『公研』2020年6月号「interview」
山極 壽一・京都大学総長
聞き手 香田 啓貴・京都大学霊長類研究所助教
ヒトは接触しないと飽き足らない動物
香田 新型コロナウイルスの感染拡大で世界中が大騒ぎになっています。蔓延を喰い止めるためには、何より人間が密集することを避けなければなりません。そのため大学でもオンラインで講義が行われるようになっています。僕自身もこの4月から大学で250名の学生を対象にオンライン講義を行っています。今もまさにWEB会議サービスZoomを使って、岐阜の実家から山極さんにインタビューをしています。それぞれが困難にあるなかで、自分の活動を続けて他者とのコミュニケーションを継続しています。こういう機会はなかなかありませんから、今日は「つながる」ことをテーマにインタビューできればと思います。
まずは感染症について聞いていきます。我々は霊長類の研究者であり、海外でのフィールドワークをベースにしてきたという共通点があります。ただ、黎明期から研究に携わってこられた山極さんたちと、僕らのような40代の世代とでは前提がだいぶ違うのだと思います。山極さんの主な舞台はアフリカですから様々な病気への備えが必要だし、命を賭けて赴くような覚悟が、我々以上に求められたのではないかと想像します。
山極 自分自身もマラリアに50回以上罹っているから、「命を賭けて」は決して大げさではないですね。僕がアフリカに行くようになった80年代始めはエイズが蔓延した時期で、アシスタントやアフリカ人研究者の友人夫婦もエイズで亡くなっています。エイズはアフリカを起点として全世界に拡がりましたが、僕らが研究対象としていたゴリラはまさにアフリカの奥地に棲んでいて、エイズの感染エリアと重なっていました。だから、常に注射器と注射針を持ち歩いていました。エイズは体液の接触で感染するので、注射針を打ち回すと罹ってしまう危険がある。注射を打つときは、必ず自分の針を使う必要がありました。
90年代以降もエボラ出血熱が蔓延する地帯を歩いていて、エボラでゴリラの群れが全滅したこともある。エイズやエボラはもちろん怖いけど、怪我をして傷口から雑菌が入ることも怖いんです。それに衛生状態が悪いから飲食物には十分に気を付けないと食中毒にもなるし、下手をすると腸チフスやコレラになる。そういうことには常に気を付けていて、それが習慣になる。自分の命は自分で守らなければなりませんからね。
今はきちんとした基地もあって衛生状況がずっと良くなっています。我々がやってきた活動の積み重ねで改善されたわけだけど、決して気が緩んでしまってはいけない。そこは肝に銘じています。
香田 確かに医療が発達したこともあって、我々の世代は感染症を伝説の逸話として聞いている感じでした。最初に海外でフィールドワークをしたのは東南アジア(インドネシア)でしたが、手ほどきを受けた渡邊邦夫先生からは「もうマラリアはほとんどない。大丈夫だろう」と聞かされていました。「危険だ」という感覚はだいぶ薄れていましたね。
けれども、今回の新型コロナは先進国でも蔓延した。やっかいなのは人間が感染を拡大させていることですよね。感染症は人類の歴史と隣り合わせにあることは自明ですが、過去に比べて拡大スピードが速かったことは重要だろうと思います。ネットワークが急速に発達して世界中に普及したことで、人間同士の接触頻度が格段に増えたことが大きな要因になっている。接触が指数関数的に増えていなければ、あくまでも小さな流行が単発的に起きる状況に留まっていたはずです。そう考えると、こうしてオンラインで会話していることと新型コロナウイルスの流行は、表裏一体な現象に思えてきます。
山極 いま香田君が言ったことは、ヒトのコミュニケーションの本質を突いていると思うんです。人類は太古の昔から交信できる仲間の数を増やす方向で進化してきました。その成果がインターネットやスマートフォンで、遠距離でもコミュニケーションできるようになった。けれどもヒトはそれだけでは飽き足らなくて動いちゃう。ウイルスにとっては、それはもってこいですよね。
通信だけなら感染拡大は起こらなかったが、移動してヒト同士が集ってしまう。しかも濃厚接触してしまう。会話したり、歌ったり踊ったりする。あるいはスポーツ観戦に行って、肩を組んでウェーブをしたりする。科学技術の発展で接触を断ってでも通信ができるようになったにも関わらず、ヒトはどうしても接触しないと飽き足らない動物なんですね。
香田 今回は感染のスピードが我々の想像を超えていましたよね。例えば5人が集まって、そこから倍々に感染が拡がっていけば1週間でとんでもない数字になる。計算ではわかりますが、人間の頭ではその掛け算の結果を想像できないと感じました。
山極 エボラは大抵広がらないんですよ。発生した事実がわかったら、アフリカでは村ごと焼いてしまって人々を隔離して抑え込む。ところが、今回のコロナは潜伏期間中にどんどん移動して都市にも移動した。しかも飛行機で他の国にまで行くわけだから、あっと言う間に国を越えて広がってしまった。ここがかつてのペストとは決定的に違う特徴ですね。人類のグローバルな動きがウイルスの蔓延にとって好条件になってしまった。
香田 新型コロナウイルスは今の人間社会のネットワークにまさに相乗りしたかたちで拡がった印象ですね。
フィールドワークの醍醐味とは?
山極 フィールドワークの話に戻るけど、僕が若い頃は一度行ったら1年間くらいは「戻ってくるな」という感じでした。でも今は、お金さえあれば現地と日本を頻繁に行き来できるから隔絶された場所に行く雰囲気ではなくなっているよね。
香田 僕よりも若い世代はさらに変わっていますね。僕らはビザの取得も面倒だったし、現金をたくさん持って行きました。それが今では現金は持たずにクレジットカードだけだったりする。現地のATMでおろせますからね。
山極 どんなに僻地だって、衛星通信で日本の研究室に直接つながるからね。
香田 ここ数年で劇的に変わってきているのは宿の手配です。東南アジアのローカルエリアの宿なんて、事前予約はできないのが前提で、行ってから探したものじゃないですか。それが今ではすべて事前にスケジュールできる。世界が本当にリアルタイムにつながっている感じですね。
僕はこの1年タイの田舎でテナガザルの調査をしています。飼育されている70頭くらいが対象なので過酷な環境ではありませんが、タイの山奥まで辿り着くのはそれなりにたいへんです。ところが僕より一回り若い後輩は、宿もルートもスマホで調べて、事前にすべてがつながった前提で調査の計画を立てていました。
山極 僕はまったく逆だね。意外性が大好きだから、行きあたりばったりでホテルなんか調べない。その代わり見つからなかったときに備えて、必ずテントは持っていく。それからナンキン虫、ノミ、シラミ対策として防虫剤も常備しています。
細かく計画してしまうと、とっさの判断で動けなくなるのがイヤなんだ。おもしろいと思えたらすぐに乗れるような構えをしておくことが大事で、それが僕にとっての理想的なフィールドワークだね。そもそも、計画通りに行ったらおもしろくない。
香田 それが醍醐味ですよね。僕自身も東南アジアで思い通り行ったことなんてないですからね。失敗して、その場で考え直す作業の繰り返しです。やはり動物が相手だし、自分が住んでいる環境ではないところで仕事する以上は試行錯誤がつきまとう。ただ、この数年スマホで何でも調べるスタイルが増えたことは痛切に感じますね。実際、東南アジアの奥地に関する情報もスマホでアクセスできるようになってきています。
山極 僕はスマホを持っていないから、使っている人の頭の中はよくわからない。でも見ていると、バーチャルとリアルの世界はかなり混合しているなと思う。ルートを探るにしても、インターネット上に情報があってそこにアクセスすることで決めているけど、僕は同じことを現地の人に尋ねることを好んでやる。聞く人がいなければ、現場の感覚に頼る。「この地域はこの街道筋に発達しているから、このまま走っていけば市街地に辿りつくだろう」とかね。アナログなやり方ですが、周囲の風景にしても現地の人たちがやっていることにしても、そのほうがしっくりと頭に入ってくる気がする。
森林に分け入ったときもそうなんですよ。森のなかではまっすぐ歩くことはすごく難しいんです。それよりも、獣道を通っていくほうがよっぽど早い。曲がりくねっているけれども、動物たちは通りやすい道をうまく選んでいるんです。「森の民」とも呼ばれているピグミーの人たちも絶対にまっすぐには歩きません。やはり獣道を歩く。それでいて、自分たちがどの方向に歩いているのかよくわかっている。けれども、彼らの頭の中にあるそのナビゲーションは決して地図には落とし込めない。それがすごくおもしろいなと僕は思っている。
人間以外の動物もそういう感覚で森を見ているのだと思います。我々はそれを俯瞰して地図にすることで、自然を読み解こうとしてしまっている。けれども、果たしてそれが正しいのかどうかは、未だに疑問に思っている部分がある。やはり森のなかは、匂いや肌感覚、温度や湿度、樹々の茂り具合、動物の走り方なんかを人間が持っている五感すべてを使って感じながら歩くものだと思う。「こちらは危険そうだ」とか「こっちのほうが面白いことがあるな」とかね。
なぜなら、環境は刻々と変化していて物理的に動かないものだけで成り立っているわけじゃない。どこそこに障害物があるから、そこを避けて行くのがベストの選択肢だというように事前に頭のなかで解けるものじゃない。自然はすべて動いていてダイナミックなものだから、そこで何に出会うかわからない。
ゴリラのことはわからないから彼らの世界に入る
香田 我々が動物や自然を相手に研究していて予想しないことに出会って感動して「おもしろい」と表現している醍醐味はそこにあると思うんです。
一方で、この数年はあらゆる地点がネットワークでつながって人の手では追えない膨大な情報量を機械で分析することが可能になっています。その研究成果に期待すると同時に、それは僕らが抱くフィールドワークや動物研究のおもしろさとは乖離している気もするんです。
山極 今の自然科学は、数値化したデータを解析して何らかの相関関係を導き出すのが主流だからデータポイントをたくさんつくらなければならない。例えば、サルの一連の行動を無理矢理切り取って断片的にデータとして記録していくと、そこからある一貫性が見えてくることもあります。人間の感覚では捉え切れない動物に対しては、それは仕方がないやり方だと思う。特に昆虫などは、彼らの行動の意味を想像することは困難です。
ただしサルは微妙な存在で、我々と五感が近いところがある。だから、そのサルがなぜそういう行動をしたのか想像することができる。我々が知りたいのはその理由だからね。これがデーターロガー(記録装置)でデータをとっているだけでは、その行動の背景や理由まではわからない。だからこそサルの世界に入り込むことが必要だと僕は思う。
さらに言えば、僕はヒトがヒトではなかった過去の姿を知りたいわけです。つまりゴリラとヒトとの間にあるギャップです。それを乗り越えないと過去のヒトがどういう仲間関係のもとに、どういう感覚を持って暮らしていたのか想像できない。そのためにはゴリラとヒトの両方の感覚を手に入れなければならない。僕はヒトのことはよくわかっているけど、ゴリラのことはわからない。だから彼らの世界に入って行くんです。数値化されたデータだけでは、ゴリラの世界観が理解できるとはとても思えないですね。
もちろん、データの精度を高めるためには、こちらの存在が彼らに影響を与えないことが大事になる。それならば、ゴリラの行動を四六時中無人のビデオで撮影しているほうがデータはたくさんとれる。でも、それだけでは物足りないんですね。それで、その場の社会的な状況は見えてこないから。やっぱり彼らの群れの中からの視線で、周囲を眺めないとわからないことがあるんですよ。ヒトが後ろにも目を持っているように、ゴリラにも後ろに目を持っています。その目を通じて彼らが何を感じているのかを肌で感じなければ、その状況は理解できません。彼らがどういう判断をして、どういう行為を積み重ねて行ったのかを記録しないと彼らの社会は読めない。
香田 おっしゃることはよくわかります。ただ、今の先端技術は大規模に情報をとることを可能にしたところがあって、これを取り入れていくとまったく新しい発見が可能になるのではないかという希望的な予測もあります。
山極 僕はデータをとることに反対しているわけじゃないんだよ。ただ最初は、彼らの間に入って考えたり、気づいてみたりすることは必要だろうと思っている。もちろんその気づきを立証することが必要で、そのためにはデータが必要になる。ただ「これを見ました」というエピソードだけなら科学にならないからね。
なので、気づいた上で「このデータをとったらおもろいんじゃないか」と発想してからデータをとることには賛成です。それなしにデータのサンプリングを最初から始めても意味がない。データだけをとってドーンと分析手法の中に放り込んで「結果が出ました」「出ませんでした」と言い合っているのは無意味だと思うけどね。
香田 発想は実体験から生まれる──。霊長類学が一貫して実施してきたことですね。データはその論理を肉付けするために集めるというわけですね。
テナガザルの会話の内容がわかる!?
香田 それでは、僕が対象にしているテナガザルを例に大規模なデータがこれから研究を変える可能性についてお話しします。10年くらい前ですが、スマトラ島の赤道近くのパダンというところでテナガザルの調査をしていたことがあります。山極さんは僕のことを新しい手法がとにかく好きなタイプだと思いがちかもしれませんが(笑)、最初に経験した屋久島での調査以来、割と伝統的なやり方にこだわってきました。地図を自作して、発見したおサルさんを記録していくやり方です。ところが、テナガザルはそう簡単に見られない。
山極 樹の上のずっと高いところにいるんだ。
香田 そうです。どこにどのような群れがいて、どんなコミュニケーションをしているのかを記録することがテーマでしたが、群れの追跡は早々に不可能だと断念しました。他の方法をとらないと何も見えてこないことがすぐにわかりました。そこでテナガザルの声を手がかりにして、彼らを見つける手法に切り替えたんですよ。
山極 追跡が難しいときは、声を録音することは効果的なアプローチになる。声色は種によってずいぶん違うから、それによって分類がずいぶん進みました。マダガスカルの夜行性の原猿類では特にそうです。我々はどうしても視覚に頼ってしまっていて形態や行動や生態から見分けることに慣れてしまっているけど、声にも多様性がある。声の違いは繁殖に相当影響するはずだから、ここに注目することはとても重要なんだよね。
香田 僕もそう考えました。それで当時の仲間だった親川千紗子さんと二人で、テナガザルの鳴き声を記録することを始めました。テナガザルの鳴き声はすごく遠くまで届くんです。2キロくらい離れていても聞こえます。無線を使って二人で連絡を取り合いながら、テナガザルの鳴き声が聞こえてきた時間や方向を地図上に記録していきました。そうすると、テナガザルがどこで鳴いていたのか大体わかる。これを毎日やっていました。素朴なやり方ですが、きちんと情報を積み上げて行くと群れや家族が浮かび上がってきます。ただし、限られた時間で行うにはあまり効率的とは言えない調査であることは否めません。
この調査を通じて大きな仮説を持つことはなかったんですが、いつかは森の中でテナガザルの音声を自動的に記録して大量に集めることができるようになるのではないかと妄想するようになりました。そんな夢のような調査が確立されれば、テナガザルの家族編成や群れの構造が見えてきます。さらには、彼らが鳴き声を使って実際にどういうやりとりを交わしているのか、その内容にも踏み込むことができるんです。
山極 ロマンのある話だね。
香田 そうなんですよ(笑)。実は最近とあるマイクを使った方法を知りました。放射状にマイクが8個付いているんですが、これは音がどこからやってきたのか到来方向や音源場所を推定できるんです。この手法を知ったときにはすごく興奮しましたね。10年前に行ったテナガザルの調査をすぐに思い出したからです。マイクをいろいろな場所に配置して、日々テナガザルの音源場所を集積できればかなりのことがわかります。究極的には、家族が歌い合う様子が見えてくる。この調査は今にでもやりたい気持ちになっています。
このケースは強い仮説や理論が先にあるわけではなくて、新技術によって明らかにされる領域への興奮ですよね。夢のように思えていた世界が、僕が生きている間にもしかしたら手に入るかもしれないと。
ところが、実は似たようなことをすでに実行している人たちがいたんです。それがオーストラリアのある研究所が行っている「オーストラリア・アコースティック・オブザーバー」というプロジェクトです。彼らはオーストラリア各地に録音サーバーをたくさん建てて、5年間にわたって自然の音を録音し続けることを始めたそうです。その場所にどういう動物がいるのかをぜんぶ記録してやろうと。発想としては、僕のアイデアとよく似ているんですよね。
このプロジェクトが意味していることは、とても大きいと思っています。つまり、ネットワークの発達によって現場に行かずとも膨大な情報が手に入る状況がいよいよ到来したわけです。極論を言えば、フィールドワークをしなくとも動物の様子が目に見える技術が確立されようとしています。
集まり過ぎるデータをどう処理するのか
山極 なるほどね。今の話を聞いて、僕の学生だった本郷峻くん(京都大学アフリカ地域研究資料センター特定研究員)のマンドリルの研究を思い出しました。マンドリルも警戒心がすごく強いし素早くて行動範囲も広大だから、とても追えない。そこで彼はカメラトラップを使ってマンドリルたちが道を横切る姿を録画したりすることで、群れの構成や数を調べたんです。
そこには、とてもおもしろい発見があったんです。例えば、マンドリルの群れにマンガベイが紛れ込んでいたり、さらにはマンガベイとマンドリルのハイブリットと思えるやつが見えたりするわけだよ。だけど、チラッとしか見えないから本当のところはまだよくわからない。
カメラに頼ると確かにデータはいっぱい集まるし、イライラするほどにおもしろいことがいっぱい出てくる。でも、ここには二つの課題があります。一つは時間が掛かること。例えばチンパンジーをやっている研究者や学生たちもよくビデオを用いるんだけど、撮影で映ったものはすべて見なければならない。行動を何度も再生して分析し直すことを徹底してやってきました。これは西田利貞さんの教えでもあるんだけどね。
半年調査に行ったら、ビデオ記録をデータにするのに1年くらいかかる。僕はそれを見ていて、ちょっとしんどいなといつも思っていましたね。本当はフィールドに出ていきたい人たちがずっと部屋に閉じ籠もって、映像記録ばかり眺めて過ごさなければならないのは残念な気がしたね。だから自動記録は、人間の目以上にいろいろなものを集めてしまうことがある。
もう一つは、すぐに現場に行けないこと。先ほどのマンガベイとマンドリルのハイブリッドのような予想もしていなかったことが記録から生まれてくることはあり得る。けれども現場にいないから、それを確かめようがない。次の行動に移れないわけです。そういうイライラがある。フィールドワーカーは、現場でそれを処理してきました。見たいものを見るために、現場でアシスタントと相談しながら工夫してきたわけです。
この二つの課題をどうやって解決するのか。おそらく、そこにAI(人工知能)を持ち込もうというのが今後の解決策になるのだろうけどね。
香田 AIがもたらす成果には強い関心があると同時に、そこまですると何がおもしろいのかわからなくなってしまう気もします。フィールドワークの醍醐味や予想もしていないことに出会うという研究の喜びとは真逆ですからね。そこから出てきた成果なりを興奮を持って、「これはおもしろい」と伝えられる自信が僕にはあるのだろうかと自問しています。
山極 現場で実際に見たわけじゃないからね。映像でも音声でも瞬間を切りとったおもしろさは出てくると思う。ただし、それを解析してどのように一般の人に伝えるのか。見ている人は、現場の雰囲気を知りたいわけだからね。知ったかぶりではなくて、臨場感を持って解説できるかどうかにかかってくるだろうね。
香田 いかにおもしろさを伝えるのかは、教育の根幹に関わることですね。冒頭でもお話ししましたが、いま大学で動物行動学の講義を受け持っていて、250人くらいの学生に参加してもらっています。教養科目なので基本的には何を話してもいいんですが、フィールドワークの臨場感が伝わる授業をすることを心がけています。僕自身がテナガザルを実際に見たときの話をすると、学生たちも関心の持ち方が違いますよね。明らかに楽しそうに聞いてくれる。学生たちが自分たちも現場に行って、一回見てみたいなと思わせるような話をすることは、僕らが果たせる大事な役割だと思っています。
山極 もちろん現場の感覚は重要だけど、それ以上に「これはテナガザルにとってどういう事態なのか」をわかりやすく解説することが必要だと思うんだ。一般の人たちにテナガザルのストーリーを理解してもらうわけです。
彼らには縄張りがあって、そこで家族単位で棲んでいる。他の家族がいる縄張りには侵入しない。そうやって空間的に棲み分けている。結局、彼らは家族同士が混合したりはなかなかしない。それに基本的には接触しない連中だから、縄張りのなかで家族同士が音声でやり取りをしている。その距離が離れているケースもあるが、家族同士だからそんなに離れていなかったりする。
テナガザルにはこうした特徴があるわけだけど、これは一体どういう世界なのか──それを彼らの立場から解説しないと、音声の意味が伝わってこないと思うんだよね。
ここにはたくさんの疑問が湧くと思うんです。例えば、なぜ縄張りを守るのか? なぜ縄張りをつくってしまうのか? その小さな縄張りだけで本当に生活していけるのか? 食料は足りるのか? 子どもはいつ自分の縄張りをつくるのか? そしてなぜ距離をとって音声でやり取りをするのか? という具合にちょっと考えるだけでいろいろ出てくる。人間は物語が好きだから、それをストーリー化して伝えなければ一般の学生にはおもしろさはわからないと思う。
香田 テナガザルなりの物語があるわけですからね。
霊長類の自然認識の仕方を知りたい
山極 今後のフィールドワークについてもう少し考えてみたいんだけど、やっぱり技術の進歩によっていろいろな方法が生み出されることになるのだと思う。例えば、テナガザルの格好をしたアバター(自分自身の分身となるキャラクター)を香田君が操作して、生息域に忍び込ませて彼らの行動の一切を記録することができるようになるかもしれない。小さなドローンを飛ばして、その様子を上空から撮影することもできる。そうすると、人間の能力だけで歩くフィールドワークの時代が終わることになる。
むしろ、自分よりもずっと優秀なロボットの代理をつくって、彼らの目や耳を利用して人間の能力ではとても到達できないような場所の記録をしてもらう。即時的に、しかも遠隔から操作できるようになる。そうなると日本にいながら、東南アジアの奥地を調査できる。やはり、そちらに向かっていくのだろうね。
香田 そこなんですよね。僕が長生きすると、そういう場面を見ることになるのだと思います。さっきの繰り返しになりますが、それが楽しみだとは思えない感覚がどこかにあります。
山極 それは意外だな。香田君なんかは、そちらのほうが良いのかなと思ったんだけど?
香田 いくらなんでも、それは違いますよ(笑)! そうなってしまうと研究をやる意味がない気がするんです。何かパラドックスを強く感じますね。
山極 僕らがなぜゴリラやテナガザルやニホンザルを追うのかと言えば、彼らの自然認識の仕方を知りたいという想いが一方ではあるわけです。そのために彼らの身体に近づこうとするのが、霊長類研究特有のやり方で、それこそがフィールドワークの醍醐味でもあった。ただし、あまり人間に慣らしてしまうと人間の影響は捨てきれなくなる。
それならば、人間の影響をゼロにとどめて、なるべく機械によって記録させるほうが正しいやり方ではないか? という意見は昔からありました。だから、アバターにとって代わられることになるのは致し方ないところがある。対象にヘンな影響を与えないし、思い込みに囚われることもないから出てくるデータの精度も高い。そのほうが安全でコストも安いしね。
ところがそれが魅力的に思えないのは、人間の影響をゼロにして彼らの行動を100%知ることが我々の目的ではないからでしょう。霊長類も多様性に満ちていて、それぞれが自然の認識や利用の仕方が違います。彼らを窓口にして、多様性に富んだ自然を少しでも確認することに僕は興味がある。人間は自分の身体を使って、まだその多様な世界の一面しか理解し得ていないし、その身体感覚を次第に失いつつある。このことは、霊長類研究者はもっと主張したほうがいいと思う。
けれども、まぁ絶対にアバター調査のほうに行くだろうね(笑)。科学技術はおもしろいからね。テレビゲームと一緒で、一旦のめり込むと離れられなくなってしまう。
香田 もともとは動物を通じて自分が知りたいという動機があったのが、先端技術に触れると忘れがちになってしまう気もしますね。
山極 最初に香田君が「つながる」というキーワードを提示してくれて、今の世界のネットワークについて話したけど、哲学的な意味でも「つながり合っている」という感覚は重要だと思う。今は科学技術によって、つながり合っている感覚はある程度担保されています。けれども、その感覚を本当に覚えるのは、やはり長時間対面して何かを一緒にやったり、感動したりする心の触れ合いが必要なんだよね。
それは相手が動物やペットであっても言えることです。人間の言葉だけで理解し合っているのではなくて、身体で通じ合っている感覚がやはり重要なんだけど、人間はそちらを置き去りにしつつある。スマホで文字だけでつながっている感覚が当たり前になると、本当にいつかとんでもない事態が起こるかもしれないと懸念しています。
同じように、人間同士だけではなくて自然とのつながりも大事だと思う。土や緑や新鮮な空気、川のせせらぎなどとのつながりも生きる上で重要だと思うんだよ。食物の味は、自然と我々をつなぐ大きな要素なんです。それを調理して自然の味を変えながら身体に採り入れてきた。そして、それを媒介しているのが我々の腸内細菌だよね。
ヒトと自然との直接的なものだけではなくて、微生物のように普段は意識していないつながりもつくられている。そして、それが大きな影響を持っていることをもういっぺん再考する必要があるのではないかと最近よく考えています。
香田 その通りですね。皮肉なのは、新型コロナはそうした身体的なつながりに付け込む性質があることですね。
山極 そこがやっかいなところだね。ただ、このコロナ禍の最中にそれを考えてみることは悪いことではない。つながりをつくるうえで本当に重要なものは何なのか? それはコストや時間を含めた合理性で解決できるものなのか? こうしたことを反省して、新たにこの地球上の生物の世界を考えるにはとてもよい時期だと思っています。
オンライン講義の可能性と課題
香田 最後にコロナ禍によって俄かに根付きつつあるオンライン講義について少し考えてみたいと思います。今回必要に迫られて慌てて準備することになりましたが、京都大学は2013年にMOOC(ムーク:大規模公開オンライン講義)をつくりましたから、この流れには先駆けて対応していました。僕もコンテンツを持っていましたから割とすぐに適応できました。ただ、報道などに接する限りでは苦労されている先生が多いようですね。
山極 僕はね、自然科学者は本当に真面目に講義をしたことがないと思うんだよね(笑)。だっておもしろい講義をするよりも、どれだけいい論文を書いたかで評価されるじゃない。だから、いま急に不特定多数を相手にオンライン講義をすることになって戸惑っている人が多いのはよくわかります。この30年くらい懸念していたのは、自然科学者は英語で論文を書くことしか頭になくて日本語で一般の人たちに語る努力をしてこなかったことです。そういうメディアも消滅してしまった。そのことは、やはり日本国内の科学的なリテラシーが落ちた大きな原因だと思う。
僕がMOOCを始めたのは日本の霊長類学が一般の人たちにほとんど知られていないと感じていたからなんです。さらに言えば、霊長類が棲んでいる発展途上国の人たちは、霊長類はともかく霊長類学はまったく伝わっていない。だから日本の霊長類学が何を目的にして行われてきたのか、その歴史を広く知ってほしいと考えたんです。特に初期の霊長類学は、第二次世界大戦の惨禍をどうして人間が起こしてしまったのか、という反省のもとに出てきたことは事実なんですね。そういうことを伝えなければならないと思っていました。
香田 大学がオンラインで講義を公開する流れは、コロナ禍以前にすでに盛んになっていたところがありますね。
山極 この新型コロナ騒動の最中でも、欧米の大学は留学生対策をいま必死に考えています。実際にアメリカやイギリスにやってこなくても、オンライン講義で留学として認めようというシステムがたくさんできている。日本には全国に800も大学があっていろいろな講義が行われているけど、他の大学生はそれを聞けないという事態がグローバル化に立ち入った時に崩されていく気がしています。
香田 ただ、究極的には、学生は大学に行く必要がないと考えるようになるかもしれませんね。
山極 だから使い分けたらいい。僕はこの機会に大学の講義が一般に開放されるのはいいことだと思いたいですけどね。一般向けの講義はどんどん配信して、学者や科学者が一体何を考えて何をやってきたのかを広く知ってもらう。あまり難しいことを話しても仕方がないけど、一般教養なんてもっと開いたらいい。
ただ一つ心配なのが、そうやって大学の講義を一般に完全にオープンにすると、「もう大学教員の数はそんなにいらない」と文部科学省が言い出しかねないところがある。
けれども、それは違います。なぜなら、大学は個人指導が基本だから、教員はそれだけの多様性と数が必要なんです。だから、おもしろい講義をしてくれる先生だけが必要なわけじゃない。一般の人たちがそこに気づいてくれないと、これは大学にとっては自殺行為になりかねない。
香田 オンラインで広く講義を公開することが求められると同時に、個人指導の重要性も増していると。
山極 僕はこれからの大学の教育は、個人指導の側面がより強くなっていくと思っているんですよ。これは対面でなければできない。
つまり、学生が大学にくる理由は、講義を聞くためではなくて、「気づき」を得るためなんですね。それを与えてくれるのは、同級生であったり教員であったりする。少人数ゼミ、実習、実験など現場で経験しなければわからないことがいっぱいある。その典型がフィールドワークですよね。これは基本的に学生一人に対して教員が一対一で指導する個人指導ですよ。
コロナ禍の大学がたいへんなのは、個人指導もオンラインでやらなければならないことです。オンライン講義の特徴は、学生から質問がいっぱいくるところにあると思っていて、そこは対面での講義とは違う。講義室での講義なら終わった後に、2、3人の学生が研究室に質問にくるくらいです。ところが、オンラインになると長文にわたる質問がたくさんくる。普通の講義室なら他の学生もいるし、「もう少し短く話そう」と思うんだろうけど、オンラインだと他の連中の目を気にせずに一人で居るから延々と喋ってしまう。それに応えるのはかなりたいへんなんだよね。
それからオンライン講義で気をつけなくちゃならないことがあって、質問や感想を文章で寄せてもらうと、もうヘイトばかりになってしまうことです。「全然面白くなかった」とか「一体何考えているのか?」とか、そういうことを平気で書いてくる。だから、今ネット上に蔓延しているネガティブな要素を持ち込んでくることになってしまう。先生と学生の立場でありながら、ネットの世界と同じように個々人がメディアになりつつあって発信側にもなろうとしている。肉声であれば相手に面と向かって言えないような過激な言葉でも、文字だけの情報だとそれが書けてしまったりする。悪質なことが書けちゃうんですよ。まともにそれを受け取っていると、教員もすぐに心が痛むことになります。ネガティブに陥らないように、あらかじめ防ぐことを考えなきゃならない。だから僕は、なるべくオンラインでも肉声を聴ける対面がいいと思っているんですけどね。
香田 山極さんは、楽しんでやりそうですけどね。
山極 僕はけっこうナイーブなんで堪えます(笑)。
大学教育のモットーは自学自習
香田 オンライン講義は、学生がどういう受け止め方をしているのかよくわからないことが一番の悩みですね。「おもしろいと思ってくれているのかな」とか「理解してくれているのか」とか、それが気になって仕方がない。
山極 ダイレクトな反応がわからないから、伝え方に工夫は必要だろうね。パワーポイントを使った講義が一般的になっていたけど、パワポでつくった図表は記憶に残らないでしょ? だから理学部の先生や数学者はとくに、最近はあまりパワポを使わずに、黒板に板書する人が多くなっているんだよ。パソコンの画面をホワイトボードにして、そこに書き込んでいくことで実感を持たせる工夫は案外有効かもしれない。
香田 なるほど。工夫は大事ですね。オンラインコンテンツも充実すれば、一つの武器にもなる。
山極 大学と高校までの教育との大きな違いは、大学の教員はそれぞれが研究者であって誰一人同じことをやっていないことだと思うんです。高校の先生は指導要綱に従って同じことを教える必要があるが、大学はもっと個性があっていい。だから研究者でありながら教員であるという事実をもっと活かして、みんな違うことを喋ったらいいと思うね。
いずれにせよ、大学教育のモットーは自学自習という基本に帰ったほうがいい。そう考えると、学びの機会なんていくらでもあります。それは学生と教員の関係から生まれることもあるし、学生同士から学びとることもある。講義に出て話を聞いて単位をもらって帰って行くような大学であってはいけないし、そういう学生であってもいけない。だから、いろいろな環境を用意する必要があるということだよね。
これまでは自由に接触できて選択の範囲がいくらでもあったけど、コロナ禍の現状ではそれが制限されている。それでも、そうした多様な環境をいかに有効につくれるか。そこがこれからの大学の勝負じゃないかと思っています。(終)