者をつける必要がある」と言われ、武論尊先生が原作に入るかたちになりました。

 自分の描きたいことを突き詰めなかったせいで失敗に終わってしまった『鉄のドンキホーテ』の反省から、『北斗』では自分が心から面白いと思ったものしか描かないと決めていました。だから武論尊先生の原作や堀江さんの編集者としての意見に対しても、僕は自分の中で納得がいくものだけを作品に落とし込みました。もう絶対に後悔したくなかったんです。

──やがて全国的な『北斗の拳』ブームが巻き起こります。その熱気をご自身で感じられたわけですね。

 それが意外にも感じないんですよ。当時は今と違ってインターネットがありませんでしたから。それに私自身、調子に乗ったりしないために、読者アンケートの人気順位は基本的に聞きませんでした。

 でも、堀江さんの機嫌でなんとなくわかりました(笑)。普段は厳しい態度の堀江さんが、妙にご機嫌なんです。電話で「ちょっと原稿持ってきて」と言われたので、編集部に持っていったら「寿司でも食いに行くか」と。その翌週は高級な肉料理店でした。そんなことが2週も3週も続けば、さすがに僕もわかるわけです。ああ、今これ人気出ているな、と。わかりやすいですよね(笑)。

 当時はジャンプもサンデーもマガジンも、300万部の壁に苦しんでいました。どの雑誌も200万部後半までは伸びるのですが、あと一歩が届かない。超人気作が3本ないと300万部には届かないと言われていました。ジャンプは『キン肉マン』と『キャプテン翼』があって、そこへ『北斗』が加わったかたちです。するとあっという間に300万部の壁を越えて、毎週20万部のペースで部数が伸び、遂には400万部まで伸びた。当時はアニメで火がついて原作の漫画が大ヒットするという流れが多かったですが、『北斗』は漫画の時点で絶大な人気を誇っていたそうです。堀江さんがご機嫌だったのも頷けますよね。

アニメ『北斗の拳 ─FIST OF THE NORTH STAR─』©武論尊・原哲夫/コアミックス,「北斗の拳」製作委員会

 

悩みの種は人間関係と目の病気

──とはいえ、あれだけ緻密な作画の漫画を毎週ペースで連載するのは大変だったのではないですか?

 堀江さんからは3年くらいのつもりでやろうと言われていました。それなら頑張れると思って、僕は腹を括りました。実際、『北斗』を描くこと自体は本当に楽しかったです。

 ただ、私生活を捨てなきゃいけないし、アシスタントさんたちとの人間関係には苦労しました。当時の僕は22歳の若輩ですから、アシスタントで入ってくれる方が年上だったりするわけですよ。だから僕がモタモタ描いていると、注意されてちょっと気まずい空気になる(笑)。

 僕はもともと人付き合いが苦手なタイプだったし、漫画も自分一人で描き上げたい気持ちがありました。でも連載である以上、締め切りには必ず間に合わせる必要があります。これも勉強のうちだと思って、アシスタントの人たちと寝食をともにしながら制作していました。

──連載中には目のご病気にも悩まされたと聞きます。

 デビュー前の18歳くらいのときから、目がおかしいと感じていました。円錐角膜っていう珍しい病気だったんですよね。簡単に言えば角膜が飛び出してくる病気です。視力が著しく低下するので、漫画を描くのにはものすごく苦労しました。頭が痛くなったり気持ち悪くなったりする。それに目のピントが合わないから、狙ったところに線が引けない。コンタクトレンズも使ってみましたが、拒絶反応が出てしまいました。

 いろいろな病院に通って、どうにか治らないか相談してみましたが、角膜移植をしたところであまり効果はないと言われました。だから僕は人生の30年くらいをこの病気に悩まされ続けてきたわけです。肉体的に言えば地獄でした。

 でも2024年になって、僕はようやく角膜移植手術を受ける決意をしました。結果的には手術は成功して、視力が0・02から0・2に上がった。だからジャンプで連載を持っていた頃よりも、今の方がよく見えるんです。医療技術の発達に感謝ですね。

「少年誌で時代劇はウケない」のジンクス

──1988年、約5年にも及んだ『北斗の拳』の連載がようやく幕を閉じました。これほどのヒットの後であれば、引退して余生を楽しく過ごすという選択肢もあったのではないでしょうか?

 『北斗』が終わったら僕は漫画家を辞めるつもりだったんですよ。『北斗』以外に描きたいものも思いつけませんでしたから。でも、辞められなかった。収益の大半が税金に消えてしまったので、手元にお金が全然残らなかったんです。漫画家という職業の大変さを思い知らされましたね。

 そんなとき、堀江さんが時代小説の漫画化の話を持ちかけてきました。「原くんのために時代小説を500冊読んで考えてきたぞ!」なんて言うんです。500冊なんて、さすがにちょっと盛ってるんじゃないの? とは思いましたけど(笑)。最初に時代小説と聞いたときには、裃を着ておしろいを塗った時代劇のイメージが思い浮かんできて、僕には描けない領域だなと思いました。でも堀江さんが勧めてくれたのは、隆慶一郎先生の『一夢庵風流記』という小説でした。それを原作にしたのが『花の慶次 ─雲のかなたに─』です。主人公である前田慶次の「傾奇者」という奇抜なキャラクター像は興味深かったし、僕が描きたい筋骨隆々のキャラクターと、戦国時代の和洋折衷デザインの着物や甲冑はとても相性が良いと思いました。これならいけると直感しましたね。

『花の慶次 ─雲のかなたに─[新装版]』第1巻(コアミックス刊)

 

──時代劇を漫画として連載することには、現代劇とは違った苦労も多かったのではないでしょうか。

 当時の少年誌には「時代劇はウケない」というジンクスがありました。だから僕はそこへ挑戦したかたちになってしまいました。さらに、「友情・努力・勝利」を謳うジャンプで、勝者だけでなく、負けた側の美学も描くことは特異なことでした。とはいえ半分ぐらいは自信がありました。なんだかんだうまくいくんじゃないかなと。でもやっぱり、どう頑張っても『北斗』のときみたいにアンケートで1位や2位を獲ることはできませんでした。よくても7位くらいでした。連載は3年半ほど続きましたが、その間ずっと低空飛行だったのがつらかったですね。

 あと、『花の慶次』の主人公の前田慶次は笑顔が印象的なキャラクターなのですが、僕はケンシロウやラオウのような無骨な男ばかりを描いてきたので、笑顔の似合う男を描くのが苦手だったんですよ。だから連載の最初の頃はよく原稿の描き直しをさせられました。内心で「そんなの描けないよ」と思いながらも笑顔のキャラクターを描くのに挑戦していましたね。このように、『花の慶次』は常に悩みを抱えながら描いた作品だったんですよね。

──しかし『花の慶次 ─雲のかなたに─』には、そんな悩みを少しも感じさせないほどの、原先生の揺るぎない「芯」のようなものがあるように感じました。

 確かに悩みの尽きない作品でしたが、僕は本作の連載を通じて武士道の精神を学ぶことができました。それは今でも僕の人生に大きな影響を与え続けています。特に、隆先生も愛読されていた武士の教訓や説話の口伝集『葉隠』(口述・山本常朝、筆録・田代陣基)は、僕の人生にとって重要な一冊です。

 ここには「常住死身」という心構えが書かれています。私はこれを、自分を殺し、死人(しびと)として生きることで逆に生を得る、という意味に解釈しました。想念上のことではありますが、朝起きたら、ことにあたる前に、弓や刀で自分を殺しておくよう『葉隠』は説いています。この、前もって死んでおくということが、動じない心を生むと悟りました。死人が不安をおぼえることはありません。また、苦しい状況でも、あえて火の中に飛び込むことで活路を開く。そんな姿勢も、『葉隠』から学びました。こうした『葉隠』の「常住死身」の精神は、30代以降の僕の人生に指針を与えてくれるものでした。

──『花の慶次 ─雲のかなたに─』以降も『影武者 徳川家康』『影武者 徳川家康外伝 左近 戦国風雲録』『いくさの子 ─織田三郎信長伝─』など、数多くの時代劇を手がけられています。今、取り上げてみたい歴史上の人物はいらっしゃいますか?

 実はいないんですよね。僕の役割は、堀江さんが考えたネタをわかりやすく漫画にアレンジして、読者の皆さんに提供すること。だから僕はネタを面白く読ませるための絵が描ければ満足なんです。言うなれば料理人ですね。受け取った食材を調理して、お客さんに振る舞う。そして料理人歴が長くなればなるほど、つくるコツが掴めてくるから、どんな食材でもそれなりに美味しいものに仕上げられるようになるわけです。

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