ディスコダンスを広めたい一心
──20歳の時にアイドルでデビューされていたことに驚きました。勝本さんとの繋がりからでしょうか?
SAM 乃木坂にある勝本さんの事務所に毎日通っていたのですが、勝本さんが突然「お前らの中に歌えるやついるか?」と言いだしたんです。僕らはダンサーだったので歌は皆得意じゃない。ただ、「ミッキーマウス」の取り巻きの中に、ダンスは下手だけど歌が上手なやつがいました。そこに目を付けた勝本さんが、後にビクターエンタテインメントの社長になる飯田久彦さんのプロデュースのもと、アイドル・ダンス・ユニット「チャンプ」として4人組でデビューさせました。そのうちの一人が僕だったんです。
──SAMさんは歌も得意だったのでしょうか?
SAM 得意じゃないですね(笑)。ボイストレーニングもしていましたけど、やっぱりダンスがメインだったので。
──チャンプとしての活動は?
SAM 鳴かず飛ばずの状況でした。チャンプのデビュー曲には「ディスコ」という単語が出てくるのですが、ちょうどその頃に家出をした女子中学生が歌舞伎町のディスコでナンパをされて、千葉の山奥で殺されてしまうというおぞましい事件が起きたんです。それが発端となり、ディスコの営業を夜中の12時までとする風営法ができるなど、世の中から注目された事件でした。その影響でデビュー曲も「歌詞にディスコって入っているのは良くないよね」となりA面とB面を交換することになります。そんなこともありチャンプはあまり売れなかったです。
──そもそもダンサーではなくアイドルとしてのデビューに納得されていたんでしょうか?
SAM 納得はしていませんが、ディスコダンスを広めたい一心でした。自分たちがやっているディスコダンスやストリートダンスが何よりもかっこいいと思っていましたから。
このジャンルのダンスは少しブームが来ても終わって、またブームが来て終わってを繰り返して、なかなか日の目を見ることがなかったんです。じゃあどうやったらこのかっこよさを世間に広げられるかと考えたら、やっぱりテレビしかないと。それがアイドルとしてデビューした動機です。別にアイドルになりたかったわけじゃないんですね。むしろ不本意でした。
「 どうしてわざわざバックダンサーになるんだ?」
──活動していく中でもフラストレーションが溜まりそうですね。
SAM チャンプが上手くいかなかったのでメンバー全員でその事務所を辞めて、別の事務所からRiffRaff(リフラフ)という名前で再デビューしました。このデビューもまた勝本さんに元ザ・タイガースのギタリストである森本太郎さんというプロデューサーに紹介してもらいできたグループです。ただ、RiffRaffはそこそこ人気も出ましたが、それは爆発的ではありませんでした。めざしていたテレビ出演もあまりなかった。あと、あくまでアイドルグループだったのでメンバーはダンスにそこまでの熱量を持っていなかったんです。でも僕はダンスにはストイックであり続けたかったので、その温度差が段々ストレスになってしまい自分から辞めることを決めました。
辞めることを伝えると、プロデューサーの森本さんがこう言いました。「お前辞めてどうするんだ」と。「プロのダンサーになる」と僕が言うと、「お前はバカか。今はアイドルとして自分が前に出てメインでパフォーマンスができている。それなのにどうしてわざわざバックダンサーになるんだ──」。当時のダンサーは、歌手の後ろで踊るバックダンサーとしか思われていなかったということですね。でも、自分の中にはバックダンサーではなくダンサーとして輝いている姿がはっきりとイメージできていた。自分はダンサーとして成功すると疑わなかったんです。結局、僕が抜けることでグループは解散になり、RiffRaff時代から掛け持ちで活動していたブレイクダンスのチームに戻りました。
──ダンス&ボーカルよりダンス一筋の表現をめざしていたのですね。
SAM そこはずっとブレずにありました。その覚悟の表れとして、23歳の時に渡米してニューヨークにダンス留学にも行きました。それまでやってきたジャンル以外にもニューヨークではクラシックバレエとかジャズダンスにも挑戦しました。
──表現の幅を広げたかったのでしょうか?
SAM 嫌なことをしないと一人前になれないと勝手に思っていたんです(笑)。自分の一番やりたくないことって何だろうと考えた時に、タイツを着て踊らないといけないクラシックバレエが当時の僕には恥ずかしくて、できればやりたくなかった。
──下積みの時代ですね。
SAM 留学から帰ってきてからはどうやってダンサーとして表に出るか模索していた時期でした。映画に出たりテレビ番組の夏祭りで踊ったり色々なことをしましたが、なかなかチャンスが来ない時期が長く続きました。そして、28歳の時にようやくフジテレビのプロデューサーに声をかけてもらい「DANCEDANCEDANCE」というダンス番組のレギュラーダンサーになります。
──今もダンスをメインにした番組ってあまりないです。
SAM そうですね。その時期は「DANCE DANCE DANCE」の他に「DADA LMD」というダンス番組を放送していました。後々ZOOを輩出する番組で、実はその番組が始まった時、「ミッキーマウス」で同じチームだったダンサーのTACOに「一緒にやらないか」と誘いを受けていたんです。ただ、その番組は六本木とかでちゃらちゃらしているようなとっぽい兄ちゃんを集めてデビューさせるというコンセプトだったので、自分としては物足りない気がしたんです。流行に乗っかるだけの本物志向じゃない集まりに見えたので、入らなかった。だからもしあそこでTACOのチームに入っていたら、僕はTRFではなくZOOになっていました。
TRFの始まり
──大きなチャンスを蹴ったのですね。
SAM 「DANCE DANCE DANCE」では、MEGAMIXというダンスチームを結成して、僕はリーダーをしていました。CHIHARUとETSUもいて、TRFの前身となるチームです。番組は1年半放送されて、その間は毎日曙町にあったフジテレビの本社ビルに通い、昼の3時から夜中の12時まで番組で踊るショーをつくることに熱中していました。フジテレビ社員みたいな生活でしたね。
その番組を見た小室哲哉さんがプロデューサーづてに声をかけてきて、できたのがTRFです。小室さんはZOOとは違うダンスグループをつくりたいということで、ダンサーはプロフェッショナルを使いたいって言ってくれたんですよ。しかも、オリジナルの曲で踊らないかと言われたんです。元々、歌手のバックで踊らない、ダンサーメインで表舞台に出ていくことを掲げていたので、この提案には心が躍りました。
ただ、実際蓋をあけてみたらメンバーにはボーカルとDJもいて、結局はバックダンサーじゃんと思いました。そこで、ダンサーとして前に出ることへの想いを小室さんに伝えて、「TRFはボーカルを後ろにして前でダンサーが踊るというスタイルにしていいか」と聞いたんです。そしたらあっさり「それでいいよ。好きにして」と言ってくれたんです。
──小室さんはバックダンスではないダンスに理解があったんですね。
SAM どうなのでしょうか。小室さんもTRFのかたちが見えているようで見えていなくて、ずっと手探りだったんじゃないかな。はっきり方針が固まっていたわけではなくて、やっていけばわかるだろうって感じだったと思うんですよね。
振り返るとデビュー当時はボーカルのYU-KIに申し訳ないことをしたなと思います。ステージでの位置も、元々はDJが2人いたので、2人がブースにいて、小室さんのキーボードがあって、後ろのお立ち台みたいなところにYU-KIが立って歌うんです。そしてその前でダンサー3人が踊るという配置です。ここまですればバックダンサーではないだろうというムリやりの理論ですね。
──音楽の方向性はダンサーのSAMさんから見てどうでしたか?
SAM 正直、小室さんとは音楽性も違いました。小室さんが言うダンスミュージックは、テクノやユーロビートなどのいわゆるヨーロッパミュージックです。一方、自分たちはゴリゴリのニューヨークアンダーグラウンドミュージックが好きだったので、音楽的には真反対だったんです。それが嫌でTRFを辞めるメンバーも何人かいましたね。
ただ、僕はリーダーだったので、音楽性がいくら違ってもTRFは仕事としてやっていこうと割り切っていた部分があります。
──SAMさんがかっこいいと思っていたダンスは、当時メインストリームではなかったのですね。
SAM 当時、エイベックスはまだ小さい会社で町田に本社がありました。僕はそこに電車で通っていて、ある日「見せたいダンスビデオがあるから」と会社に招集されました。ダンサーからするとダンスビデオというぐらいだからどんなすごい人たちが踊っているんだろうと、期待していました。実際見てみると白人の方々がテクノミュージックに合わせて踊っている映像がずっと流れていたので、「いつダンサー出てくるんですか」って聞いたんですよ。そしたら「これがダンサーで、レイヴっていうヨーロッパで流行っているシーンなんだよ」と。驚きましたね。だって、自分たちにとってはディスコで昔から見ている絵と何も変わらなかったので。何をこんなもの今更見せるのだろうと。ただ、小室さんとか当時エイベックスの専務だった松浦勝人さんにとってはそれが最先端だった。小室さんたちがエイベックスでやりたかったものは、ダンスミュージック、いわゆるテクノを使った音楽シーンをつくりたかったんです。
──テクノの音楽にSAMさんのダンススタイルを合わせたのでしょうか?
SAM 苦肉の策です。テクノはハウスよりビートが速いのですが、無理やりその速さにステップを合わせてコレオをつくっていました。『EZ DO DANCE』も『BOY MEETS GIRL』も、TRFの曲は割とBPMがすごく速いので、やはり自分たちとしてはダンスミュージックっていうよりもポップミュージックで踊っているという感覚が強かったです。
皆で踊ることができる曲
──DJ KOOさんがインタビューで、「TRFの音楽は踊るための音楽」とおっしゃっていました。
SAM わからないですけど、KOOちゃんは小室さんにも気を遣っていたんじゃないですかね(笑)。
TRFの曲は踊るためというより、カラオケで盛り上がってもらえる曲が多いんじゃないかな。例えば、『survival dAnce ~no no cry more~』も、制作時にエイベックスからは誰でも踊ることができるフリにして欲しいと要望がありました。ライブで一緒に踊って楽しめるようにです。でも、当時はそれがどういう動きなのか本当にもうわからなくて。ダンスを踊るっていうより、手を横に振ったりステージから動きを示唆することが正解だったんです。
でも今となってみるとこれはこれで正解だったと思います。自分たちはダンスのすごくコアなところにいたので、他のものは認めないというように少し考えがガチガチになってしまっていたと思います。
──ライブ映像を見ると一緒にフリを踊ることでメンバーとお客さんの間でコミュニケーションがとれていて、一体感ある空間が素敵だと感じました。ただ、そのスタイルになるまで葛藤があったのですね。
SAM やっぱりダンサーはコンサートでもダンスを見せたくてしょうがないわけですよ。だけど、初期の頃は、間奏でダンスを見せるパートはあったけど、なんだかやりたいこととはズレていました。そんな中でも人気が出てきて「TRFかっこいい」と世間は思ってくれるんです。葛藤がどうしても付きまとっていました。
転換期になったのが1996年のアリーナツアーです。結成当初はコンサートのつくり方なんて右も左もわからなかったので、小室さんに全部教えてもらっていたのですが、2回目のツアーからはやり方がわかってきたので、小室さんはコンセプトを提示するだけで、あとは僕とメンバーのCHIHARUとETSUでかたちにしていました。そこで初めて少しだけ見せたいことをできたような気がします。ただ、小室さんからのコンセプトもすごく抽象的だったので、何が正解かはわからないのですが……。
──SAMさんから見て、小室さんはどんな方でしたか?
SAM やっぱり自分たちと見ている視点が全然違いますね。すごい人だなと思います。プロデューサーでありアーティストでもあるけど、小室さんってビジネスマンなんですよ。しかもものすごいビジネスマン。頭の中で、常にこうするとこのぐらいのパイの人が動くからこのぐらいの売り上げになるとか、そういうところまで考えていたと思います。
すごく世の中の流れに敏感な人でした。TRFが駆け出しの時、僕たちもまだ毎晩のように六本木のディスコに通っていたのですが、「SAMたち最近どこのディスコ行っているの?」って小室さんが聞いてきて、一緒にディスコに行くことになったんです。そこは小室さんが行くようなディスコではないし、VIPルームもないです。当然、周りの人が小室さんに気付いてざわつきますが、そんなことはお構いなしでした。じゃあ、なんでそんなところにわざわざ行くのかっていうと、リサーチなんですよね。若者たちの生の感覚を見たり聞いたりすることに熱心で、そのために小室さんはディスコに足を運んでいたんです。
──小室さんは孤高のカリスマのようなイメージを持っていましたが、人の意見にも耳を傾ける人なのですね。
SAM 本当にその通りです。すごく柔らかくて優しい方です。
ある時、小室さんから「SAMたちは最近どんな音で踊っているの?」と聞かれたことがありました。当時は、ダンクラ(ダンスクラシック)という、昔のスタイルをリバイバルしたものが流行っていて、自分たちもそういうクラブイベントを開催したりしていました。それを小室さんに「今はこれがかっこいいですよ」って持っていったんです。そこからできた曲が『Overnight Sensation ~時代はあなたに委ねてる~』(1995年)です。この曲は小室さんからするとダンサーチームへのプレゼントですね。これまで本意じゃない曲で躍らせちゃってごめんねという思いがあったのかもしれないです。
──1993年に発表された『EZ DO DANCE』が記録的なロングヒットを打ち立てます。世の中の人に存在が一気に知れ渡るというのはどんな感覚でしょうか?
SAM 当時はまったく嬉しくなかったですね。20歳ごろにダンサー仲間と10年後の目標を語っていました。街を歩いていて誰もが振り返るようなダンサーになりたいよねとか、ダンサーとして億のお金を動かせるようになりたいよねとか。10年後、TRFとして一応夢は叶えましたが、売れて世の中に知られるっていうことに対して、『EZ DO DANCE』や『BOY MEETS GIRL』(94年)頃は、まったく嬉しくなかったですね。
『survival dAnce ~no no cry more~』(94年)で初めてオリコン1位を獲った時、事務所は大騒ぎでしたが、僕とCHIHARUとETSUはまったく嬉しくなかったんです。自分たちの力じゃなくて小室さんの手柄だから、全然ピンとこなかった。でも、温度は合わせないといけないから「やったね」とかムリして言っていた記憶があります。KOOちゃんとかボーカルのYU-KIは喜んでいたと思います。