『公研』2016年9月号「めいん・すとりいと」

三浦瑠麗

 米オバマ政権が核兵器の先制不使用の政策を進めようとしています。政権初期に「核なき世界」演説でノーベル平和賞を受賞しながら、北朝鮮が新たに核保有国となるなど、世界の核不拡散体制は揺らいでいます。任期の最後に多少の罪滅ぼしも込めてレガシーづくりを進めているのでしょう。それに対しては、米国内からも、米国の核の傘に頼る日本など同盟国からも懸念が表明されています。総理から直接の懸念表明があったのかどうかについては報道が錯綜していますが、実際に日本の安全保障に大きな影響を与える問題です。

 核兵器について議論する際に重要となるのが「抑止」概念ですが、これが近年乱用される傾向にあります。抑止とは、相手からの報復に伴う損害があまりに甚大なので、そもそも当初の攻撃を思いとどまらせるという形で成立します。核保有国である中国や北朝鮮が日本に直接的に手を出さないのは、日米安保を通じた抑止が成立しているからです。それは、米軍の圧倒的に優れた通常兵力、特に海軍と空軍の力に負っています。

 歴史的に、核を通じた抑止は冷戦期の欧州で必要となった発想です。当時の西側陣営はソ連の陸上戦力に対して圧倒的に不利な状況にあり、核なしに抑止することができなかったからです。東アジアの状況は当初から全く異なるものでした。東アジアに関する限り、核兵器なしに抑止は成立しており、米国の核の先制不使用政策は現状を追認した政策に過ぎません。

 戦後の日本が陥ってしまう悪癖は、とかく安全保障を感情で語ってしまうことです。唯一の被爆国として核廃絶に特別の国民感情がある、というのは政治的言説としては理解できても、現実の国際政治の場面では役に立ちません。世界は、日本が被爆国としてのアイデンティティーと、米国の核の傘に頼る矛盾の下で生きていることを見通しています。核廃絶を究極の理想として置いておくことは、人類全体にとって意味あることとは思うけれど、それを国の政策の根本に置くことはありえないのです。

 反対に、米国にとにかく最も強硬な姿勢を求める姿勢も有害です。リベラルの安全保障をめぐる言説が幼稚であるからといって、自称リアリスト達が反対の極論に流れるのも生産的でない。安全保障の世界は、ひたすら冷徹に脅威を見極めていく世界です。しかも、表面に表れるわかりやすい脅威と、中長期的な本質的な脅威とをきちんと峻別する姿勢が重要です。

 日本の安全保障の観点からは、日米同盟の信頼性と、米国の通常戦力に基づく抑止が万全であることが最も重要です。米国が提供する抑止を核に頼る状況は、かえって日本の安全保障を危うくする可能性すらあるのです。核兵器の使用が想定されないシナリオにおいて、米国のコミットメントを低下させる恐れがあるからです。東アジアで想定されるリスクのシナリオは朝鮮半島有事や東シナ海、南シナ海での有事です。そのような事態にあって、核兵器の使用はもともと観念にしにくいのだから、むしろ、米国の通常戦力に基づく関与をどのように引き出すかが重要なのです。

 戦後日本において、核に関する議論は国民意識の深い部分に関わってきました。であるからこそ、安全保障の観点からは、左右双方からの観念論を排したリアルな言説が必要です。国民感情を前面に出して、核に関する議論をタブー視し、結果的に政府は誤魔化しの逃げを打つということでは、国民に対する責任を果たせないのではないでしょうか。国際政治学者

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