ハマスが今回の決断に至った背景は?
阿部 そもそも、なぜハマスは今回の決断に至ったのか。その背景には外的な要因と内的な要因の二つがあると思います。外的な要因としては、先ほど鈴木先生の発言にもありましたが、近年はこの一件が始まる前まで、パレスチナ問題に対する国際的な関心が低下して、すでに忘れ去られた問題と化しているような状況だったことが挙げられます。
この問題を複雑にしたのが、トランプ政権が主導した2020年のアブラハム合意です。その際にパレスチナ問題は手付かずのまま、アラブ諸国とイスラエルとの国交正常化だけが進められたため、今まで前提とされてきた「パレスチナ問題を解決した上でアラブ諸国がイスラエルとの国交を正常化する」という順序が逆転してしまいました。
中東で大きな影響力を持つサウジアラビアは、2002年に「イスラエルとの国交正常化にはパレスチナ問題の解決が前提」という提案をしています。これは「アラブイニシアティヴ」と呼ばれます。しかしバイデン政権主導のもとで、そのサウジアラビア自身が、パレスチナ問題の解決を待たずにイスラエルと国交正常化する動きを今年に入ってから本格的に見せ始めました。そのサウジアラビアの動きに対しては、ハマスだけでなくパレスチナ自治政府も不満を高めていたというのが最近の状況でした。バイデン大統領としては、来年の大統領選に向けて新たな成果を残したいという思惑があったと思いますが、結果としてそれがハマスによる攻撃の口実になってしまいました。
今年は、オスロ合意をきっかけにクリントン政権が和平交渉を仲介し始めてから30年になりますが、特にトランプ政権の発足以降、アメリカのイスラエル寄りの姿勢は鮮明です。
一方で内的な要因としては、ガザ地区を実効支配するハマスへの支持に低下が見られたことです。7月下旬には、ハマスに対する大規模抗議デモがガザ地区で起きています。これは今まではなかったことです。パレスチナの世論調査では、ハマスの最高指導者のイスマイル・ハニヤ氏への支持は、パレスチナ自治政府のマフムード・アッバース大統領よりも高いという見方もありますが、ガザ地区の中でデモが起きる程度にハマスの支持が低下していたことが内的な要因です。
また、今回の攻撃の直接的なきっかけではありませんが、この問題の真相を把握する上で理解しておくべき背景が二つあると思います。一つ目は、ガザ地区の経済状況です。失業率は45%を超え、就労人口の約半分に職がないという深刻な状況です。特に15歳から29歳までの若者に限ると、失業率は60%以上にもなります。また、必要最低限の生活水準が満たされていない絶対的貧困下にある人も、33%に上るといわれています。彼らはひと月当たりの収入が500ドル以下で、ガザ地区は経済的にも非常に圧迫された状況にあったと言えます。
二つ目は、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区の状況です。昨年12月に発足した極右のネタニヤフ政権は入植地の建設を進めていました。数年前に進められた西岸の併合政策はアブラハム合意でいったんは中断されましたが、現在のネタニヤフ政権が実質的に当時の青写真を焼き直すような政策を水面下で進めていたのが現状で、パレスチナ人の中でイスラエルに対する不満が高まっていたことが推測されます。
池田 おっしゃる通り、ガザ地区の失業率の高さは大きな問題ですが、平時にはガザ地区からイスラエルに出稼ぎに出るパレスチナ人もいて、多いときには1日2万人を超えるといわれています。その経済的な報酬を危険にさらしてまで攻撃することはないだろうという思い込みも、イスラエル側にはあったのだと思います。
また、アラブ諸国とイスラエルの接近がハマスの攻撃の大きな要因だというのはもちろんですが、併せてイランの存在も考える必要があります。敵の敵は味方なので基本的にハマスとイランは近い存在ですが、ハマスはスンニ派、イランはシーア派という決定的な違いもあり、今回の攻撃もイランが事前に情報を渡されていたかどうかは疑問です。
一方、ヒズボラやシリアに展開する武装勢力はイランの直系なので、イランが完全に手綱を握っている状態と言えます。ヒズボラの軍事力は、ハマスの比ではありません。ロケット弾やミサイルもハマスの十倍以上の備蓄があり、しかも大部分が精密誘導化されています。そのヒズボラが本気で動き出したら大変な事態に陥るので、アメリカが空母打撃群2隻を東地中海に派遣したのは、イランに対する牽制という意味合いが強いと思います。もしイランがヒズボラの手綱を手放し、ヒズボラの本格的な攻撃が始まれば、イスラエルがイランを直接攻撃する可能性も出てきます。その意味でも、今後イランがどういう戦略で動くのか、注視しておく必要があると思います。
鈴木 今回の攻撃について、ハマスの軍事部門の報道官は「作戦の立案は2022年初頭から行っている」とし、タイミングに関してはたった一言、「気候と地理的な条件を考慮した結果」だと発表しています。つまり、何かの記念日や、直近の出来事に対する反撃というタイプの攻撃ではありません。そう考えると、お二人のご指摘にもあったように、攻撃の背景には中長期的な事情があると考えるのが妥当だと思います。
今回の攻撃で、ハマスやイスラム聖戦などの武装勢力はかなり計画的な行動を取っています。少なくとも1000人を超える戦闘員を投入し、越境に際しては3000発ともいわれるロケット弾の発射でイスラエルの防空システムをかく乱し、国境に設置されたスマートウォールともいわれる機械化された監視システムを効率的に破壊しています。この大がかりな計画が実行されるまでに、組織内でどんな決定がなされたのかは、まだ明らかになっていません。
また、私自身、攻撃が行われた際のハマスなど武装戦闘員の行動から、非常に強い敵意や憎しみを感じました。その攻撃は、民間人や、アジア系労働者を含む明らかに外国人だとわかる人々にも及んでいます。これだけの動機が一体どこにあったのか。これは慎重に考えていくべき問題だと思います。
中東地域の受け止め方
池田 今回のハマスの攻撃を中東地域はどう受け止めているかというと、政府レベルでは、極めて残忍な方法でイスラエルの一般人を攻撃したことを強く非難しています。しかし、大衆レベルでは、イスラエルはそのような攻撃をされて当たり前だという感情が伏在していたと考えるべきです。
ガザ地区北部の病院で爆発が起こりましたが、状況から見れば、ハマスやイスラム聖戦側の誤爆だと考えるのが一番合理的だと思います。しかし、中東地域にとってはもはや真実はどちらでも良いのです。「イスラエルは病院を空爆するぐらいのことをやりかねない」という意識が、イスラム世界に蔓延していることが問題です。アブラハム合意でイスラエルと国交正常化している国々の政府も、国民感情を考えると簡単にイスラエル側に立つわけにはいかず、国民の反応を考慮した上で態度を表明しなければならないという状況だと思います。
阿部 すでにパレスチナを支持するデモが世界各地で発生しています。池田先生もおっしゃったように、今後ガザ地区の犠牲者が増えることで、中東地域の市民感情はますます悪化していく可能性があります。
今回の事態で影響を被るのはエジプトです。イスラエルの軍事作戦が最終目標を何に置いているかは定かではないのですが、仮にパレスチナ人がガザ地区南端のラファ検問所を越えてエジプトに避難するような、いわゆる強制移住を招く事態が発生すれば、エジプトに多大な影響が及ぶのは間違いありません。エジプト政府は「唯一の解決策はパレスチナ人の独立国家の建設」との立場を取っていますが、それは避難民の問題に対する危機感の表れでもあります。これまでのガザ紛争では、エジプトとアメリカが協力して停戦交渉の仲介を行ってきました。今回も重要な役割を果たすだろうとは思いますが、再三議論されている通り衝突の規模が桁違いなので、難しい状況が続くと思われます。
また、ハマスの幹部であるイスマイル・ハニヤ氏やハレド・メシャール氏が拠点にしているカタールも、ガザ地区では大きな存在感を持っていて、ガザ地区の海岸通りの最も目立つ場所に大使館を構えています。今回の人質解放交渉でも仲介役を担っているので、カタールは引き続き影響力を持っていくと思われます。
一方、パレスチナ自治政府のアッバース大統領は「ハマスの行動はパレスチナ人を代表できない」という声明は出しましたが、それ以外には目立った動きを見せていません。自治政府の支持基盤であるヨルダン川西岸のパレスチナ人は、ガザ地区の人々に同情的です。ハマスへの非難は自治政府への支持を左右するので、慎重に沈黙を保っていると思われます。いずれにせよアッバース大統領の動向が注目されます。
鈴木 今回の事態は中東地域全体に動揺を広げていますが、特に、10月18日に起きたガザ地区のアハリ病院の爆発は、今も大きな余波を与えていると思います。国際的な機関やジャーナリストなどによる調査が現時点では難しい中で、ガザ地区内の武装勢力の兵器がさく裂したのだというイスラエルの主張と、イスラエルによる爆撃であるというガザ地区の住民やハマスによる主張は、平行線をたどっています。事実が明らかになるかどうかにかかわらず、現在この出来事が大きな余波を広げているということが重要です。
米大統領のイスラエル外交
鈴木 そして、まさに爆発が起きている最中には、イスラエルを訪問しようとするバイデン大統領が機中にあった状況でした。周辺のアラブ諸国は、病院の爆発はイスラエルによる非人道的な攻撃だという受け止めのもと、飛行機から降り立つバイデン大統領の出迎えを拒否しました。また、ヨルダンのアブドゥッラー二世国王の主催で予定されていた、エジプトのシシ大統領とパレスチナ自治政府のアッバース大統領との首脳会談もキャンセルとなり、その結果、バイデン大統領が中東地域に訪問したことのメッセージ性も大きく変わってしまいました。いわば、バイデン大統領の思惑が外れた状況です。
当初、イスラエル訪問におけるバイデン大統領の目的としては、イスラエルへの支持の表明はもちろん、実際の機能としては二つあったと考えています。一つは、現在衝突している各主体に対して自制を求めること。もう一つは、この問題に関与しようと動き始めていたイランやロシアなどの大国に対して牽制を示すことです。ただ、ガザ地区の病院の爆発という想定外の事態が起き、アラブ諸国がアメリカの外交に対して拒否感を示したことによって、バイデン大統領はイスラエルへの支持の表明と、大国に対する牽制のみを残して帰国することになりました。
結果的に中東地域における反米感情を高めることとなり、実際にレバノンの首都ベイルートでは、アメリカ大使館周辺での暴力的なデモが報告されています。また、イスラエルの自衛権に対して明確に支持を表明しているG6(G7から日本を除いた6カ国)に対しても、中東地域の批判の声は高まっています。
イスラエルが中東地域でどのように自国を位置付けていくかという点も、これから重要な課題になっていくと思います。イスラエルは2020年のアブラハム合意以降、UAE、バーレーン、モロッコ、スーダンと国交正常化を宣言し、今年に入ってからはサウジアラビアとの国交正常化を期待されていました。バイデン大統領は「イスラエルを中東地域に統合する」とも発言していますが、中東の中にイスラエルが立場を見出し、イスラエルを通して中東地域の安定を実現していくというのがアメリカの中東に対してのアプローチであり、イスラエルもその方向で動いていました。
しかし、今回の事態で中東地域におけるイスラエルの立ち位置は、大きく転換を迫られることになると予想されます。今後、イスラエルが中東地域でどのような立ち位置になっていくのかは、議論すべき重要なポイントだと思います。
阿部 また、ヨルダンのラーニア王妃は、西側諸国の対応をダブルスタンダード(二重基準)だと非難しました。イスラエルに対するハマスの奇襲を非難しながらも、イスラエルのパレスチナ自治区への空爆を非難しないこと、また停戦を求めていない姿勢が国際社会のダブルスタンダードだということです。こういう批判は今回のような国際問題が起きたときに必ず出てくる議論です。
池田 要するに、アラブ諸国やイスラエルも含め、人間というものは自分が見たいことしか見ないし、聞きたいことしか聞かないのだと思います。各国のいろいろな反応を見ていると、そういった人間の愚かさというものを今回改めて感じますね。