『公研』2023年1月号「めいん・すとりいと」

 

 2022年10月末、アンネ・フランクの親友ハンナ・ホスラルが93歳で生涯を閉じ、そのニュースは日本を含む世界各国で報じられた。彼女は亡くなる前のアンネと収容所で奇跡的な再会を果たした人物としても知られており、生前のアンネを知る貴重な存在だった。

 ホスラル一家はアンネ・フランク一家同様、1930年代前半にドイツのユダヤ人迫害を逃れ、オランダ・アムステルダムに移り住んだ。両家族とも近くの新興住宅街に落ち着き、家族ぐるみの付き合いが始まる。

 アンネやハンナ(ハンネリ、ハンネとも呼ばれた)たちの遊び場となり、友情が育まれたのが、アムステルダム南東部、メルウェーデ広場という二等辺三角形の広場である。付近にはドイツなどから難を逃れてやってきたユダヤ人家族が多く、たちまちにして仲間が増えた。特にアンネとハンネ、そしてサンネ・レーダーマンの3人は親しく、「仲良し3人組」が結成される。3人で通りを歩いていると、近所の人が「アンネ(Anne)、ハンネ(Hanne)、サンネ(Sanne)が来たね」と声をかけるほどだった。

 1939年、アンネ10歳の誕生日記念に、広場の仲間9人で写った写真がある。撮影者は父オットー。9人の少女が肩を組んで横一列、笑顔が並んでいる。この写真でも、アンネ、サンネ、ハンネの「仲良し3人組」は隣り合って写っている。まさに「広場の青春」だった。

 しかし1940年5月、ナチ・ドイツがオランダに侵入し、またたくまに全土を占領する。国内のユダヤ人は追い詰められ、1942年には強制収容所への移送が本格的に始まる。アンネ一家は7月6日朝、市内の別の場所(プリンセン運河沿いのオットーの事務所の階上)に密かに移り、潜伏生活を開始した。同日朝、いつものように一緒に学校に行こうとアンネ宅を訪れたハンナは、もぬけの殻となったフランク家をみて茫然とする。ハンナの一家は翌43年に強制収容所に送られ、親や祖父母は命を落とす。

 しかしアンネとハンナは、よほど強いきずなで結ばれていたのだろうか。45年2月ごろ、ベルゲン=ベルゼン強制収容所にいたハンナは、アンネが同じ収容所にいるという話を耳にする。そこでアンネのいる区画に向かったが、有刺鉄線の柵で隔てられ、入ることができない。しかしある晩、柵の向こうに声をかけると、たまたま返事をした女性がいた。実はその女性は、アンネの潜伏仲間、恋仲となったペーターの母親のアウフステだったのだ。こうしてアンネとハンナは、柵越しながら再会を果たす。しかしアンネは相当衰弱しており、ハンナは差し入れをアンネに渡すなどして励ましたが、まもなく2人は会えなくなり、アンネは病死する。

 ハンナは妹とただ2人、孤児となってオランダに帰還した。頼る者とてない2人の前に姿を現したのが、誰あろう親友アンネの父、オットー・フランクである。オットーは死ぬ前の娘の様子をハンナから聴き、そして姉妹がスイスのおじのところに行けるよう、万事取り計らってくれた。ハンナはのちにイスラエルに移住したが、アンネの生き証人としてその後も折に触れて過去を語ってきた。彼女の物語は映画化され、2022年には『私の親友、アンネ・フランク』としてネットフリックスで公開された。それを見届けるかのように、ハンナは息を引き取ったのである。

 かつてアムステルダムの広場を闊歩した、アンネ、ハンネ、サンネの「仲良し3人組」。いまごろ天国でトリオを再結成し、広場で思いっきり遊んでいる頃だろうか。

千葉大学教授

 

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