『公研』2025年9月号「めいん・すとりいと」より

 厄介な経済現象の多くは需要と供給のミスマッチによって生じる。例えば、失業は、労働の供給(働きたい労働者の人数)に比べて労働の需要(企業が雇いたい人数)を上回るという意味でのミスマッチが原因で生じる。

 「ミスマッチ」というからには「マッチ」もあるはずで、労働市場の例で言えば、労働の供給と需要が一致している状態だ。それを実現するには、労働の価格である賃金(厳密には実質賃金)が調整されなければならない。

 しかし、そうした賃金の調整は瞬時には起きない。失業の例では、実質賃金が高止まっているが故に、労働者は高い賃金の下で多くの労働を供給したいと考える一方、企業は賃金が高すぎるのであまり雇いたがらないという状況が生じる。

 マクロ経済学では、こうしたミスマッチを描写する際に「自然」という言葉を使う。自然とは、賃金と価格の調整をすべて終えて経済が行き着く先という意味で、19世紀の経済学者、クヌート・ヴィクセルが提唱者だ。

 失業というミスマッチを例にとると、賃金が下がるにつれて失業は徐々に減るが、賃金の調整が完了しても一定の失業は残る。処遇のよい職場を求めて転職する人たちがいるからだ。この種の失業に対応する失業率は「自然」失業率と呼ばれている。ノーベル賞を受賞したミルトン・フリードマンが提唱した概念だ。

 「自然」が登場するのは失業だけでない。金融政策をめぐって新聞等で頻繁に目にするのが「自然」利子率だ。これは、価格と賃金の調整が完了した際に実現する実質利子率を指す。例えば、日銀総裁は、利上げの理由を説明する際に自然利子率を持ち出し、足元の実質利子率が自然利子率との対比で低すぎるので調整が必要と主張する。

 一方で、今のところ誰も語っていない、しかし、これからの日本経済にとって死活的に重要な「自然」もある。それは「自然」実質賃金だ。都市部でも地方でも深刻な人手不足で、これからさらに厳しくなると見込まれている。人手不足とは、労働の供給が需要に追いつかないという現象で、これもミスマッチだ。ただし、先ほどの失業とは正反対のミスマッチだ。労働供給が需要を上回る状況では、本来賃金は上昇するはずだ。実質賃金が上がれば需要は抑制、供給は増加となるので、やがて人手不足というミスマッチは解消される。

 しかし、この「やがて」というのが曲者だ。賃金は原則として年に一度の春闘でしか変更されないので、ミスマッチの解消には時間がかかる。実際、ここ数年は、人手不足にもかかわらず、実質賃金は上昇どころか低下しており、ミスマッチ解消までの前途は多難だ。

 足元の実質賃金が「自然」実質賃金(労働の需給をマッチさせる実質賃金の水準)を下回っているのは確かだが、それはどの程度の乖離なのか。筆者の暫定的な推計によれば乖離幅は約3%ポイントだ。この推計が正しいとして、そのギャップを今後3年間で埋めていくとすると、毎年1%の実質賃金引上げが必要になる。具体的には、連合は今年の春闘でベースアップ(ベア)3%を目標として掲げたが、その数字に、実質賃金引上げ分の1%を加味すると、今後3年間の春闘でめざすべきベアは4%ということになる。

 4%のベアを3年連続でというのは非現実的に見えるかもしれない。しかし人手不足というミスマッチを解消し、「自然」に到達するにはこれだけのベアが不可欠だ。来年の春闘に向けて、そうした認識が労使で共有されることを期待したい。

ナウキャスト創業者・取締役

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