『公研』2020年8月号「めいん・すとりいと」
待鳥 聡史
新型コロナウィルス感染症の流行が続いている。さまざまな情報が錯綜しているが、少なくとも当面は、特効薬やワクチンが作られて一件落着とはならないようだ。
パンデミックの日々が予想以上に長引いていることから、さらなる流行抑止のためだけではなく、ウィルスとの「共存」をめざして、多くの提案がなされている。政府肝煎りの「新しい生活様式」はその代表だが、人間のリアリティからはいささか遠い印象も受ける。
さらに、個々人のミクロな行動変容を求めるものだけではなく、よりマクロな変革を求める声もある。パンデミックを機に積弊を一掃し、社会経済の構造変革を、ということであろう。いったんは頓挫したが、学校を9月入学に変えようという
動きは、その典型例である。テレワークを主流にして通勤やオフィスを大幅に減らすべき、といった主張も見られる。
災い転じて福となすという故事成語があるように、危機を好機にという発想は人類の歴史と同じくらい古いのだろう。
しかし、今回のコロナ禍を構造変革、すなわち「世直し」につなげるという話は、どうやら見込みがなさそうに思われる。世直しを実現するために必要な、目標の共有がなされていないからである。
日本の場合、幕末開国期から今日に至るまで、大きく3回の構造変革期があった。明治維新と近代国家の確立の時期、第二次世界大戦直後の時期、そして冷戦終結・バブル崩壊直後の時期である。
いずれの場合にも、政治行政や社会経済にとって所与の環境条件が大きく変わり、日本社会に生きる人々が従来とは異なった目標に向かって行動する必要性を認識したことによって、大規模な構造変革が進められた。
今回のパンデミックはどうだろうか。国際政治経済秩序などの環境条件に何らかの変化が起きることは予想されるが、それに適合的な目標が何になるのかはまだ見えてこない。「ポスト・コロナ」といった言葉はあちこちに踊っているが、それは時間的に「パンデミックの終息後」を指すだけで、具体的な内実を伴っているわけではない。
このような状況下では、構造変革は大きなコストとリスクを伴うと認識されやすい。9月入学への変更などはまさに当てはまる。推進の理由として国際化対応が挙げられるが、国際化やグローバル化を望ましいとする立場そのものがパンデミックにより侵食されているときに、その立場を前提にした大きな変革への支持は集まらないのは当然であろう。
他方で、だからといってミクロな行動変容が可能なのか、可能だとしても何をもたらしてくれるのかは疑問である。通勤は普段通り、だが会食は横並びで、といった習慣が根付くとは思われない。かと言って、近いうちに何ごともなかったかのように社会や経済が動き出すと決めつけることもできない。こうした不確実性に、今回のコロナ禍が生み出す重苦しさの大きな理由があるのかもしれない。
こんなときこそ必要なのは、目標がはっきりしないまま世直しを謳うことよりも、その前提となる世界の大きな動きを考えていくことなのだろう。部分の細密画ではなく、総合知に基づくラフスケッチが求められる時代と言ってもよい。それは、大学の世界ランキングとも国際的な学力調査とも無関係であり、日本の教育や学術研究が最も不得意としてきたことかもしれない。その意味では、これからがまさに正念場なのである。京都大学教授