『公研』2025年10月号 第667回 「私の生き方」
国立遺伝学研究所 所長
近藤 滋
こんどう しげる: 1959年東京都生まれ。82年東京大学理学部卒業、84年大阪大学大学院修士課程修了、88年京都大学大学院医学研究科博士課程修了(医科学博士)。東京大学医学部博士研究員、スイス・バーゼル大学研究員、京都大学助手、徳島大学教授、理化学研究所チームリーダー、名古屋大学教授、大阪大学大学院教授などを歴任。2024年より現職。著書に『波紋と螺旋とフィボナッチ』『いきもののカタチ─多彩なデザインを創り出すシンプルな法則─』『エッシャー完全解読─なぜ不可能が可能に見えるのか─』など。
教科書を飛び越えた生物の授業
──1959年、東京都のお生まれです。子どもの頃は、どんなことに夢中になっていましたか?
近藤 昆虫少年だったとか、今の研究に直結するような生き物への興味があったわけではありませんでした。夢中になっていたのは、漫画やアニメですね。変身ヒーローものや怪獣ものが大好きで、『ウルトラQ』『ウルトラマン』『スーパージェッター』なんかをひたすら観ていました。特に『天才バカボン』は大好きで、赤塚不二夫先生は僕にとって神様みたいな存在です。
ただ、漠然と将来は研究っぽいことをやってみたいな、とは思っていました。勉強の中では数学や理科が好きでしたし、ダーウィンとかメンデルみたいに歴史に名を残す科学者って、やっぱりかっこいいじゃないですか(笑)。
──生き物に興味を持ち始めたのはいつごろでしょうか?
近藤 高校時代でしょうか。私が通っていた東京教育大学附属駒場高等学校(現筑波大学附属駒場高等学校)がとても変わった学校で、生物学の授業で高校のカリキュラムを超えたおもしろい実験をしていたんです。
大腸菌の遺伝子組み換えの実験です。大腸菌にウイルスを感染させると、遺伝子が一部入れ替わるんです。その結果、元の大腸菌と少しずつ違った株ができていく。その違いの大きさを調べると、遺伝子の変化を距離として測れるんですね。この仕組みが高校生の僕はとても面白いと感じました。
それまでは、生物学って「博物学」のようなものだと思っていたんです。たとえば、動物がどういう性質を持っているのかを観察して記録するような学問だと。でも、遺伝子の仕組みがわかると、生物学の中に物理学みたいな面白さがあることに気づいたんですね。遺伝子を通していろんなことが操作できる。そう考えると、「すごい分野だな」とワクワクしました。ちょうど当時は、生物学が分子生物学というかたちで大きく発展し始めた、まさに初期の時代だったんです。
──高校の授業とは驚きです。
近藤 あの高校の雰囲気として、生徒も優秀な人たちが集まっているんです。だから先生たちも必死なんですよ。「こいつらになめられないためにはどうしたらいいか」と、授業でもすごく先端的なことを教える。
数学の先生なんかは、普通の高校の内容をやりながらも、放課後には有志を集めて大学レベルの数学講義をしていました。
──高校卒業後1977年に東京大学理科二類に入学し、後に生物学科を選択されています。
近藤 最初から生物学を専攻するつもりだったわけではなく、数学か生物のどちらを専攻しようかと悩んでいました。自分は数学ができるほうだと思っていたのです。でも入学して蓋を開けてみるとそれは大きな間違いだったと気づきます。とんでもなく頭のいい奴らがゴロゴロいる。それを見てもう数学でやっていくのは無理だと思いました(笑)。だったらまだできそうな生物学に行こうと決めたのが1年生の時です。
何が生き物の形を決めている?
──生物学では、まずどんなことに関心を持たれましたか?
近藤 分子生物学の基本は遺伝子の研究です。でも、遺伝子そのものは多くの研究者が取り組んでいて、日々進展していきます。そんな中で僕が知りたかったのは、生き物の「形」です。
形というのは、無数の細胞が集まってできていますが、どの細胞にも基本的には同じ遺伝子が入っています。にもかかわらず、どうして脳の細胞と筋肉の細胞では全く違う形になるのか。何がその違いを決めているのか。そこが最大の謎でした。
例えるなら、大勢の人で「人文字」をつくったとします。そのための情報はどこから来るのか。人文字をつくるには、それぞれの場所の人に対して、外部から適切な指示を与える必要があります。外部からの指示がない状態で、一人ひとりが「@@という文字をつくろう」と考えても、どうすることもできません。なぜなら、その人文字を「見る」ことができないからです。でも、それと同じことを細胞はやっているわけです。外部からの指示もなく、正確なかたちをつくる。これって本当に不思議だと思いませんか?
──確かにそうですね。そう感じるきっかけが何かあったのでしょうか?
近藤 当時、すごくおもしろい実験がありました。イモリを使った再生実験です。イモリの腕は根元から切られても、再生芽と呼ばれる細胞のかたまりができて、そこから新しい腕をつくることが可能です。でも不思議ですよね。腕を再生するとき、どうして同じ形をつくれるのか。腕の形の情報は誰がもっているのか。
僕が衝撃をうけた実験ではイモリの両腕を切断して、切断後にできた再生芽を左右逆に移植させます。すると、一つの腕だったところに、必ず腕が3本出てくるのです。腕の形をつくるための何か隠されたルールがあるということです。しかし、そのルールがさっぱりわからず、結局その後何年間もこの研究は進みませんでした。私は「これが解けたらすごいな」と感じたのです。
ただ、それを知るにしても遺伝子を解析しないと何もわからないということで、東京大学を卒業後、当時最先端の遺伝子研究をしていた大阪大学の本庶佑先生の研究室に入ることにします。
世界の最先端で戦った本庶研での日々
──日本の遺伝子研究の中心ですね。当時すでに本庶先生はノーベル賞候補でした。研究室はどんな雰囲気でしたか?
近藤 みんな四六時中ラボにいて研究していました。朝の9時から夜の12時までなんて当たり前です。遺伝子のクローニングはやればやるだけ進みますし、何より本庶先生からのプレッシャーも強かった(笑)。
今の基準からするとブラックでハードワークな環境ですが、そんなことは誰も思っていませんでした。「自分は世界の最先端で戦っている」「自分たちの研究は世界中の注目を集める」という確信があったので闘志に燃えている感じですね。
──本庶先生は研究に厳しいイメージがあります。
近藤 本当に厳しかったです。本庶先生は研究を進めることに対する欲求がすごく強かったので。
本庶研では免疫の遺伝子組換えを研究していました。普通は「一つの遺伝子から一つのタンパク質」がつくられるのですが、免疫系は違います。体に入ってくる無数の異物に対して、その都度ぴったり合う抗体をつくることができるんです。2万程度の遺伝子(動物の遺伝子数はだいたい2万種類あることが解っている)ではとても説明できない、当時は大きな謎でした。
その仕組みは、遺伝子がパーツに分かれていて、組み合わせによって無数のバリエーションが生まれるというものでした。まるでブロックを組み替えるように、一つひとつは同じでも、組み合わせ方で新しい形ができる。利根川進先生がその「組み合わせ原理」を解明し、本庶先生はさらに別の遺伝子部分と組み合わさって新しい機能を生むことを突き止めた。残念ながら、この時点でノーベル賞を受賞したのは、利根川先生だけでしたが…。
僕自身は本庶研ではけっこう必死に働いたほうで、そのおかげで先生からの信用もありました。先生が京都大学に移られたときも、一緒に京大へ行き、そこで学位を取ったというわけです。

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