『公研』2026年7月号 第 676 回「私の生き方」

漫画家
原 哲夫


はら てつお:1961年東京都渋谷区生まれ。漫画家を志し、高橋よしひろのアシスタントを務めながら「劇画村塾」で学ぶ。82年に『週刊少年ジャンプ』にて『鉄のドンキホーテ』で連載デビューを果たす。翌83年、原作・武論尊とともに『北斗の拳』の連載を開始。緻密で重厚な画力と熱い漢たちを描く作風で社会現象的ブームを起こす。その後も『花の慶次 ─雲のかなたに─』などの代表作を生み出し続け、2000年には株式会社コアミックスの設立に参加。同社取締役を務めながら自身の作品を精力的に発表している。



絵にのめり込んだ少年時代

──原先生が漫画に興味を持たれたきっかけを教えてください。

 父がサラリーマンで、朝早く起きて、電車に乗って会社に行く、という生活スタイルを見て、僕にはとても真似できないと思いました。僕は物心がつく前からずっと絵を描いていたので、これで食べていける仕事はないかなと考えて、小学校2年生の頃に漫画家になろうと思いました。

 ただ、僕はその頃あまり漫画は読んでいなくて、どちらかというと漫画原作のアニメを観ていました。絵が止まっている漫画より、動きのあるアニメーションのほうがいい、と思っていたんですね。そんなとき、クラスメイトの女の子が、たまたま僕に漫画をプレゼントしてくれたんですよ。赤塚不二夫先生の『おそ松くん』でした。試しに開いてみたら、読んでいるうちにだんだん絵が動き出して見えてきました。漫画ってすごいな、とそのとき初めて感じましたね。

──漫画を描き始めたのはいつ頃からだったのでしょうか?

 ちゃんと描き始めたのは小学校3年生ぐらいからです。その頃に、母から『藤子不二雄先生のまんが入門』という本を買ってもらったことも大きいでしょうね。当時の絵を描くのが好きな子どもたちにとって、バイブル的な一冊だったかもしれません。

 僕は学校の授業もほとんど聞かないでひたすら絵や漫画ばかり描いていました。だから勉強はできない代わりに突飛な発想ができた。漫画や特撮には、毎週のように凝ったデザインの新しい怪人や怪獣が出てくるじゃないですか。だから僕は、漫画家は週一でこういうのを思いつける能力がないとダメなんだと思って、ひたすらデザインを考えて描いていました。

──そうしてメキメキと漫画の腕を上げられていったわけですね。漫画賞などへの応募はいつ頃から始めたのでしょうか?

 僕が中学生の頃、石ノ森章太郎先生が少年ビッグコミックで担当されていた企画コーナーで、4コマ漫画を募集していました。そこに応募したのが最初ですね。物語の起承転結を身につけるためには4コマを練習するのが一番です。ときどき作品が入選すると、「原くんの漫画はここがいいね」とコメントが書いてあって、本当に嬉しかったのを今でも覚えています。

 石ノ森先生とは僕が漫画家デビューしてから数年後に直接お会いする機会があったのですが、緊張のあまり4コマのことはとても話せませんでした。

──その後、私立本郷高校のデザイン科に入学されます。

 高校時代は漫画劇画部という部活に所属していました。しかし当時はブルース・リーのカンフーブーム真っ只中だったので、先輩たちは漫画そっちのけでカンフーが題材の自主映画を撮っていました。僕もカンフー映画はよく観ていましたが、仮にも漫画部ならそれを漫画で表現するべきだろうと思って漫画で描いていましたね。ちなみにこのときのカンフーへの興味が、後の『北斗の拳』のケンシロウのキャラクター造形にもつながっていきます。

ジャンプで出会った名編集者

──高校卒業後、先生は週刊少年ジャンプでデビューを果たされます。

 僕は大学に行く気はなかったので、まずはアシスタントをして漫画を学ぼうと思っていました。最初は、週刊少年マガジンで『釣りキチ三平』を連載していた矢口高雄先生にアシスタント希望を出したんですよ。でも落とされてしまいました。それで、このままじゃいけないと思い、仕方なくジャンプのアシスタント募集に応募したんですよね。今からだと想像しづらいですが、当時はサンデーとマガジンが主流の時代です。ジャンプはその後を追うかたちでした。若い新人作家の育成に力を入れていたジャンプは、常に新人アシスタントを募集していました。

 それ以前に、僕は高校1年と2年の夏休みに、作品をすでにジャンプへ応募していました。1年生のときは落ちてしまいましたが、2年生のときは最終選考に残って編集部にも呼ばれました。そのとき「新しいものを描いてもう一回持ってきなさい」と言われたので、描きかけの原稿を持っていったら、厳しい言葉をかけられました。「こんなのじゃ全然ダメだ。『キン肉マン』のゆでたまご先生は、君とほとんど歳が変わらないのに連載を持っているんだよ」と言われたことをよく覚えています。悔しくて、もうジャンプには連絡するものかと思っていたのですが、やむをえず編集部に電話をかけたとき、出たのが編集者の堀江信彦さんでした。

──堀江さんといえば、『北斗の拳』から『花の慶次 ─雲のかなたに─』まで、長らく先生の担当編集を務められた方ですね。

 その頃の堀江さんはジャンプ編集部の新人でしたから、電話番をしていました。それでたまたま僕がかけた電話を彼が受けた。今思えば、そこが運命の変わった瞬間だったのかもしれません。

 それまでの僕は、本当に描きたいものが描けなかったんですよ。僕は自分の劇画調の絵に合う硬派なストーリーを思いつけなかった。だからギャグ漫画ばかり応募していました。でも堀江さんに僕本来の画風である劇画調の絵を見せたら、すごく気に入ってもらえて。カッコいい男を描きたいよね、と盛り上がってすっかり意気投合しました。

 そして、「ちゃんと人気を得ている作家のところで勉強することに意味がある」という堀江さんのアドバイスと紹介を受けて、僕は高橋よしひろ先生(ヒット作に『悪たれ巨人』、『銀牙 ─流れ星 銀─』など)のもとへ行き、修行を積みました。

初連載はもう死んでいる!

──それから数度の読み切り掲載を経て、モトクロスを題材とした『鉄のドンキホーテ』の連載がスタート。しかし本作はわずか10回で連載打ち切りとなってしまいます。

 本当は2話目の時点で打ち切りが決まっていたんです。1話目の読者アンケートがダメで、2話目もダメだったから。2話目がダメだと打ち切りがほとんど確定になるんですよ。でも僕は連載が終了することを知らされないまま描き続けていて、6話目まで描いたところで堀江さんが「もうその漫画は終わるから、次の話をしよう」なんて言い出したんです。「原くん、中国拳法の漫画が描きたいって言っていたね。次は、経絡秘孔っていう人体のツボを突くと人間が爆発する話はどうだ?」。

 この人は何を言ってるんだと思いましたね。秘孔を突いたら人間が爆発するなんて、そんなおかしな話があるかと。ただでさえ打ち切りが決定してお先真っ暗だっていうのに、「決め台詞は『お前はもう死んでいる』だ!」なんて(笑)。

 とはいえ『鉄のドンキホーテ』を描くにあたり、僕も見通しが甘かったのかもしれません。デビューすることばかり考えて、自分が本当に描きたいもの、描けるものが何なのかをちゃんと考えていませんでした。だから次に全てを賭けよう、次でダメならもう諦めようと強く決意して『北斗の拳』の構想を練りはじめました。

『北斗の拳 新装版』第1巻(コアミックス刊)

 

──『北斗の拳』の構想はどのように固まっていったのでしょうか?

 堀江さんは『必殺シリーズ』のような、標的を針で刺して殺す地味な暗殺モノで行こうと考えていました。そこへ僕がブルース・リーの要素を無理やりくっつけたことで、『北斗』のテイストが固まっていきました。本来であれば相手の秘孔を突いて殺すのに派手なアクションは不要なんですが、僕はやりたいことを全部やるぞと思って北斗百裂拳などの豪快な必殺技を勝手に考案しました。秘孔はその間に突いていたという設定です(笑)。

 堀江さんも堀江さんで色々なネタを出してくれました。「中国じゃ北斗七星は死を司る神だと言われているから、拳法の名前は北斗拳でいこう」とか。でも僕は「北斗拳」では語呂が悪いと思って、当時流行っていたジャッキー・チェンの『飛龍神拳』という映画から取って「北斗神拳」と名付けました。

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