原敬と安倍晋三
清水 現代において原を考える意義はどこにあるとお考えですか。
齋藤 抽象的になりますけど、原が活躍した時代っていうのは、ちょうど日本の転機だったんじゃないかと思っています。その後、1920年代に突入すると、手の施しようがないような勢いに時代が流されていく。あの頃の歴史のうねりの局面と、現代日本の情況は似ている気がしています。
原は1921年に亡くなりますが、その後の1920年代がきわめて難しい時代になって「原が生きていれば……」という声がほうぼうから上がるわけですよ。今でこそ原敬より高橋是清のほうが有名ですが、彼の存在は日本の政治史のうえで非常に重要な位置を占めています。しかし今の人はほとんど原のことを知りません。
原と安倍晋三さんを重ねるわけじゃないですが、困難な時代における彼らのような政治家の存在は、我々政治家に対してある種の重要な意味を持っているんじゃないかなと思います。
原が殺害されたちょうど100年後の同日時、つまり2021年11月4日の7時20分に、私は彼が暗殺された現場である東京駅丸の内南口へ赴きました。現地にはすでに十数人の人がいたんです。年配の方ばかりではなく、中年の方もいらっしゃいました。ファンなんでしょうね。ちなみに、国会議員は私だけでした。
清水 最近は若い方にも少しずつ人気が出てきましたね。
齋藤 それ先生のおかげでしょ(笑)。
清水 原と同郷の横澤高徳さんは、毎年11月4日に盛岡で行われる原の法要のために帰省される際に、東京駅の暗殺現場で手を合わせてから新幹線に乗られるそうですが、意外に若い方がたくさん、手を合わせていらっしゃるんだそうです。今でも慕われる方がいるのは、心強いことです。
齋藤 安倍さんが銃撃された現場へ、100年後の同時刻にいったい何人くらいが行くのかな、とか考えたりしますね。
ジェネラリストにもスペシャリティが必要な時代
清水 政治家として、あるいは人としてどう育っていくかという点について、齋藤さんが書かれた『転落の歴史に何をみるか──奉天会戦からノモンハン事件へ』(増補版、筑摩書房、2021年)を踏まえて伺わせてください。
同書ではスペシャリストとジェネラリストの話が出てきます。なかでも面白かったのが、帝国陸海軍の軍人は優秀だったにもかかわらず、スペシャリストになったことによって失敗したというくだりです。コロナ禍の際にも専門家と政治家の役割が議論になりましたが、スペシャリストとジェネラリストの関係、ジェネラリストのありようというのは、原の生涯からどのように見えてくるでしょうか。
齋藤 そういう意味では、原はあまり参考にならないと思います。原は指揮官でもあり、参謀でもあり、何でもできちゃうスーパーマンなわけです。そこから何かを抽出することは非常に難しい。
ただ、現代はジェネラリストにもある程度のスペシャリティが必要な時代だと言えます。経産省で半導体関係の仕事をしていたときにも感じたことですが、専門的な知識がなければわからないことが本当に多い。そういう部分に関しては、どこまでを誰に担当させるかを明確にすることが一番重要です。一切合切部下に丸投げするのも、自分一人で背負い込むのもいけません。適切な塩梅を判断すること。それに尽きます。
私が経産大臣だったとき、次官や局長などは、みな勝手知ったる後輩たちでしたから、そういう意味でやりやすかった。
清水 たとえば原内閣の場合、床次竹二郎を内務大臣に任じています。床次は原が内務大臣だったころの部下であり、内務官僚です。床次が就いたことで内務省のガバナンスは安定しました。
齋藤 しかし、あのときは床次さんもびっくり仰天だったでしょうね。
清水 齋藤さんも通産省の出身で、経済産業大臣になられましたね。どうでしたか。
齋藤 私の場合、人事をやっていたという経験が活きました。私、かつては部下の全員に対して点数を付けていたんですよ。それもあって、非常にやりやすかった。
経済産業大臣の任期終了時に、周りの職員が寄せ書きをしてくれたんです。その中に「あらゆる面で過去最高の大臣でした」と書いてありました。普通であればもっとわかりやすいおべんちゃらを書きますよ。だけど「あらゆる面で過去最高の大臣」というのは、本当にそう思ってない限り出てこない表現ですよね。嬉しかった。
清水 省庁の人たちは、自分に甘い大臣にはそんなこと言わないですよね。
優秀な官僚は絶対に必要
清水 さきほど、原内閣が同じ人材を使い続けたことを評価されていましたね。彼は当初からそれを目論んでいました。むやみに人事を変えると内閣の求心力が弱くなりますし、発信力も下がってしまいますから。
そのために原が考えたのが、しっかりした次官をつけることでした。当時の次官は政治任用職です。ですので、たとえばのちに舌禍事件を起こす中橋徳五郎文部大臣には、西園寺内閣の内閣書記官長を務めた内務官僚・南弘を充てました。元内務官僚を文部に充てたんですね。同様に、野田卯太郎逓信大臣のところには秦豊助という優れた内務官僚を任じました。
齋藤 人事ですね。人事。それがやっぱりジェネラリストに一番必要なことです。弱いところはある程度自分でカバーするにしても。
清水 米価政策についても、たとえ高橋是清が取り仕切る大蔵財務系が山本達雄の農商務系に介入しても、いざというときには原自身が仲裁に入る。そういう調整をしますよね。
齋藤 原は自分で調整できましたからね。内部事情にも詳しかった。しかし現代は原の時代の何倍も勉強しなくちゃいけないことがある。しかも使える時間は少ない。
私は大臣になって非常にやりやすかったけど、私の部下がやりやすかったかどうかはわからない(笑)。私は簡単に騙されないですから(笑)。
清水 そうだとすると、彼らもその状況に合わせた付き合い方をされるんじゃないですかね。
齋藤 実は私は、国会議員になってからは経産関係の仕事を一切しませんでした。経済産業委員会に所属をしたこともないし、自民党の経済産業部会で発言をしたこともない。確かに私は他の議員よりは気の利いたことも言えるし、目立つこともできる。でもそれってイージーな道じゃないですか。だから国会議員になってから十数年間、一度もそういうことはしてない。
2023年、経産大臣就任にあたって18年ぶりぐらいに経産省へ戻ったわけですが、やっぱり経産官僚は本当に優秀だなと感じました。ダントツに優秀です。世の中にはあまり理解されていないですが、よくやってもいます。なぜ私が彼らの仕事ぶりの素晴らしさをパッと理解できたかというと、私に経産省での経験があったからです。
そう考えるとたとえば、事務次官経験者で優秀な官僚を大臣に充てたほうが、日本のためにはよっぽどいいんじゃないかと思わないわけではない。
清水 かつて先生方とよく議論していたことですが、戦前の政治家はそれほど大臣になりたがっていなかった、と私は理解しています。むしろ党の総務委員として力を握りたい政治家が多かった。当時、総務委員は幹事長より格上でした。
齋藤 原の時代を見ていると、総務委員になりたかった政治家は多いですよね。
清水 大臣になると国会で答弁をしなければいけませんよね。当時の国会議員にとって答弁に立つ不安は相当なものでした。政策に対する理解に自信がない議員たちは、大臣になって恥をかくリスクは避けたい。そうすると、党内で権力を掴もうとする。ですから、彼ら党人にとっても官僚出身で有能な人物が大臣をやってくれればウィンウィンなわけです。それが政党政治の一つのかたちだったのだろうと思います。
齋藤 だとすると「末は博士か大臣か」みたいな言い回しが当時流行っていたのが不思議ですよね。
清水 しかし、それは政党政治家を通じてではありませんよね。
齋藤 一般の人から?
清水 いや、大学を出て、官僚となり、その末に大臣になっています。
政党政治家が大臣になることが定着するのは、原のように政党プロパーであった政治家たちが総理大臣になってからのことです。そこが転換点でした。
ポピュリズムと「国民のための政治」の懸隔
清水 民主主義とポピュリズムの関係について、齋藤さんはどうお考えでしょうか。原の時代と引き合わせてみるとどう考えられるでしょうか。
齋藤 政治とは国民のためのものである、ということがまずは大前提ですよね。ですが、国民のための政治が、国民の人気取りをすることによって実現できるのかという点に関しては疑問符が浮かびます。国民中心で国民のための政治を実現することが民主主義であるとするならば、それはポピュリズムと一致するものではないのではないでしょうか。
自民党が下野していた2009年は、私の初当選1年目だったのですが、当時、与謝野馨(故人)さんに「長期政権が敗北をして野に下った後で、再び政権にたどり着いた事例を調べ上げろ」と命じられました。最も適当だったのがオランダのケースでした。76年間政権を維持した後に敗れて、そこから政権を奪取するまでに8年かかっていました。その間に何が起こり、いかにして政権に返り咲いたかという研究に、私は必死で取り組みました。果てはオランダまで赴いて、さまざまな意見交換をしてきました。そこで最も印象に残った言葉は、「今やポピュリズムへの対応なくして選挙で勝つことはできない」という一言でした。だから、ポピュリズムへの対応は必要なんです。しかし一方で、ポピュリズムそれ自体になってしまってはいけない。
清水 ポピュリズムの要素は国民の側にあるわけですが、それが政党そのものになってしまってはいけませんね。
齋藤 一歩間違えると「国民のため」を錦の御旗にして、ポピュリズム的な政策をどんどん推進していく方向に流れてしまいますからね。
男子普通選挙法という難題
清水 原はポピュリズムに対してはどのように対応したと見ていますか。
齋藤 普通選挙制に対する彼の対応を見ていると明らか ですよね。ポピュリズムは大事である一方で、何でもかん でも民衆の言う通りやればいいというものでもない、とい うことを原は理解していたんじゃないかな、という印象です。
清水 漸進的ですよね。原が衆議院議員選挙の被選挙権の制限を直接国税10円から3円に下げるに留めたという点だけを取り上げて、原は普選に否定的だったと評する人もいますが、最後のメモには「余の後は普選」と書かれています。普選の意義について原はよく理解していました。
齋藤 そもそも選挙制度を変えるということは、そんなに単純な問題じゃない。
清水 野党が男子普通選挙法案を出したのは明らかに選挙戦略でした。原はそうではないかたちで、段階的に普選を実現していく方法を考えていた。一方で普選を待ち望んだメディアは、原のことを保守的だ、理解がないと糾弾しました。もちろん、原にも国民とのコミュニケーションを重ねていく必要があったことは否めません。
1921年の元日の新聞に、原は第一次世界大戦後の時代には国民の理解と自律が必要であると訴えますが、やや遅かった。
