「プーチンの戦争」が揺らす世界の秩序【鈴木一人】【奈良岡聰智】【細谷雄一】【小泉 悠】

B!

『公研』2022年4月号「緊急対話」 ※肩書き等は掲載時のものです。

 

2月24日ロシアはウクライナに全面的な侵攻を開始した。
なぜこのタイミングで戦争は始まったのか?
この戦争は今後の世界にどのような影響を与えるのだろうか。

 

なぜ今プーチンは侵攻を始めてしまったのか?

鈴木 2月24日ロシアはウクライナに全面的な侵攻を開始しました。事前に兆候が広く伝えられていたにも関わらず、なぜ国際社会はロシアを止められなかったのか。まずはこの疑問が思い浮かび上がりますが、この答えは国際政治学的にはとてもシンプルです。結局のところ、核大国ロシアに真っ向からぶつかり合うことをどこの国も求めていなかった。しかし、戦争を実際に目の当たりにすると、プーチンの判断に世界中が驚かされることになりました。いつ戦争を始めてもおかしくないと見なされながら、実際にウクライナに侵攻したことは意外なこととして受け止められたわけです。

 国際法上、武力の行使による他国の領土や独立に対する攻撃は認められません。プーチンは20年以上も権力を握り続けていますが、これまでは一応は武力を使ってこなかった。それがなぜ今になって武力に訴えるようになったのか。ここがよくわからない。もちろん、2014年にはクリミア半島を併合するなどしていますが、その時は武力に訴えるかたちではなく、「ハイブリッド戦争」というスタイルをとっていました。彼にとってはもう国際法や国際的なルールはどうでもいいことだと考えているのか? また、ロシアではそのあたりはどのように受け止められているのか。まずはここから紐解いていきたいと思います。

小泉 確かに本当にウクライナに侵攻したことには驚きですが、今回プーチンが戦争を始めるにあたって主張している言説自体には驚きはありません。プーチンは、ロシアの民族主義者たちが昔から繰り返してきたような話をしています。ロシアとウクライナとベラルーシは同じスラブの兄弟であって、分かれていることがおかしいのだ。そもそもそんな国はかつてなかった。今のベラルーシやウクライナは共産主義政権がつくった行政区分に過ぎない。だからウクライナが独立した国家でいるのは「手違い」だということです。こうした発想はロシアには昔からありました。

 なぜ今プーチンは侵攻を始めてしまったのか。ここにはいくつかの理由があるのだと思います。まずは国際政治上の様々な形勢の変化です。例えば、バイデン米政権の成立や2019年にウクライナの政権がポロシェンコから今のゼレンスキー大統領に変わったことなどが決断の要因になったのかもしれません。それからプーチン自身が歳をとって判断力が低下しているとか、何かヘンな思想に取り憑かれているのではないかという説もあります。

鈴木 プーチンはトンデモ歴史観を煽るYouTubeチャンネルを観過ぎているのかもしれませんね(笑)。

小泉 その可能性もあると思います。ちなみに、今回ウクライナとの停戦交渉団の代表者をやっているメジンスキー大統領補佐官は、そうしたトンデモ歴史観の持ち主としても有名です。ある民族にとってだけ気持ちの良い歴史観に浸かり切っているような人がプーチン政権の周辺にはびこっているのでしょう。いずれにせよ、今回の戦争にそれがどこまで影響したのかは、まだよくわかりません。

 今回のウクライナ侵攻は、国際法や国際社会のルールとは絶対に折り合えませんが、プーチンやロシアの国際法の考え方については三つの特徴を指摘できるのではないかと考えています。一つは、ロシアは意外と「国際法は大事だ」と主張したがることです。国民国家を単位とする国際秩序や国連中心主義などは、ロシアにとっては悪くない話です。国力、経済規模からすれば今のロシアはどう考えても大国として振る舞うことは難しいのですが、国家単位の集まりで見れば、ロシアはまだ侮れない大国の地位を持っている。世界最大の国土、豊富なエネルギー資源、それから軍隊です。今回の戦争であまり強くないことがわかりましたが、少なくとも数の上では世界第5位の軍隊です。国連中心主義も常任理事国であるロシアとしては好都合です。

 そう主張しながらも、ロシアはときに国際的なルールを自ら破ってきました。2014年のクリミア併合、それから今回のウクライナ侵攻などは典型です。前回も今回もロシアが真っ向から掲げているのは「保護する責任(R2P:Responsibility to Protect)」で、戦争を始める3日前にプーチンが行った演説でもこの点は強調されています。ウクライナ政府はロシア系住民を虐殺している。戦争の巻き添えではなくて意図的に殺害する人道的危機が起こっているので、我々は彼らを助けに行かなければいけない。したがってこれは戦争ではなくて「特別軍事作戦」であると。プーチンは、R2Pを理由に国際秩序を守るために戦っていると主張しているわけです。

 もう一つは、「ウクライナが大量破壊兵器をつくっている」というナラティブ(narrative:物語)を同時に用いている点です。ウクライナはアメリカの支援のもとに生物兵器や核兵器をつくっていて、すでに30カ所も研究ネットワークがある、といったことをでっちあげて戦争を始めています。要するに、イラク戦争の時のアメリカのようなポジションに立とうとしているのだと思うんです。しかし平時の人望がないし、やり方もはるかに雑なので誰も同調してくれない。むしろ世界中から批判されています。ロシアからすれば、「アメリカだってイラク戦争の時に同じようにしているのに、なぜロシアはダメなのだ」という気持ちがあるのだと思います。ですから、ロシアなりに地政学的な野望と国際法的な立て付けを合致させようとはしています。もちろん、私はそれにはまったく賛同はできませんが……

 三つ目は、プーチンは就任当初から「法の独裁」とずっと言い続けてきた点です。プーチンはレニングラード大学法学部出身ですから、「私は法律家だ」としきりに言うんですよね。自分は法の守護者であるという感覚をかなり強く持っているのだと思います。ただし、ある人が会議で「プーチンの言う法律や法の解釈は、Cop(警察)の法律論だ」と言っていたことがありました。要するに、法の精神や法治主義を重視しているわけではなくて、法律の文言上そう言えなくもないといったかたちで法律を援用できればそれでいいとプーチンは考えているのではないか、という話でした。私もこれはかなり当たっている気がしています。日本の公安警察の「転び公妨」のように無理やりな法解釈であっても、体裁さえ保たれていればそれでいいわけです。そういうプーチンのスタンスは、今回の無理矢理な国際法解釈にも繋がっているのではないかと考えています。

ロシアのウクライナ侵攻と日本が歩んだ歴史の類似点

鈴木 プーチンの言う「法の独裁」と「保護責任」の妙な組み合わせは興味深いですね。ロシア系の住民を保護するという話は、戦争を始める理由付けとしては典型的です。元々保護する責任は、ある国が人権などを保護することができなければ国際社会が面倒を看るという話なのに、それがロシアが面倒を看ることにしてしまった。ただ、これはかつての日本とそんなに変わらない気もしています。日本はまずは中国での自分たちの権益が侵されていると主張し、満州事変を引き起こし、汪兆銘たちを仕立て上げて傀儡政権をつくり上げ、中国侵略を進めていきました。その結末は諸外国から制裁を受け、ABCD包囲網につながり、追い詰められていき敗北に至るわけです。私は、今回のロシアの動きはかつての日本の歴史に重なるところがあると感じているのですが、奈良岡さんはどう観ていますか。

奈良岡 安易なアナロジーは慎むべきという気もしますし、もちろんまったく同じではありませんが、確かに今回のロシアのウクライナ侵攻と日本が歩んだ歴史はいくつかの点で重なり合っている印象を持っています。19世紀の国際秩序では異民族や異なる国家を併合したり植民地にしたりすることは帝国主義の基本的な姿でしたが、第一次世界大戦終結以後はあからさまにそれをやることは難しくなりました。それで自国民の保護を侵攻の理由にしたり、傀儡政権を仕立てたりするようになっていったわけです。

 隣接する国家や民族に対して、「我々は同じ民族である」とか「兄弟である」と主張し、だから「一緒になるべきなのだ」という言説をすることは昔からあります。日本も欧米の植民地主義に倣いつつ、そういうロジックを使って膨張してきました。典型的にはアイヌや琉球への対応はそういうところがあります。明治政府は、1879年に行った「琉球処分」で強制的に琉球を日本に包摂しました。法的に言えば「併合」なのですが、琉球民族は大和民族と同祖なのだから統合されるのは本来あるべき姿であるという同祖論のロジックを打ち出して、併合という言葉をあえて避けて「処分」を使ったわけです。

 こうした成功体験をもとに今度は朝鮮半島に出ていき、朝鮮に対しても同祖論を展開します。神功皇后の新羅征討(三韓征伐)など古い話をいろいろと出して「所縁があるのだ」という理屈を積み重ねていきました。これにはかなり無理がありますが、ここでも同祖論が併合の根拠に用いられています。ただ、中国に対してはさすがに同祖論は使えないので、中国は法的に認められている日本の権益を侵している、あるいは日本人がこれだけ侵害されているといった主張を根拠に昭和初期から中国本土に出て行き、やがて大規模な侵略へと突き進んでいきました。この点はロシアが、ウクライナはロシア系の住民を虐殺しているとか、化学兵器を持っているなどと主張して、それを侵攻の理由にしていることと重なるところがあると思います。日本の膨張のロジックは併合、傀儡政権の樹立、あからさまな侵略といった具合に時代に応じて変遷していきましたが、今回のロシアのウクライナへ侵攻のロジックはそれらが同時に束ねられて用いられている印象があります。

鈴木 帝国主義のロジックの複合体みたいな感じです。

奈良岡 そうなんです。私は普段、学生たちには「現代を理解するためにも帝国主義時代の歴史は大事だ」と伝えています。しかし、実際はこんなことは再び起こらないだろうと半ば思いながら授業をしてきたところがありました。今本当に起きていることを目の当たりにすると、悲しいことですが、ある意味では歴史を見る目が養われているような感覚を持っています。過去の事象に対しても「こういうことだったのか」と理解が鮮明になったこともあるし、逆に現代でもこういうことが起き得るのだなという驚きもある。今のロシアは明らかに慌てていて、何か一つのロジックで綺麗に物事を展開している印象がまったくありません。出せる弾をすべて出して、それらを無軌道に組み合わせているような感じがしています。このあたりの余裕のなさに私は怖さを感じています。

鈴木 子ども染みた言い訳が後から湧いて出てきている感じですよね。生物兵器にしてもつい数日前に突然始めた話ですからね。この余裕のなさ、無計画な感じはマッドマン・セオリー(狂人理論)的なところがあって、ものすごく怖さを醸し出しています。今日の議論では「19世紀」というキーワードが何度か出ていますが、ロシアが19世紀的な国際秩序を現代に持ち込んでいることにはやはり驚かされます。今回のケースは、ロシア・ウクライナの単なる二国間の問題で終わるのか、それとも世界秩序全体が混乱していく予兆なのか。細谷さんはどのようにお考えですか。

細谷 私は「大国中心主義の19世紀的な国際秩序観」という言葉をよく使っていますが、これは20世紀以降の国際社会の二つの大きな変化が前提になっています。一つは20世紀に起きた二度の世界大戦を経て、国際組織や国際法が発展してアメリカやロシアなどの大国を含めて、いかなる国家も基本的には国際法の支配のもとで行動することです。第一次世界大戦から冷戦終結までの1世紀の間に、自衛戦争と集団安全保障以外、武力行使および武力による威嚇を禁止するといった「ルールに基づいた国際秩序」へと大きく変化していきました。

 ナポレオンの時代の戦略思想家クラウゼヴィッツは、「政治の延長に戦争がある」と位置付けていましたが、そうした考え方は二度の大戦後には基本的には否定されています。にも拘わらず、おそらくロシアは依然として「政治の延長としての戦争」を行っているわけですから、19世紀的な行動に写ります。一方で、「アメリカも同じことをしているではないか」とよく指摘されます。しかし、冷戦後のアメリカの戦争は基本的には国際人道法を基礎とした人道的介入やアフガニスタン戦争においては自衛権の延長など、一定の国際法を根拠にして行ったものです。イラク戦争後も国連安保理決議に基づいたかたちで、どうにかして正当化しようとしていました。もちろんここには限界もあったし評価はわかれるところですが、国際社会のルールを前提とする努力をしていました。その意味では今回のプーチンの戦争は、国際法上の正当化をする努力をほぼ放棄しており、やはり19世紀型の戦争の方法です。

 もう一つの変化は、いかなる国に対しても侵略してはならないことです。小国への侵略に対しても、集団安全保障によって国際社会全体に対する脅威と認定されます。1990年にイラクがクウェートに侵攻しましたが、多国籍軍によって現状に回復されることになりました。二度の大戦後、小国の主権や国境線を守ることは国際社会のルールとして存続していました。しかし、「ウクライナはそもそも国家ではない」という発言からまさにうかがえるように、プーチンは、大国は小国の権利を蹂躙できるかのような、19世紀的な世界観を持っています。

 私は2014年のクリミア侵攻後にロシアのシンクタンクで講演する機会がありました。講演後にロシアの研究者と議論した際に、「プーチンが『ルースキー・ミール(ロシア世界を守る)』と言った後にこれをすぐに撤回した」という話を聞いたことがあります。つまりこれを言ってしまうと、ウクライナ東部やバルト三国のロシア系住民も守る、ということになってしまうので、主権国家体系を否定してしまうことになります。けれども、すぐに撤回されたわけですから、2014年の時点ではプーチンにはまだ現状の主権国家体系を尊重するだけの慎重さがあったのだと思います。

 逆に言えば、クリミア半島だけではなくウクライナ東部をはじめとした国境を越えて住んでいるロシア系住民たちを、ロシアが守る責任があるのかどうかという点に関しては、プーチンにもまだ迷いがあったのではないか。当時プーチン大統領には国境線の向こう側にいるロシア人を守ることは、主権国家体系の根本的な原理から超越することなので、それに対してはある程度ブレーキを踏むべきだという認識があったのだと思います。興味深いのはこの発言を引っ込めたことに対して、「プーチンは優柔不断だ」という批判が右派から湧いたことです。

鈴木 クリミア侵攻以降にプーチンの考え方に変化が見られるわけですね。

細谷 ロシア国内での陰謀論やいわゆる「ポスト・トゥルース(世論形成において客観的な事実より虚偽であっても感情に訴える情報が影響力を持つ状況)」が政治権力によって完全に操作されていく過程を通じて、認識に変化が生じたのではないか。自分が操作をした真理や事実が、逆にプーチンに跳ね返ってきて、むしろそれにプーチンが踊らされている状況になっている。私はここに恐怖を感じています。自分がついた嘘を自分の中で本当だと思ってしまう。圧倒的にロシアは強くて圧倒的にウクライナが弱い、そしてアメリカがやっていることはすべて間違っていて自分たちの側に正義があるんだと。このような陰謀論や情報操作に自らが虜になって、過度に楽観的な判断をするという意味での情勢認識の誤りがあった。冷静で客観的な情勢分析をせずに、自分に都合の良い情報を恣意的に用いて、自ら蒔いた種によって自分の思考を歪めていく。19世紀的な国際秩序観と21世紀的なポスト・トゥルースが合わさったところに今のプーチンの歪んだ世界観があって、今回の戦争を始める大きなきっかけになったのではないか。

 

ルースキー・ミールが意味するところ

鈴木 自分の嘘に自分が虜になるのは、今のロシアに関わらず世界中で見られることですね。その典型がトランプ前米大統領でしょう。アメリカも今は本当に現実としてはあり得ないポスト・トゥルースが普通にまかり通っていて、それが社会秩序すらつくってしまっている。これは本当に厄介で、社会科学的に大きな問題です。

 今の細谷さんのお話にあったルースキー・ミールですが、ロシア語でミールは「世界」でもあり、「平和」でもありますよね。世界には何らかの秩序があり、それは平和的であるべきだという感覚がミールには含まれているのだと思います。ですから、この言葉が含んでいる概念はすごく大きいのだと感じています。そこにルースキーという「ロシアの」という形容詞が覆い被さっていくと、これを解釈することはややこしくなりますが、結局のところロシアがつくる平和──「パクス・ロシアーナ」と呼べるのかもしれません──という世界観と同一化していく発想が元々ロシアには埋め込まれていた気がしています。

小泉 ミールという言葉は、世界でもあり平和でもあります。ただ、革命前のロシア語では平和と世界の書き方は微妙に違っていて硬音記号で区別できるようにしていました。現代ロシアにおいて区別はありませんから、ソ連時代にはそこに引っ掛けた「ミール(平和を)・ミール(世界に)」という標語がありました。ですから、ロシア人の頭の中ではどちらも似た言葉として捉えられています。ズビグネフ・ブレジンスキー(アメリカの政治学者)も本に書いていますが、ルースキー・ミールという言葉を考える際に注意しなければならないのは「ロシア人」には二通りの言い方があることです。一つは、「ルースキー(民族的なロシア人)」で、もう一つは「ロシヤーニン(ロシア国民)」です。ロシアは広い国でいろいろな民族が住んでいます。とりあえず法的にはロシアーニン(ロシア国民)ですが、それとは別に国籍には関わらないルースキー(ロシア民族)の人々がいます。そして、彼らが住んでいる地域がルースキー・ミールなのだと民族主義者やプーチンは言っているわけです。

 ところが細谷さんがご指摘されたようにルースキー・ミールを文字通り解釈すると、際限がなくなってしまいます。ウクライナにもカザフスタンの北部にもベラルーシにもロシア系の人たちはいます。そして多くの場合ロシアの民族主義者たちは、「ベラルーシ人もウクライナ人もだいたい我々と同じである」と言うわけです。もっと傲慢な人になると、「ベラルーシ語など存在しない。あれは訛った田舎のロシア語である」と言ったりしています。ですからルースキー・ミールを実現しようとすれば、ロシアは東欧征服に乗り出さざるを得なくなってしまうロジックなので、これは危険な概念です。まさにパクス・ロシアーナという意味にもなりかねないし、現在の国際秩序とは真っ向から対立します。実際はパクス・ロシアーナをつくるのはかなり大変だし、ロシアとしてもなかなか表立って言えません。

 プーチンの周りにいたウラジスラフ・スルコフ、ドミトリー・コザクなど民族主義的なブレーンたちはそういう言葉を好んで使いましたが、政治家としてのプーチンはその言葉を出したらまずいという認識はずっとあったのだと思います。それは閣僚たちにしても同じです。例えばエリヴィラ・ナビウリナはテクノクラート出身の中央銀行総裁ですが、彼女はタタール人ですからルースキー・ミールに関しては論外だと思っているでしょう。ルーブルの下落につながりかねないですからね。強硬派とされるセルゲイ・ラブロフのような生粋の外務官僚上がりの外務大臣にしても、パクス・ロシアーナをまっとうな発想だとは見なさないでしょう。これまでは政権内にもそうした常識的な人物たちの声が働いていたのだろうと思います。けれども、今のロシアでは何らかの理由でその歯止めが利かなくなっている可能性があります。なぜそうなっていったのかは、簡単にはわかりませんが……

 それから先ほど奈良岡さんから戦前の日本との比較がありましたが、ロシア人には再び大帝国を築きあげたいという壮大な夢を未だに抱いている印象を持っています。本来一緒であるべき地域がバラバラになってしまっているという感覚を根本のところで持っていて、それが今の民族主義的なモチベーションの特色ではないかと思うんですよね。プーチンが昨年7月に書いた論文では、「ロシア人とウクライナ人は本来一体なのだ」と述べています。

 それが歴史的に正しいのかどうかは、私にはよくわかりません。ロシアにとって手前勝手な歴史解釈で綴られたものだとは言われていますが、そこでは我々は元々一体で同じ歴史を共有してきたのに、ボリシェヴィキのバカどもがヘンなことをやったせいで別々になってしまった。ボリシェヴィキのつくったダメな政権が30年前に崩壊したので、結果として手違いでウクライナとベラルーシが独立国になってロシアと別々になっている状態が耐えられない、とプーチンは気持ちを吐露するわけです。特にウクライナは規模も大きい上に、ルーシ民族が初めて国家を持った地でもあるし、キエフはキリスト教を受け入れた地でもある。それはわからないでもないが、理解できないのは普通はそのままやらないだろうということですよね。

鈴木 日本で喩えれば、奈良や京都が勝手に独立してしまった、みたいな世界に見えるんでしょうね。

小泉 さらに言えば、高天原の天孫降臨の地が外国になってしまっている感覚に似ているのかもしれません。

鈴木 地理的な線引きと民族的な線引きがうまくかみ合わないのだと思います。これはアフリカを始めとして、世界中あらゆるところで見られることでもあります。東ヨーロッパで共産主義政権が倒れた後、ユーゴスラビアなどで民族主義に基づく戦争をやっていた時代は、まさにこうした問題が噴出していました。今起きているのは、遅れてきたユーゴスラビア問題という感じもしています。元々一緒にあるべき国家が別々になっている現状を武力によって解消しようとする発想は、日本の歴史で言えば五族協和や八紘一宇のように後付けで理屈をこじつけた例がありました。今から考えれば、帝国主義のプロパガンダ以外のなにものでもありませんが、かつてはこうした民族主義的な理論が正当化されてきた。こうした19世紀的な発想が現代で繰り返されていることには、やはり驚きを覚えます。

 

この戦争は「プーチンの戦争」である

奈良岡 日本は島国ですから朝鮮や満州でも一緒であるべきだという論理はどうしてもつくりがたいので、満州においては新しい理念のもとに新しい国家をつくるという要素が大きかったと思います。あるべき姿に戻すというより新国家のあり方をめざした感じですね。

鈴木 ロシアにおける共産主義革命も新しい世界をつくるという意味では共通していて、ロシア民族に限らない共同体をつくっていく世界観がありました。そういう社会改造主義があの時代の日本にはあったのでしょうか。

奈良岡 満州はある程度そうかもしれません。内地で実現できないことを外地でめざすという考え方です。自由主義・国際協調・デモクラシーの時代が終わり、国際秩序においても国家の統治形態においても、新しいものをつくるんだという機運は高まっていたのだと思います。けれどもそれは内地では実現できないので、フロンティアでめざすことになった。満州には社会主義者も右翼もいましたから、非常に混沌としていました。

鈴木 満州国の場合は、新しい理念と右派的な民族主義的な感情が混在になって、理屈が組み立てられたという感じはしないでもない。その点イギリスは、異質な要素を取り込んでいきながら植民地主義的な拡張をした国です。今のロシアがやっているような破壊的、暴力的なやり方も手段としては使っていました。ただし、ロシアが考えているような世界秩序、要するに自分たちの周りの地域を拡張していくという地続きの発想とは違って、イギリスはやはり海洋国家なので遠くの民族を統合していく帝国の論理があったと思います。今ロシアがやろうとしていることと、かつてイギリスが帝国として拡張していったことの論理の違いから、今を考えるヒントがあるようにも思います。

細谷 イギリスが海洋国家だとしたらロシアは大陸国家ですから、戦争の考え方もいろいろ違ってくるのだと思います。私は戦争の主体には3種類があると考えています。それは「国家」「民族」「帝国」です。要するに、ロシアという国家が国家理性によって戦争するケース。それからロシア民族(nation)として戦争をすれば国民の戦争になります。そして三つ目が帝国の戦争です。イギリスは2度の世界大戦では帝国の一員──オーストラリア、インドなど──からたくさんの兵力を動員することで勝利を得たわけです。国家の戦争としては、とても勝てない戦争でした。

 今のプーチンの戦争は、このどれにも当てはまらないのだと思うんですね。国家が意思決定をした国家理性の戦争には見えません。ここでの国家理性が何なのかと言えば、近代国家としてきちんと手続きを踏んで意思決定をしたのかという意味です。少なくともアメリカの場合はコソボ紛争にしてもアフガニスタン戦争しても、あるいはイラク戦争しても、手続きを踏んだ「国家の戦争」として戦っています。だけど今回の戦争はそうではありません。一方で、民族が情熱的に盛り上がって戦争をしたわけでもない。そして帝国、つまりは様々なロシアの連邦の中の多民族を動員して戦争するところにまではなかなかいけていません。チェチェンからは一部投入していましたが小規模です。

 ですから、これはやはり「プーチンの戦争」だと思うんです。プーチンという個人が頭の中で描いた抽象的な不安や利益あるいは秩序観に基づいて行った戦争ではないのか。そこのブラックボックスがよくわからないところが我々にとっては、戦争の見通しが立ちにくく、理解ができない大きな要因になっています。合理的な国家の意思決定として行った国家の戦争とはだいぶ違っていて、やはりプーチンの戦争と言えるところにかなりの特性がある。何を守るのか、あるいは何が利益なのかといったまっとうな考えとは巨大なズレが存在しています。

 今ロシア国内ではデモや政権中枢の人が辞任を始める事態が起きていることからも見てとれますが、このズレがプーチンの描いている秩序感や安全感、実際のロシアの国家理性や国益との間のズレをさらに大きくしています。これが今回の戦争の奇妙なところであると同時に、理解が難しいところだと思います。今回の戦争は、いろいろな意味で特殊ですが、権威主義体制のもとでプーチンという巨大な権力を集中させた指導者による戦争であって、国民がそこに一体となっていないからこそ、あれだけ次々とロシア兵が戦争を放棄して逃亡してしまうことが起きている。やはり、我々が今まで考えてきた戦争とはまるで違うところがあります。

鈴木 国家理性ではない戦争はあり得るのかという問いは、重要なポイントだと思います。我々国際政治をやっている人間は、戦争は国家がやるものであるとこれまで考えていました。そうでなければ、兵隊が命をかけて戦争の前線に赴かせるために必要になる正義、目的意識、国家として何を成し遂げるのかというビジョン──例えば国を守る。家族を守る。天皇を守るなど、いろいろなかたちがあり得ます──がなければ兵隊を動員できないはずです。今回の戦争には十分な説得力を持ったビジョンが見当たりませんから、合理性の欠如が際立つことになっている。細谷さんがおっしゃるように、プーチンが考えていること=戦争の理屈であるならば、これまで国際政治が前提としてきた合理性がそもそも成り立たないことになります。

 ここで言う合理性にはいくつかの種類があります。まずは国際法に準ずる法的な合理性です。それから経済的合理性です。経済制裁を受けたらジリ貧になるからやめておこうと判断するのは合理的な態度ですが、今回の戦争はそこも飛び越えているところがある。それから軍事的合理性であれば、相手を殴ったら殴り返されることになりますから、痛いのが嫌だから止めておこうと判断するわけです。そもそも抑止行為はこうした経済や軍事的な合理性によって成り立っていたわけですが、それらの合理性が効かない世界がやってきたのかもしれないところがある。もちろんプーチンは例外なのかもしれませんが、この合理性の欠如があからさまになる世界において、今まさに下手をすれば核兵器を使うことも可能性としては考えられている。

小泉 この戦争は、道具立て自体はとっても古臭い、まるで第二次世界大戦のような古いスタイルの軍事侵攻です。それから、大軍が一国の首都を占拠して兵糧攻めにするなど歴史の教科書を見ているようです。市民が地下鉄に避難して電車のシートで寝起きしていると報道されていましたが、これは第二次世界大戦時もモスクワやレニングラードなどでもあったことです。当時は午後6時になったら電車が止まるので、線路の上に出てそこでみんな暮らしていました。大戦中、地下鉄の中で生まれた子どもたちが合計で150人にも上っています。こうした話は昔のエピソードだと思っていましたが、同じことがまた今の地下鉄でも起こっています。プーチンが始めた戦争が時代錯誤なものなので、全体的に時計の針が巻き戻っているかのようです。

 

ロシア国内ではこの戦争をどのように受け止めているのか

小泉 先ほど細谷さんはプーチンが始めた個人の戦争ではないのかと指摘されていましたが、私も似たことを感じています。先ほどのクラウゼヴィッツは戦争の三位一体は、国家と軍隊と国民とも述べています。つまり合理的な政策を追求しようとする国家があって、そのために軍事的に合理的に振る舞う軍隊がある。しかし、合理性だけでは成立しません。熱狂をもってそれを支持する国民という存在がいるから、近代的な戦争は成立するわけです。

 今回のロシアの戦争に当てはめて見ると、まずどう考えても政府が合理的ではありません。明らかにプーチンのトンデモ歴史観みたいなものにドライブされた戦争です。一応ロシア政府という巨大なインスティテューションがあるのだけど、何か高速回転するプーチンと平常モードで動いている政府がまったくかみ合っていない感じがしています。

 それでは国民はどうなのか。国民はある程度プーチンの言うことを信じている人々が多いと私は思っています。なぜなら、公的な情報源がプーチンの言い分しか伝えていないからです。特にテレビとラジオはもう2000年代からほとんど政府の統制下に入ってしまっています。プーチンが90年代にクレムリンの役人になった当時、ウラジーミル・グシンスキーというメディア王とエリツィンが鋭く対立していました。1996年の大統領選の時にグシンスキーに猛烈なメディアキャンペーンを展開されて、エリツィンの再選が危うくなるところを目の当たりにしていたので、メディアを押さえなければダメだという意識をプーチンは強く持っています。ただしネットの統制は遅れていてまだ完全に統制しきれていないので、若者たちはネットを見ています。政府の言うことは嘘だと思っている若い人たちは非常に多いんです。

 ところがソ連時代生まれの中高年層以上の国民はテレビしか見ないしロシア語しかわらないので、結果的に政府の言うことを鵜呑みにして信じてしまう。だから若い世代と話が通じません。親世代はまるっきりプーチンの言うことを信じていて、「この戦争はロシア人を助けるためにロシア軍が頑張っているのだ」と言うので、まったく話が噛み合わない。今同じようなことがロシア中で起きています。

 おそらくロシア国内ではプーチンの言うことをフワッと信じている人のほうが多いのだと思います。ただし、これはフワッとなんです。クラウゼヴィッツがナポレオンの大陸軍グランダルメーと戦って驚いたような、いくらでも献身的に命を投げ出して国家のために戦うといった熱狂が今起きているのかと言えば、そういう感じもしない。だからシリアから傭兵を連れてくるような話になるのだと思います。キエフやハリコフを落とそうとすれば、とんでもない死者が出ることは、ロシアも経験上わかっているはずです。若者たちが、たくさん戦死者になって家族の元に帰ってくることになった時には、この戦争はもたないことをおそらくロシアの人々も気付くのだと思います。

いまTwitterで話題になっていますが、交戦者の名簿を見ていくと明らかにロシア人ではなく少数民族の名前が多いという話があります。おそらく少数民族ばかりを優先的に前線に立たせているというより、軍隊に入ってきてくれるのが少数民族のあまり経済的に豊かでない人たちがばかりという構造なのだろうと思います。これは日本の自衛隊も同じで、地方出身者が多いという構造がありますよね。

鈴木 アメリカの軍もマイノリティが多いですね。

小泉 結局プーチンのルースキー・ミールのようなロシア民族中心的主義的な戦争のために、少数民族が前線に出されて死んでいるわけです。ですから、全体として見るとこれはモダンな戦争というより極めて前近代的な戦争ではないか。王様が大きな野望を抱いて、辺境の民族を動員してやる戦争です。おそらくプーチンはそれを意図しているわけではないのでしょうが……。けれどもそこに極めて近代的なハイテク兵器も投入されているし、第二次世界大戦的な戦い方もしていますから、いろいろな時代が混じり合ったキメラのような戦争という印象を持っています。

鈴木 タイムマシンのような戦争でもある。

小泉 プーチンのやっていることは極めてアナクロだし、彼の頭の中は未だにKGBです。今回の戦争でプーチンは「ロシアには第五列(味方に紛れて諜報活動をする裏切り者)がいる」と言っています。これは1936年のスペイン内戦時に出てきた言葉です。「人民の敵」という言葉も復活しました。日本で言ったら21世紀に「贅沢は敵だ」とか言っている感じですよね。

 

今ウクライナは建国の体験をしている

鈴木 情報の統制や国民の熱狂をつくり出すことは、かつての日本もやってきたことです。メディアも含めて、その過去を反省していたところだと思うんですよね。そうした反省を行ってきたのかどうかはともかく、人類はそういうことをやって第一次・第二次世界大戦で痛い目にあったことをもう忘れているのではないか。情報統制などをしてプロパガンダで世界を動かそうと思っても、結局は悲惨な結果にもなることは歴史に学べば明らかですが、ここにはやはり権力者にとっては何か誘惑があるのでしょうか。

奈良岡 人類社会は必ずしも歴史に学ぶわけではなくて、忘れることも多いのだろうと思います。しかし、原子爆弾を落とした記憶はいまなお強烈に残っていて、それが戦後の核抑止のベースになっていると思います。その点では、日本が核兵器を使うことの悲惨さをずっと訴えてきたことは意味があったのだと思いますし、今後も訴えていかなければなりません。

 合理性が効かない世界がきたのでは、と先ほど鈴木先生がおっしゃいましたが、国家理性が欠如した、終わり方を考えない戦争をしたという意味では、まさに日本が起こした日中戦争、太平洋戦争はそういう戦いでした。今回のロシアの場合は「プーチンの戦争」で個人が決断したのに対して、日本は誰が決断したのかわからない。日本の場合は、戦争の終わり方をまったく考えずに戦争に入り、結局は壊滅的な状態になってようやく終戦に至りました。「プーチンの戦争」はどういったかたちで終わるのか。日本とのアナロジーで考えると、先行きに不安を感じるところです。日本などが起こした過去の愚かな戦争のことをプーチンはもう少し学んでおくべきでした。

 少し目を転じてウクライナのほうに視点を変えてみると、日本では開戦当初から「ウクライナは降参したほうがいい」という評論が目立ちました。ウクライナ人がなぜ戦っているのかをあまり理解できていなかった。それがこの3月後半からは次第にわかってきたし、共感もするようになってきた状況だと思います。日本の歴史を振り返れば、戊辰戦争の際に会津藩が徹底的に戦ったことであるとか、日露戦争の際に──多少は錯覚が入っていたところもあるかもしれませんが──日本がロシアの南下政策に民族の危機を覚えて立ち上がったことと重なるところがあると私は感じています。

 ウクライナという独立したばかりの若い国家が国家の存立をかけて立ち上がっている。自分たちが立ち上がらなければ国家が滅びるという覚悟でウクライナ人は戦っているわけです。今の日本の国家のあり方では、こういう戦い方はもう難しいのではないか。ウクライナがなぜ戦っているのかをようやく日本人は理解しつつありますが、はたして日本が将来攻められたときに同じ戦い方ができるのかと言えば、到底無理だろうと感じています。国家や民族の発展の段階に応じて可能な戦争の戦い方がおそらくあるのかもしれません。今のウクライナの戦い方を見ていると、100年前、150年前に近代国家として立ち上がってきた頃の日本と似ているように思います。

小泉 今ウクライナは建国の体験をしている最中ですよね。皮肉なのは、その建国の体験を提供しているのがプーチンだということです。あれだけウクライナのアイデンティティを軽視していたプーチンが戦争を始めた結果として、ウクライナ人が共通の建国体験をしている。歴史的に見れば、ウクライナが今のようなかたちで「一つの国家を持ったことがない」というプーチンの主張は正しいんです。実際いろいろな帝国の端が集まって今のウクライナになったわけです。それが2014年のクリミアでのロシアの最初の侵略という事態に対して、ウクライナ政府は全土から満遍なく人間を動員してドンバス地方の戦場に送っています。今回は全土が攻められているため国民が一丸となって戦っています。これまでは地域ごとに政党があり、それぞれのバックにオリガルヒ(新興財閥)がいるバラバラな国家でしたが、戦争が起きたために一気に一体感が生まれている。

鈴木 ゼレンスキー大統領は「この戦争は独立戦争だ」という言い方をしていました。形式的にはソ連の崩壊でウクライナは独立していますが、ようやく今国家になったという自覚を強く持ち始めたのだと思います。まさにこれからつくっていく国家で、日本の明治時代によく似ていますよね。明治時代の日本は黒船がやってきて、外からの圧力が国家統合を進めた経緯があります。当時は若かった日本も今や150歳を超える年齢になってきましたから、今のウクライナにある自国を外圧から守るという熱気は今の日本では得にくい雰囲気があります。とは言え、周辺では中国が台頭し、北朝鮮がICBM(大陸間弾道ミサイル)の発射成功を発表するなど安全保障環境の変化はある種の外圧として効いてきています。2015年には細谷さんも制定に関わられた平和安全法制も成立して、集団的自衛権を行使する際の条件の一つとして国家の存立に関わる問題を意味する存立危機事態を設定してあります。日本が置かれている危機的状況に対して自覚を持ち始めてきている。

 その一方で、日本には依然として安保環境への認識が変わらない人たちが一定数います。細谷先生はまさに「ウクライナは降参しろ」と主張している人たちとTwitter上で議論していましたが、今の日本のああいう感覚で自国の存立を守れるとお考えでしょうか。

 

「22世紀の世界」にいる日本

細谷 プーチンが「19世紀的な国際秩序観」で戦争を開始したのだとしたら、日本は「22世紀の世界」にいるのだと思います。つまり、国家がもう存在していない世界です。著名人までもが「外国が攻めてきたら逃げればいい」と主張しています。世界がナショナリティに基づいて形成されているにもかかわらず、国境線や国家が悪であるという観点で「戦わずに逃げればいい」と言っているのです。まるで国境を越えたら優しい国が「ようこそおいでくださいました」とおもてなしの精神で迎え入れてくれるのだ、という考えで世界を見ているかのようです。

 そもそも、国民が国家を守る意思を失うと国家は成り立ちません。湾岸戦争の頃に国際政治学者の高坂正堯先生が、国が占領されても、国民の間で国家を守るという意思が残っていれば、国が再建できる。しかし、国民がもはや国を守る意志を失ってしまうと国家の存続は難しくなる、といった趣旨を怒りを込めて書いていました。現状ではウクライナと日本が真逆の国家観を持っていますよね。国を守るために多くの若者が立ち上がったウクライナに対して、日本人は国を守るという意識自身がかなり薄い。さらに日本には、自分たちで自国を守ろうという使命感の持っているウクライナを支援することですら悪と見なす人たちもいます。自分たちが国を守る意志を持っていないだけでなく、他の国民にまで「国を守る意志を捨てろ」と要求しているのです。これは非常に22世紀的だと思いますね。

 一方で、こうした日本的な考え方は先進国では浸透しています。田中明彦先生が『新しい中世』という本の中で、世界はポストモダンな圏域、近代の圏域、それからカオスの圏域という三つの圏域に分かれている、と論じていました。日本や多くの西洋諸国がポストモダンの圏域にいるのに対して、ロシアや中国は明らかに近代的な圏域にいると。ここには深い断絶があります。そして、これからの世界秩序を考えると、近代的な圏域にいる中心的な大国二つがロシアと中国だとすると、この二国は19世紀的な勢力圏を確立し、可能であればその勢力圏を膨張させようとします。ヨーロッパも日本も外国が侵略してきた時には「逃げよう」ということになってしまったら、自ずと中国やロシアの勢力が拡大してしまいます。

 期せずしてドイツを始めとするヨーロッパ諸国が、今回覚醒したわけです。ヨーロッパ諸国は近代的な国防の意識を取り戻すと同時に20世紀的な、つまりは集団安全保障や集団防衛でいま対抗しようとしています。今回で言えば、常任理事国の安全保障理事会が機能しないのなら、国連でウクライナ侵攻は人道的な危機だという決議を出すことでロシアを非難しました。それと同時にフィンランドやスウェーデンなどはNATO加盟という集団防衛──これも私は20世紀的な制度だと思います──によってロシアに対峙しているわけです。これは国連憲章51──国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない──に基づいて自分たちの安全を確保する措置です。ですから、いま安全保障の認識について革命的な変化が起きています。

 第一次世界大戦後のヨーロッパは、国際連盟を発足させケロッグ=ブリアン条約をつくり戦争の違法化という方向へと進んでいきました。ところが、日本はその歴史認識を共有していなかったので、帝国主義的な発想のもとで満州事変を引き起こし、軍事行動に突き進んでいくことになった。ですから今のウクライナ危機おいて、第一次世界大戦後のように欧米と日本の間にある温度差がこれからどう影響を与えるのかは、重要なポイントだと考えています。さらに言えば、その温度差を埋めるきっかけが先日のゼレンスキー大統領の日本の国会での演説だったかもしれません。あれを聞いて、自分たちとは関係がない人々の問題という姿勢が少しずつ連帯の方向に動いた印象を持っています。

鈴木 日本が目覚めるかどうかは、今後の大きなポイントですね。少なくとも日本は目覚める以前に、国民国家という意識がないスーパーポストモダンな状況にいます。ただロシアや中国という19世紀的な国がお隣にいますから、22世紀的な世界観のなかに居続けることは難しいわけです。ドイツがまさにご近所で起きたウクライナ危機で目が覚めて、軍事力強化という方向に行きました。一方で、ドイツの覚醒を周辺国は素直に受け入れることができないニュアンスもあります。先日フランスの研究者と話したのですが、「ロシアを抑えるためにドイツに頑張ってもらいたいが、ドイツが防衛費を増強したり武器を輸出したりするのは嫌な感じがする」と言っていました。やはり、歴史は繰り返すという恐怖感が染み出てきていますよね。

奈良岡 覚醒という言葉はまさにポイントだと思います。日本はウクライナ危機を契機に考え直すべきことがいろいろあると思います。例えば、日本のコロナ禍への対応は死者や感染者数から見れば、割とうまくやってきたと言えると思います。しかし、それは国民が自己抑制をしてとにかく死なないことを最重要視して、縮こまって周囲に過剰なまでの忖度を繰り返して対応してきたからです。しかし、感染力は強いが毒性は弱いオミクロン株の感染が拡大するタームに入りようやく、対応の過剰さに気づきつつありました。そのタイミングで今回の戦争がやってきて、急にコロナ禍への関心が薄れていますよね。ですからコロナ禍への対応を総括するとともに、日本人の意識を変えるきっかけになることを期待しています。

 私が現代の日本人の意識に関して気になっているのは、死生観が欠如していることなんです。多くの日本人は、ただ死ぬことは恐ろしいと考え、「なぜ生きているのか。生きているだけでいいのか。死ぬとはどういうことなのか」などということを、切迫感を持って考えてこなかったのではないか。この機会に、ここ数年間のコロナ禍における死生観のあり方とともに、こうしたことをもう一度考え直してほしいと思います。ウクライナの若者たちは、国家として、自立した民族として生き残ることを、死を賭して考え、戦っています。私たち日本人も、人間としてどう生きるかを国のあり方とともに考える気概を今一度持つべきだと強く思いますね。こういうことを言うと「右翼的だ」と批判されたりもしますが、その雰囲気が強すぎて、思考することすらためらわれる社会はいかがなものかと思います。

 また明治の話になりますが、数年前に150周年を契機に、明治維新を再び捉え直す試みが盛り上がったことがありました。その中で気になったのは、「明治維新は日本が帝国主義化し、戦争を始める出発点だったので間違っていた」とか、「その元凶は吉田松陰やその教えを受けた弟子たちにある」などという言説が一部の人たちの間で広がったことです。確かに松陰は「必戦論」を唱えているのですが、国を守ろうとする志士たちの気概が大事だということを一番言いたかったのであり、戦争すること自体を目的としていたわけではありません。日本はそうした精神論が悪いかたちで影響して、第二次世界大戦に邁進していった歴史があるので、その危うさを無視することはできません。けれどもやはり、国家や社会を守る上で、精神論は大事です。今回のゼレンスキー大統領は「平時のリーダー」としては不十分なところもあったのかもしれませんが、「戦時のリーダー」としては非常に優秀だと思います。ゼレンスキー大統領は精神論を大切にし、国民が自国を守るという意識を高めていきましたが、有事における精神主義の重要性を今回感じました。こうしたところをしっかり押さえた上で、憲法改正や脱原発の見直し、あるいは難民の受け入れ政策など、今日本が直面しつつある重要な論点に向かっていく必要があると思っています。

鈴木 戦後の日本では、第二次世界大戦のような悲惨な出来事を繰り返してはいけないという戦争に対する絶対的な忌避感があって、それが「死なないことが何よりも大事」という日本人の死生観に繋がっているのだと思います。戦争=死という考えが根強くあります。なので、戦争に反対するにしても「どの戦争に反対で、どのような条件だと戦う必要があるのか」などの議論を飛ばして、条件反射的に「戦争は悪いことだからやめよう」という話になってくる。

 だからこそ、国民を鼓舞するゼレンスキー大統領に対して降伏を求める声が出でくる。先ほど細谷さんは、ゼレンスキーの国会演説が日本人と諸外国との温度差を埋める可能性があると指摘されていましたが、私は戦後70年以上日本人が持ち続けた感覚はそうすぐには変わらない気がしています。ウクライナは直接戦争をしています。人が実際に死ぬ状況を目の当たりにすれば、バラバラだった国家もすぐに一つになるくらいの衝撃があります。けれども、日本の場合は死者が出たわけでもありませんから、他人事感があります。遠い向こうの世界で起きている話という受け止め方をしている感じもなきにしもあらずではないか。

 ただ奈良岡さんがおっしゃるように、我々日本人は「人間はなぜ生きているのか」を問い直さなければならないことに薄々気がつき始めているのかもしれません。完全に目覚めてはいないが、目覚ましが鳴っていることには気が付いているような状況にいるのかもしれません。その点ロシア人はこの根源的な問いに対してどのような世界観、生命感、死生観を持っているのでしょうか。ウクライナは自らの存立を懸けて必死に抵抗する戦いをやっているわけですが、戦いを仕掛ける側のロシアの精神性はどうなのでしょうか?

 

ユーラシアの独裁者の間でエコーチェンバー

小泉 難しい質問ですね。ロシアも自国の存立がかかっていると本気で信じていると思います。冷戦後のロシアでは、アメリカが世界を操っているという陰謀論が長らくありました。確かにアメリカが国際社会で大きな権力を握っていることは事実ですが、ロシアは自国の都合のいいように何でもアメリカのせいにしてきました。例えば、「1998年にルーブルが暴落したのはアメリカのせいである」とか「実はアルカイダもイスラーム国もアメリカが裏から操っている」とか。アメリカは天狗のような存在になっているんですね。ロシア政府や情報機関にとってみれば、これは使い勝手がよくて何が起こってもすべてアメリカに責任を転嫁できるし、アメリカに対抗するために国を一つにまとめることもできる。

 しかし、このプロパガンダを何度も使っていくうちに、ロシアが自分でついた嘘に染まってしまった感じがあります。特に2010年代の「アラブの春」以降はそれが加速していきました。2011年の秋には、ロシアの下院選に対する不正疑惑で過去最大規模の反体制デモが国内で起こります。プーチンは、「アメリカが裏から手を回していろいろな国の政府を潰している。次はロシアがやられる番なのでは」という恐怖を抱いたと言われています。ロシアが自国で作り上げた「アメリカは絶対的な悪である」という嘘に自家中毒してしまって、恐怖に支配されてしまったところがある。

 2014年のクリミア侵攻では西側との関係が悪化し、経済制裁を受けることになります。我々からすればロシアが悪いことをしているから抑止するためにやっているわけですが、これが「アメリカの覇権に挑戦しようとする強国ロシアを弱体化するための陰謀が仕掛けられている」と解釈されてしまう。ロシアの国家安全保障戦略や軍事ドクトリンにも、ロシアを弱体化しようとする陰謀があるとはっきり記載されているほどです。そうなると、何をされてもすべてロシアにとって気持ちのいい物語に回収されていき、その結果どんどん現実が見えなくなっていったのではないでしょうか。今回プーチンは、「ウクライナがNATOの手先になるとモスクワまで5分で届くミサイルが配備される」とか「核兵器や生物兵器をつくっている」と主張していますが、これが戦争を始めるための方便なのかプーチンが本気で信じているのか、微妙なところだと思います。

 冒頭でもお話ししましたが、プーチンは今回の侵攻を「特別軍事作戦」と呼び、国連憲章で禁じられた戦争ではないと主張しています。ただベラルーシのルカシェンコ大統領はインタビューで堂々と今回のウクライナ侵攻を戦争といいました。実際プーチンから見ても、ルカシェンコから見てもこれは戦争です。戦争をしないと自国がやられるという自分たちでつくり出した強迫観念的な物語があるように感じています。さらに言えば、ユーラシアの独裁者の間でエコーチェンバー(反響室のように限定空間で自分と同意見を見聞きし続けることで自分の意見が増幅・強化される現象)が起きている気がしています。こうしたトンデモな陰謀論をプーチンだけではなくて、ルカシェンコや習近平、中央アジアの独裁者たちが皆で言い合うことによって、彼らの中で妙に真実味が増してしまっているのではないか。

細谷 いわば、「陰謀論のグローバル化」が進んでいて、独裁国家間だけではなくて、欧米や日本にまで浸透していると思います。私がTwitter上でロイター通信やBBCのニュースを引用するかたちで意見をつぶやくと、「それらはすべて間違っているから、このYouTube動画を観て勉強しろ」と応答してきて、陰謀論を展開するチャンネルを紹介してきたりする(笑)。先進国や自由民主主義諸国の間でも陰謀論はかなり浸透しています。これは長期的には国際社会的にかなり危ないことなのではないか。世論調査の結果とはまったく違いますが、SNSでやり取りをしている感覚からすれば、なぜこれだけロシアを支持する人が多いのだろうかと怖くもなります。「ウクライナのネオナチが悪い」という意見が結構ある。

小泉 2014年にウクライナで政変が起きた当時は、政権内にかなり怪しい人々がいて、特にネオナチ的な人もいっぱいいたんですよね。陰謀論に影響されやすい人たちは、未だにこのことを金科玉条のように掲げています。「悪いネオナチのやつらがいて、そいつらと戦うプーチンのほうが正しい」といった話のほうに行ってしまいがちですよね。ロシアにもQアノン(アメリカの極右が提唱している陰謀論とそれに基づく政治運動)的な人たちがいますが、彼らの場合はもっと世界が完全にぶっ飛んでしまっています。「悪の勢力が子どもたちの脳髄を啜っていて、光の戦士がそれと戦っている」といった世界なんです。彼らの中では、プーチンとトランプはともに光の戦士としてディープ・ステイト(闇の権力層)と戦う英雄になっているんですよね。あまりのアホくささに驚きますが、それなりの規模の数の人たちが信じているわけです。

 私は今回ウクライナ問題について多くのメディアで発言をする機会を持ちましたが、ずいぶんいろいろな反応がありました。ロシアに対してウクライナが抵抗することを肯定することで、左派の人たちから怒られることは予期していました。それから「ウクライナはNATOの手先だ」といった主張をする人が日本に意外といることも予想していました。けれども驚いたのは、明後日の方向から弾が飛んでくることが多いことです。要するに、「ウクライナの政権はアメリカのディープ・ステイトとつながっている」といった荒唐無稽な陰謀論ですね。

 どうも今の日本社会には、既存の秩序を信じようとしない層が一定数いますよね。大学の先生がNHKでするようなお行儀のいい話を「何もかも嘘だらけに決まっている」とか「ムカつく」と言って情報を受け付けない。彼らはオルタナティブな事実を知りたいという欲求があって、むしろ陰謀論に積極的に飛びついてしまう。「ウクライナの政権はネオナチだらけ」とかディープ・ステイトでも何でもいいんですが、彼らにはそういう話がすごく響くんですよね。

 今回ロシアがバラまくデタラメな話が簡単に響いてしまう構造を目の当たりにして、日本が有事になったらどうなるのだと心配になりました。ですから、次の国家安保戦略には「情報空間の安全保障」という概念をきちんと入れるべきではないかと本気で思うんですよね。

 

「厨二病」的な世界

鈴木 陰謀論は平和な社会でなければ、影響力を持ち得ないと思うんですよね。今のウクライナのように目の前でビルが爆破され、死者が出てくる圧倒的なリアリティの前では陰謀論がはびこる余地がない。この生身のリアリティがウクライナを一つにしているわけです。今の日本のように、どこかに不安はあるけれども平和が続いていて恐怖が目の前に迫っていない状態でこそ、でっち上げられた情報がエコーチェンバー的に増幅していくのではないかな。だから、有事の対応とは前提が少し違う気もします。

小泉 メカニズムはおっしゃる通りだと思います。ウクライナの場合は、目の前にロシア軍の戦車が迫っているから否応がないわけですが、日本で有事が起きるとすれば、まずは南西諸島のずっと遠い目に見えないところでいろいろなことが起こるわけですよね。その時には、日本や国際社会の反応は、その遠く離れたよくわからない海域で起こっていることを解釈する人々がナラティブをつくることで形成されていくのだと思います。そうすると、やはり圧倒的な現実というよりも、想像力が入り込む隙間が大きい気がするんです。有事対応に情報空間の安全保障という言葉を使うかどうかは別ですが、この問題への認識は重要性を増していると思います。最近は自衛隊もよく「認知領域」という言葉を使っていますが、新しい国家安保戦略にもそれを確認するような一言があったほうが、現場は動きやすいのではないかという気がするんです。

細谷 日本の場合は、首相経験者が率先して、陰謀論に加担しかねないところがありますよね(笑)。その元首相は2014年のクリミア併合に際して、「歴史上これほどまでに平和的に領土問題を解決したことはない」と発言しました。そのような認識でいるのですから、もしも南西諸島で有事があれば、安易に陰謀論に乗っかって、「これはアメリカの自作自演だ。騙されてはいけない。日本国民は断固として日中の友愛で対抗せよ」というように、中国を擁護しかねない。困ったことは、彼のそうした発言に「いいね!」を押して賛同する人がかなりいることです。

 やはり日本では、反米意識は根強くありますよね。学生運動をやっていた団塊の世代だけではなくて、それ以降の世代でも一定数の支持があります。それはイギリスやフランスでもそうなんです。背景にあるのは、やはりイラク戦争です。あの戦争でアメリカに対しての信頼感は、かなり低下したのだと思います。ベトナム戦争や冷戦時代を通じて反米感情はありましたが、それ以上の水準で日米同盟が重要であり、国際社会においてもアメリカはやはり公共財が提供しているという認識がありました。それがどうも冷戦後のアメリカの驕りとイラク戦争の挫折の結果、いわゆる中国やロシアが撒くような、アメリカ陰謀論が浸透する素地ができてしまっている。

鈴木 自分だけが真実を知っていると思えるのが何か楽しいのだろうし、おそらくはそこに自分にとってのヘンな優越感があるのではないかと感じています。小泉さんは、ユーラシア大陸のエコーチェンバーとおっしゃいましたが、独裁者たちもみんなどこかで劣等感があって、彼らは冷戦後の世界でアメリカに不利益を押し付けられているといった被害妄想がありますよね。本当は自分たちに停滞の原因があることが多いのでしょうが、劣等感に苛まれながら生きているのが嫌だという感情が優って、誰かのせいにしないと生きていけないところがある。そういう何か「厨二病」的な世界が今やってきている気がしています。その一人がプーチンなのでしょう。下手をすれば彼が突如として、核兵器のボタンに手をかける可能性まで懸念されている。そういうポスト・トゥルースや陰謀論の問題が顕著になっていることと、リアルな物理的な破壊の話とが強固に重なっているような気持ちの悪さを感じています。

小泉 確かに世界が厨二病的になっている感じはわからなくもないですね。私は中学生の時に『新世紀エヴァンゲリオン』を観ていた世代ですが、この話では内面で抱える思い込みや感情などが世界のありようそのものと繋がっているわけです。当時は、その手のジャンルを「セカイ系」という言い方をしていたんですよね。中学生の時にセカイ系を観ていた私たちの世代も、40代になっていい大人になってくるわけですが、未だにセカイ系的な世界観を引きずっているのかもしれません。日本でも厨二病的な世界が現実として到来しつつある感じはありますね。

 

中国の存在感はさらに大きくなる

──今回の事態を中国がどのように受け止めたのか気になります。日本の心がまえも問われます。

奈良岡 2月24日以降、中国中央テレビ(CCTV)の国際ニュースをよく観ていますが、世界観の違いにたいへん驚いています。開戦当初が一番本音に近い見方がはっきりと出ていたようで、ロシア支持を明確にしていました。西側の陰謀でアメリカがウクライナを焚き付けているといったストーリーに沿って報道が行われており、ウクライナはそもそも国家としては不完全な地域である、国内は荒廃しており、ウクライナからの挑発で戦争が起きた、悪いのはすべてウクライナ側だといった論調でした。軍事行動の実態についても、事実が全然報道されていません。

 私がびっくりしたのは、中国の若い人たちに本当にそれを信じていて、開戦前のプーチンの演説に「感動した」と言う人がかなりいたことです。元々プーチンは中国で人気があるのでそういう人が一定数いてもおかしくありませんが、ロシア製品を買う運動まで起きたことにはショックを受けました。一方で、ゼレンスキーを応援する人もいます。特に日本にきている中国人の中にはそういう人は結構多いのかもしれず、日本でデモに参加している若者もいます。ですから一概には語れませんが、やはり日本人の平均的な考え方とは大きく異なる見方で世界を見ている中国人が多いことは、心しておかなければならないと思いましたね。

 日本の今後のロシアへの対応については、やはり北方領土交渉とサハリンの問題はよく考えなければならないでしょう。北方領土交渉ではロシアは常にタフな態度をとってきていて、安倍政権でもそれを突き崩せなかった。今は安倍外交をどう総括するのかというところにきていますが、安倍外交にかなり厳しい見方をする本がいくつか出版されています。他方で安倍さんを支持する知識人やジャーナリストからは、それへの反論も出されていて、評価はなかなか難しいところがあります。当面北方領土交渉は事実上の凍結でやむなしだと思いますが、いずれは平和条約の交渉も再開し、やはり領土問題も解決しなければなりません。長期的にどういう戦略で臨んでいくべきなのか。ある意味では、この30年の動きを総括して戦略を練り直す良い機会なのかもしれません。

 ロシアもそれなりに日本に配慮してきたところがあって、北方領土に中国や韓国などの投資を積極的に呼び込むことはしてこなかったんです。サハリンでは、日本はサハリン1、2の権益を持っていて、天然ガスを輸入しています。もし日本が英米と同じように撤退することになれば、間違いなくそこに中国が入ってくると思います。サハリンの経済協力は、日本は北方領土交渉の法的立場を崩してまで進めてきており、ユジノサハリンスクに総領事館まで置いています。サンフランシスコ講和条約で千島列島と南樺太は日本から分離されたが、最終的帰属地は決まっていないというのが日本の立場ですから、北方領土交渉における法的立場との整合性をとろうと思えば、総領事館を置くのも、権益をとりに行くのも本来はおかしいわけです。

 けれども、そうした整合性を崩してまで経済協力をしてきました。それは資源確保のねらいもありますが、将来北方領土が返還された後のことを想定した準備でもあって、日露の経済協力を進めておいたほうが良いという判断があったわけです。今回の件でそれを反故にすべきかどうか、とても難しい判断が求められることになります。ましてやそこに中国の問題が絡んでくるとなると、複雑な方程式をしっかり考えなければなりません。

細谷 今回の件で、今後のロシアが経済的にも軍事的にも衰退することは間違いないと思います。そして米中対立の構造の中で、中国の存在感はさらに大きくなると見ています。アメリカが衰退していることに加えて、期せずしてロシアも凋落することになった。世界経済で言えば、これから欧米諸国が大きく経済的に混乱することがあれば、もしかしたら中国の影響力が増した2008年のリーマン・ショックのときと同じようなこと考えているかもしれません。日本は、中国との経済的な結びつきが強いわけですが、今後さらに経済的な影響力を増してくることに、日本は留意しなければならないかもしれません。東アジアにおいては、中国は戦略的にもより優位な地位に立つ可能性がありますから、台湾との問題、日本との関係性は難しくなってくる可能性があります。さらには今回のウクライナ戦争が終わった後には、中国は西側諸国とロシアの間に立って戦略的に優位な地位に立って、まさに戦争を調停する役割をするかもしれません。世界経済が大きく混乱している状況になっていれば、中国がそうした役割を果たしながら、さらに存在感を増す可能性もあります。米中競争でも優位に立ち、台湾問題や尖閣諸島の問題でより圧力をかけてくる懸念もあります。危機感を煽るようですが、そうした可能性があることを日本はきちんと考える必要があります。

小泉 最後にロシアについて一言だけ申し上げさせてください。今回の戦争は、単にロシアが戦争に勝てないだけではなくて、プーチンの権力基盤を脅かす可能性があります。一部のリベラルな国民が戦争に反対しているだけでなく、オリガルヒの何人かも公然と「戦争を早くやめてくれ」と言い出しています。結局、制裁と個人制裁で彼らのビジネスや資産額は左前になっているわけです。これまではプーチンの軍事政策にオリガルヒが声を上げることはなかったんです。そういうことをしない代わりに、お前たちは国内で利権を好きなだけむさぼっていいというのがプーチンとオリガルヒの契約だったわけです。それが、プーチンが滅茶苦茶な戦争を始めたために、オリガルヒたちはそもそも利権を貪ることもできなくなっている。彼らからすれば、「話が違うではないか」ということになっている。こうした反応が拡がっていくと、プーチンを担がなくなる可能性が出てきます。

 これだけプーチンの権力基盤が揺らいだのは初めてではないでしょうか。つい先日もアナトリー・チュバイス大統領特別代表が辞任して亡命しました。エリツィン後もずっとプーチンのアドバイザーを務めてきた人物からも愛想をつかされた。中央銀行のナビウリナも「辞める」と言いましたが、プーチンに慰留されて残ったそうです。あまりに時代錯誤な戦争を始めたためにプーチンの側近にも見切りを付ける人物が出始めている。

 もう一つ心配しなければならないのは、何が何でも戦争には勝ったことにするために核兵器や化学兵器を使用する可能性があることです。それから国内に対する反発を抑えるため、独裁化をもっと強めるかもしれない。あるいは仮にプーチンが倒せたとしても、その後にやってくるロシアが我々が期待するような民主的なロシアであるかどうかはわかりません。もっとずっと過激な連中が政権を握るのかもしれないし、90年代のような混沌としたロシアがやってくるのかもしれない。紛争が起きる可能性もあります。いずれにしてもプーチンがこの戦争を始めた時点で、やってくるのは軍事的なものすごいエスカレーションか、弾圧か、さもなければロシア自体がカオスに陥ることはもう決まってしまっています。

 我々日本にとって大事なのは、同じことが日本の周りで繰り返されるようなことがあれば、本当に過酷な状況になること、そして抑止が破れることでもたらされる事態を今回のウクライナでしっかりと見届けることなのだろうと思います。 (終)

 

 

鈴木一人・東京大学公共政策大学院教授
すずき かずと:1970年生まれ。英国サセックス大学ヨーロッパ研究所博士課程修了。筑波大学大学院人文社会科学研究所准教授、北海道大学公共政策大学院准教授、同教授などを経て、2021年より現職。13年12月から15年7月まで国連安保理イラン制裁専門家パネルメンバーとして勤務。著書に『宇宙開発と国際政治』など。

 

細谷雄一・慶応義塾大学法学部教授
ほそや ゆういち:1971年生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程修了(法学博士)。オランダ国立リンブルグ大学(現マーストリヒト大学)、英国バーミンガム大学留学。北海道大学大学院専任講師、慶応義塾大学准教授などを経て2011年より現職。著書に『戦後史の解放1 歴史認識とは何か──日露戦争からアジア太平洋戦争まで』『国際秩序』『論理的な戦争』など。

 

奈良岡聰智・京都大学大学院法学研究科教授
ならおか そうち:1975年生まれ。京都大学大学院法学研究科博士後期課程修了。博士(法学)。専門は日本政治外交史。京都大学法学研究科助教授を経て2014年より現職。著書に『対華二十一ヵ条要求とは何だったのか』『加藤高明と政党政治 二大政党制への道』『「八月の砲声」を聞いた日本人──第一次世界大戦と植村尚清「ドイツ幽閉記」』など。

 

小泉 悠・東京大学先端科学技術研究センター専任講師
こいずみ ゆう:1982年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修了。外務省国際情報統括官組織専門分析員、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所客員研究員、東京大学先端科学技術研究センター特任助教などを経て2022年より現職。著書に『「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略』『現代ロシアの軍事戦略』筑摩書房』など。

 

最新の記事はこちらから